曖昧トルマリン

graytourmaline

ジャックナイフ

 シリウス・ブラックは禁じられた森にいた。早くこの場から一時的に退却した方がいい、そう思っていても、体が動かない。
(犬の姿になれただけ……少しはマシか)
 この森にも、数匹の吸魂鬼が徘徊していたが。この姿ならば多分、奴らは襲ってこない、それに今ごろは城の方に呼び集められただろう……そう考えて彼は膝を折った。
(ピーター、小賢しい奴だ!)
 真の裏切り者を殺し損ねた事に、彼は苛立った。しかし、その苛立ちも何度も続く茂みが掠れる音から生まれた警戒心に捻じ伏せられる。
 明らかに獣ではない歩き方の、人間もしくは吸魂鬼がやってきたようだ。見つかるはずがない、見つけれるはずがない、彼は自分にそう言い、四肢を強張らせ気配を消す。
(何故、ここに?)
 彼の嗅覚がかぎ分けたのはよく知ったオレンジ色の猫と、血と煙草が混ざった匂い。
(誰だ? 一体誰を連れてきた)
「……う……さん。……教え……助かった」
 声の主は若い男性のようだった。黒い長髪、全身を黒いローブで覆っていて少し華奢な体つきをしている。ホグワーツに勤める教師だろうとあたりを付けるが、その教師を連れてきた理由が見当も付かない。
 クスックシャンクスはその男性の足に体を摺り寄せて、親しげな視線を送ってから城の方へと歩き出した。
「さて……」
 男がシリウスのいる方に体を向けた。ある程度の気配を消していたにしても察するのはそうそう簡単な事ではなかったはずだ。
 彼の手に杖が握り締められているのが判った。
(闇祓いか……!)
 シリウスはゆっくりと立ち上がり、逃げるタイミングを窺った。
 人間が犬に追いつくはずがない。ましてやここは森の中だ、タイミングさえ間違えなければ簡単に逃げ出せる、はずだった。
「出て来い、ブラック」
(……まさか、まさか?!)
 以前のように心地よく響く少年のものでなく、冷徹な大人ものに変化しようともシリウスの聴覚はそれがだと脳に伝え、それにより混乱が生じる。
(なぜがここに……!)
 このまま逃げようとしても彼はから逃げきれる自信がない。彼は豹のアニメーガスに変身する事が出来る。スピードでは勝負にならない、それでも、それでもやるしかないと全身の筋肉を強張らせ、城に背を向けて一直線に走り出す。
「……逃げたか」
 獣の脚力を駆使して一瞬で遠ざかる影を目で追いながら、も仕方なく自身の姿を変化させる。頭の天辺から爪先まで漆黒一色で彩られた黒豹は夜の森を走り出し、匂いを頼りに犬の姿を追った。
 元来の種族の差と体力により、豹は犬の姿をすぐに捉え、追い付き、そして隙だらけの腹部に襲い掛かる。骨と皮ばかりの体は簡単に倒れ、気を失ってしまった。
 想像以上にあっけなく捕らえることが出来た犬をしばらく眺めていたが、弱った獲物の気配を察してか夜行性の魔法生物の気配が近付いてきている。仕方なく、豹は犬の首根っこを咥え大木のウロの中へと引き摺り上げた。
 自身が変身を解いてもシリウスは当然犬のままで、しかも無駄に巨大だった。
 何故自分がこんな事までと表情を歪めるが、他にどうしようもないので強制的に犬から人間の姿に戻らせ、所持していた杖を奪い、壊してから手持ちのブランデーを無理矢理飲ませる。
「……?」
 間抜けな面で起き上がったシリウスには脱力する。面倒をかけるなと以前の調子で騒ぎ立ててしまいそうで、大きく舌打ちしてから咽喉元にナイフを突きつける。
「ブラック。あの日、一体何があった」
 僅かに皮膚にめり込んだ部分から赤い血が流れた。しかしシリウスはその小さな痛みに怯える事無く、まっすぐとを見つめ呆けた表情で言った。
、綺麗になった……信じられないくらい」
「よし、死ね」
「ごめん待ってくれ悪かった謝るおれが悪かった質問に答える!」
 ホールドアップして慌てて謝るシリウスを見ては眉間の皺を伸ばす仕種をする。これが世間で恐れられている脱獄犯というのだから頭も痛くなるというものだ。
 本来ならここで首を掻っ切れば仕事は終わり、少しもしない内に日本へ帰りまたあの日常へ戻るはずだった。しかし目の前のこの男を見ていると事実無根、冤罪という言葉が浮かんでくるのだから仕方ない。かなりの高確率だが、もしもそうであれば仕事の内容自体が変わってくるのだ。
「お前と居ると調子が狂う」
「え、いつも通りのだと思うけど」
「もういい。無駄口叩いていないで言え。最初から、ちゃんと、おれが納得できるように」
 ナイフも退けて、保温性の高いコートと持っていた携帯食料を投げる。それを着込んでカロリーの高いブロック状のクッキーを食べながらぽつりぽつりと、シリウスの口から辻褄の合う単語が繋ぎあわされ言葉となる。
「ジェームズとリリーの二人の秘密の守人をピーターに変えた。それでヴォルデモートを欺くつもりだったんだ……けれど、あいつは、あいつは裏切ったんだ! あいつはおれたちの全てを裏切って、ヴォルデモートの側に付いたんだ!」
「……それで、ペティグリューを追い詰めたお前は逆に罪を着せられて、この状況か」
 納得が行った、とはウロの外の景色を見た。まだ夜は深く、何者も自分達に気付いている気配はない。
「しかし、何故今頃になって脱獄をした」
「ピーターは生きている。あいつは死んだふりをして今も生きている」
「……どういう事だ」
「ウィーズリー家のペットとして、ただのネズミとして、ただの指が一本ないだけのネズミとして、あいつがまだ生きているのを偶然知った……見回りに来たファッジから、大臣から貰った新聞で。だから、殺しに来た」
 途端、凍えるような空気の中で肉食獣のような目付きで静かに告げたシリウスにはまだ半分ほど残っているブランデーを差し出した。
 冬と夜の空気に白い息を吐き出しながら礼を言って受け取ったシリウスはそれを一気に煽って、もう一度礼を言う。
「ありがとう、。おれを疑わず居てくれて、おれの言葉を信じてくれて」
「ペティグリューがお前を追い詰めるという状況と、お前が他者を巻き込んでまで相手を殺すという事が、どうやっても想像出来なかった」
 それが無ければ疑う以前に見つけたら殺すつもりだった、そう言いながら壊れた杖を指先で弄びながら服に付いた雪を払い落とした。
「すまない、今まで何も出来ずにいて」
が謝るような事じゃない!」
 謝罪を取り消せ、と木の上で騒ぎ出したシリウスを殴って黙らせ、もう一度外を見る。何の気配もない。
 怒るのは構わないが騒いで暴れるなと釘を刺すと叱られた犬のようにしゅんとした表情になる。本当にこの男は何も変わっていないと含み笑いをするが、幸いシリウスには気付かれなかった。
「……なあ、
「何だ」
「今までどうしていたのか、聞いていいか」
 闇祓いになった事は知っていても、卒業後すぐに音信不通になって心配だったと零したシリウスはの手に触れて、それを握り締めた。
「死んだんじゃないかって、不安だった」
「泣くな、馬鹿」
「泣いてない」
「そういう事にしてやるから、手を離せ」
 言いながら、はシリウスを抱き締めて泥だらけの頭を撫でる。筋肉の衰えた腕で抱き締められ、その感触に自分まで泣きそうになりながら、ゆっくりと口を開いた。
「日本にいた。ずっと同じだ、今も、昔も……ずっと、ずっと」
 そこで一度言葉を切って、白い息が数度空気に溶け合わせる。
 言葉を待つことが出来なくて、顔を上げたシリウスと目が合った。あの頃と寸分違わない、真っすぐで澄んだ瞳をしていた。
「ずっと、人を殺し続けている」
「……人を?」
「それがおれの勤めだ」
 今回だってお前を殺しに来たと言っただろうと告げると、シリウスの表情が歪む。
「……行け、身を隠せブラック。おれは勤めを果たしに行く」
「断る。ピーターはおれが殺す」
「ブラック、お前は」
「そうしなければいけないんだ、おれが、おれがピーターを殺さなければいけないんだ。その妄執だけで、今までずっと生きてきたんだ。これは譲らない、絶対に、絶対にだ」
 だから手を出すな、シリウスの瞳がそう言う。次の言葉を許さない強い光を宿したそれは、狂気の域に達していた。
 数秒の沈黙の後、は溜息と吐く事で白旗を揚げたことを知らせる。動機は単なる同情と、強硬に反対を主張すればこのウロの中で血みどろの殺し合いが始まる事を予想してだった。
 螺子が抜けたのは自分だけではなかったか、と安堵と悲嘆の相反する二つの感情を抱き、壊れた笑みを感情の裏側に吐き出す。
「なら、せめて協力くらいはさせろ」
 言って、携帯していた予備の杖をシリウスに差し出し、城内の吸魂鬼の配置や己の知る情報の全てを渡し持っていたナイフを握らせた。
「おれよりお前の方が入用だろう」
「……使わせてもらう」
「そうか」
 穏便に済ませとは決して言わず不適に笑うの顔に、学生時代の面影を見た。シリウスも笑い返し、互いに肩を叩いてから夜空を仰ぐ。
、大丈夫か?」
「何が」
「おれを捕り逃がしたって責められるだろ」
「これを手土産にいい所まで追い詰めた事にしておく。ついでに架空のお前を河に飛び込ませておくから、ここより下流の水辺には近寄るな。まあ、ないとは思うがな」
 壊した杖を見せて言ってのけたは、さっさと行けとシリウスの背中を蹴る。
「健闘を祈る」
「ああ。全てに決着がついたらハリーと一緒に会いに行く、例え日本に居ようと」
「期待はしないが。それより、精々へまをやらかすな」
 お前は詰めが甘いからなと続けられたその言葉に、シリウスは苦笑して宙に身を躍らせる。
 夜の森に解けた黒から目を離すと、は遠くの景色を眺め囁くように言葉を紡いだ。
「さあ、河を見つけなければ」