曖昧トルマリン

graytourmaline

欠けた左手

 ひどい目眩に襲われた。
 ハグリッドのところへ遊びに行こうと誘われて、断る理由もないからと禁じられた森のすぐ側にある小屋を目の前にした時だ。
 遠近感と聴覚が完全に麻痺して、立っている事すら出来なくなって、激しい吐き気が胃を襲い目の前は何色もの色がチカチカしてブラックアウトした。
 何も聞こえなくて、目を閉じる事も出来なかった。
 ひどい動悸と息切れを起こしながら、まだ悪酔いしたような感覚で顔を上げてみると耳鳴りと濃い暗い緑の森の中の映像を捕らえる事が出来た。
「……」
 声を出そうにも、胃の中の物が逆流しそうで迂闊に口さえ開けなかった。
 柔らかい苔は辺り一面に生えていて、近くで水のせせらぎが聞こえる。光はほとんど届かない森の奥深く。
 その中で、明らかに人の気配が己の後ろにあることには気付いた。自分を、見下ろしている。
……」
 名前を呼ばれた。声に聞き覚えは、ない。
 はゆっくりと身を起こし、気付かれないよう杖を取り出しながらその人物を見据えた。
 年は大体30前後離れている痩せ型の、背の高い男性だ。とは違う黒い髪の所々に白髪が見える。瞳は紅く、柔らかい笑みを帯びていた。
「誰?」
 袖の中に杖を滑り込ませ、は半身を起き上がらせて男性を見上げた。
「”名前を呼んではいけないあの人”」
「……」
「信じていないようだな」
 は自分の隣に腰を下ろした男性に憶することもなく、視線を合わせ続けた。
 既視感、それはまるで記憶の扉の片側が開かれたような。
「違う……あなたは、違う。あなたの名前は」
 ぼんやりとした記憶の中から必死に名前を思いだそうと男性の目を見た。思い出さなければならないような、そんな気がしたから。
「違う、忘れているんじゃない……おれは、忘れさせられている。あなたの名前は」
 呟くに男性の瞳が驚きによって見開かれた。
 男、ヴォルデモートはの記憶を封じた。微調整を必要とする、忘却術とは全く異なる難しい呪い。
 それをは、悟って、思い出そうとしている。
「……昔から、呼んでいた。何度もあった、そう、何度だって」
 の手が、ヴォルデモートの手に触れた。
「リドル」
 ヴォルデモートの手を握り、は確信した。闇色の瞳にはっきりとヴォルデモートの姿を写した。
「リドル。トム・マールヴォロ・リドル……ヴォルデモート卿?」
「……驚いたな」
「名前だけじゃない。多分記憶も、全部」
「私の術を破って思い出したのか」
「うん……ごめんなさい。私はまだ、貴方を憎めないみたい」
「違う、。今日は違うんだ。私が、もう一人では耐えられない。お前が居ない事が耐えられないんだ」
 ヴォルデモートの言葉に、は悲しげに笑った。
「頼む、私の前で、そんな悲しげに笑わないでくれ」
「……貴方は、リドル? それとも、ヴォルデモート卿? それとも、別の誰か?」
 はヴォルデモートのローブの袖を掴んではっきりと言葉を放った。
「答えて、貴方は誰?」
……私が誰か、お前なら判るだろう」
「リドルは、私を迎えに来てくれるって、言った。でも、それはヴォルデモート卿が必要なくなったら、って言った」
「だから、迎えに来た! 一緒に来てくれ、私と共に、こちら側に」
「なら、一言でいいの。私はリドルだって、言って」
 はヴォルデモートが回してきた腕を拒むことなく、体を彼に預けた。
「お願い。嘘でもいい、その一言でいいから」
「お前に……嘘は吐けない。お前にだけは吐けない」
「お願い、ヴォルデモート卿。私のリドルを返して」
 言葉遣いが幼い。普段は人を真っすぐ見ないはずのの瞳が、ヴォルデモートをしっかり捕らえて、離そうとしなかった。
 意志の強い瞳。
「……すまない、ヴォルデモート卿としての自分は、まだ捨てることが出来ない」
「そう」
「けれど、リドルでもあるんだ。判ってくれ、頼む……
「ごめんなさい、ヴォルデモート卿。私はまだ、あの時のリドルの言葉に縛られているの」
 ヴォルデモートの言葉をは打ち捨てた。瞳は悲しげで、彼を呼ぶ名が変わっている。
 それに対して、ヴォルデモートは首を振り、しばらくの沈黙の後に口を重々しく開いた。
「私を捨てないでくれ」
「リドルがそう願うのなら」
「私はリドルでもある!」
「駄目。リドルだけでないと、私はリドルを奪ったヴォルデモート卿を憎まなければならない。殺したいほど、憎まなければならない」
 はゆっくりと立ち上がり、ヴォルデモートもすぐ後に慌てて立ち上がった。握られていた手を振りほどこうとしたを強引に腕の中におさめ、抵抗をしない少年をきつくだいて逃げれない様にする。
「行かないでくれ、傍に居てくれ」
「私にリドルを返してくれるなら、今すぐにでも」
、頼む。私と共に」
「くどい、リドルを返せ」
 冷たい、普段通りの彼の口調はヴォルデモートの瞳でさえ冷たくした。
「お前も私を捨てるのか」
「自分がリドルだって、嘘でもいいから言えるようになったら、また会いに来て。私は待ってる、ずっと待ってる。待つのは慣れてる」
「私が待てない」
「……ヴォルデモート卿、闇の帝王」
 怒りはなく、悲しみに満ちた声ではヴォルデモートの名を呼んだ。赤い瞳が嘲笑するように冷たく笑う。
「何が帝王だ、唯一愛したお前を自由に出来ずにいて」
 それが合図になり、二人の間で魔法が爆発した。
 互いに持たれた杖は第二撃の為に先が輝いていた。淡く光るオレンジとブルーの魔法を圧縮した球が杖の先で放たれるのを待っている。
「すまないが、無理にでも連れて行く。お前なら、ヴォルデモート卿すら愛せる」
「ええ、きっとそう。でも、それはリドルとの約束を破る事になってしまう」
「頑固者だな」
「私を育てたのは、貴方だから」
 再び放たれた魔法は互いを相殺して辺りの景観を少なからず変化させた。
「無駄話はお終い。お願いだからもう行って、ヴォルデモート卿」
 の頬に一筋だけ涙が零れた。両腕を下げて、それ以上魔法を使おうとはしなかった。
 それを好機と見たヴォルデモートが失神呪文を放とうとするが、黄金色の光が振り上げられた腕を掠めた。見覚えのある魔法。
「ダンブルドアか!」
「ああ、来てしまった」
 二人はほぼ同時に声を上げて、閃光の放たれた方向を見た。
「……、また会いに来る。だから、私の全てを愛してくれ」
 に口付けたヴォルデモートは切ない目を伏せて、その姿を眩ませた。そのすぐ後に茂みの向こうから白い髭の、見慣れた校長であり祖父の姿が現れた。
「何でここに?」
の友人たちが消えたことをすぐさま言って来てくれた」
 厳しい声に、は視線を動かす。若い黒い瞳と、老いた青い瞳がぶつかりあった。
。お前の価値観が、わしには判らぬ」
「判るはずないよ。だって貴方は、愛を知っているくせに、愛に餓えている人や、親を慕う子の気持ちが判らない人だから」
「……お前は、誰じゃ」
。知ってるでしょう?」
「違う。お前はではない」
「いいえ、私は私」
「違う」
「貴方の都合が良くないからって存在を否定するなんて、さすが今まで散々酷い事をしてきた賢者様。私は貴方が大嫌いだから死者すら利用させて貰うけれど、妹さんは本当に可哀想。貴方にあんな殺され方をされて」
「Obliviate!」
 叫ぶようにして唱えられた忘却呪文はに直撃し、幼い体はその場に崩れ落ちる。
「良く判った、お前をトムには決してやれぬ。お前たち二人は、一緒に居てはならぬ」
 記憶と共に気を失った孫を抱え上げ、ダンブルドアはまた杖を一振りした。倒れた木々だけが、後に残された。