曖昧トルマリン

graytourmaline

笛竹

 最初は、こんな事になるなんて思っていなかった。
 いや、思えなかった。想像すらしていなかった。
 黒髪の少年は床の上に座り込み固く目を閉じる。
 その依頼が来たときオーナーたちは喜んでいた、金払いのいい、上客だと言って。
 少年自身も少なからず喜んだのを覚えている。自分の生い立ち等一切知らないが、東アジア系の顔でなかなかお客が来なかった。たまに物珍しさで指名する客がいる程度だ。
 そんな自分が店でも人気の男娼の中に入って選ばれた事が、そして自分を抱くはずの男が美しかったことが、嬉しかった。
「……なんで。なんで、こんな事に」
 悪夢であるようにと、閉じた目をうっすらと開いてもその部屋の様子はまったく変わっていなかった。
 いや、もっと、さっきよりも酷くなっている。
 目の前に広がる赤い血溜まり、湯気を上げている散らばった内蔵、鼻を突く鉄の匂い。
 ゴトリ、と何か重い物がベッドの下に落ちた音がした。視線を送ると、そこには見知った顔が、いや顔だけが転がっている。
 少年は悲鳴を上げそうになった口を塞いでまた目を閉じ、呟いた。
「なんで、なんでなんだ」
 初めは、少年たちを連れてきた二人の男だった。
 夜伽の少年たちを部屋に通し終わった後、一礼して出て行こうとした男の人たちを、その主人が右腕を上げて呼び止めた。
 一体何が起こるのだろうと疑問に思った瞬間、二人の男の口から絶叫が放たれた。
 倒れていくその姿をしばらく皆で眺め、やっと彼らが殺された事に気付いた一人が悲鳴をあげ、もう一人は外に向かって助けを求めた。
「煩い」
 はっきりと、そう聞こえた。
 もう一度右腕が振られると壁に飾っていた剣が宙に浮いて、二人の喉元を刺したまま壁とドアに縫い付けた。
 人間ではない、ようやくそれに気付いたが、気付いたところでどうかできる状況ではない。
 少年以外の誰かが呟いた「悪魔だ」という声に、男は妖艶に笑って見せた。まるで、その言葉を肯定するかのように。
「こちらへ来い」
 その表情のままそう言われ、二人は逆らえば殺されるという一身で動かない身体を無理やり動かした。けれど、どうしても一人だけその場から動けない少年がいる。
 振り向いて、早く来いと言おうとした。
 けれど、言えなかった。言うべき人間は、すでに人間の形をしていなかった。
 生暖かいものが肌に触れる。赤い……血だ。
「助けてください!」
 少年ではない方の少年が、男に向かって叫んだ。
「お願いだから殺さないで、何でも……なんでもするから」
「……た」
「え?」
「命乞いの台詞は聞き飽きた」
 そうだ、そうして彼の首は飛んだ。
 部屋に残されたのは少年と、男だけ。
「なんで……ぼくが、ぼくが何をしたっていうんだ」
「何もしなかったからだ」
 気付くと、男は目の前にいた。
 声が、降ってくる。
「なにも、変わらなかったからだ」
「何もしていない……なら貴方は、何故ぼくらを殺すんだ」
「さあな。ただ、面白い事に、お前のおかげで判った事が一つある」
 声は淀みなく問いへ答えを返し、男は少年の咽喉に手をかけた。
「貴方は……一体何をしたいんだ」
 けれどその問いの答えを聞く前に、少年の身体は床に倒れ、そのまま動かなくなる。
 残ったのは、男だけだった。
 死体を蹴り付けて仰向けに転がすと、長い黒髪を引きずって瞼の閉じられていない虚ろな顔がヴォルデモートをじっと見つめた。
 何もかもどうでもよかったのだ。別に、殺す気もなかった。
 ただ、部屋に入ってきたとき、この東洋系の少年に彼の姿がわずかに重なった。
 だから目の前で人間が殺されたら一体どんな反応を返すのだろうかと興味を持ったのだ。
 彼は自身が人殺しであると知っても泣きながら抱きしめてくれた。リドルを愛すると誓ってくれた。なら、コレはどうするのだろうかと。
 そしてソレは他の死体になっていったものと同じ反応をした。口から発せられる不快な音の羅列はヴォルデモートの持つ世界観を変えることなどできない。所詮コレには、いや、誰であろうと彼の代理など不可能なのだ。代理だという時点で、それはヴォルデモートの望む彼ではない。
 欲しいのは彼だけ。彼以外は必要ない。
「ルシウス」
 名前を呼ぶと扉が開かれ、いつもより重い音を立てて開いた。
 縫い付けられた死体が揺れ、絨毯に血が広がる。
「後始末は任せた」
「はい。すぐに代理の娼婦も手配……」
「必要ない」
「は?」
 ヴォルデモートの言葉にルシウスが間抜けな顔をする。
「必要ない、と言ったのだ」
 真紅の瞳が心底愉しそうに歪められた。
 目の前の男の血の気が引く音を聞いたのか、ヴォルデモートは床に転がる死体に視線を送った後でいつもは切り上げる言葉を引き伸ばす。
「私に必要な人間はただ一人だけということだ」
「それはの事を仰っているのですか?」
 それ以外に誰が居るとでも言うように嘲笑して、けれどそれは彼自身に向けられていることにルシウスはすぐに気付いた。
「矢張り私は彼女の言ったとおり大馬鹿者だな。いつまでも引きずるくらいならいっそ……」
 いっそこの闇の中にあの少年の居場所を作って、慈しんでやればよかった。
 そう続けようとして、目の前で固まるルシウスの顔色がないことに気付いたヴォルデモートは顔には出さずに、今度こそ嘲笑する。
 そうだった、表に出そうとしないだけでこの男もまた、に惹かれた人間の一人だったのだ。そうなるよう仕向けたと言ってもいい。
「私がを殺せると思うか? それともお前にとってはあのように無残な死体になったの方が生きたよりも価値があると考えているのか?」
「……申し訳ありません」
 主人がどれだけあの少年に入れ込んでいるのか思い出しのだろう。
 慌てて主人への非礼を詫びて部屋の奥へと歩いていくルシウスと入れ替わりに、ヴォルデモートは部屋の外に出て深い夜に沈んだ廊下を歩き出した。
「今になって、またこの手で愛したいを思う私をお前は許してくれるだろうか」
 いや、許してくれなくても……きっともう、また、止めることなどできない。
 あの日、を傷つけた日のように、また彼を傷つけることになっても。
「それでも、今度こそお前の笑みを取り戻してみせる。それだけは誓える」
 誰にでもなく呟き、長い影は闇の中に消えた。