那智の御山
肩が荒く上下する。脈が思った以上に速く打っている。
「どうしよう、思わず言っちゃった」
強くなると言った、認めてほしいと言った、その気持ちに嘘偽りなど一切ない。
ないからこそ、恥かしかった。
基本的には秘する事を美とする無言実行型だ。口よりも先に行動に移す事のほうが断然多い。口に出して伝える相手がリドルしかいないのが、多分彼がそうなった一因なのは間違いないだろう。
無論無言実行型だからと言って、口に出したことを守らないという訳ではない。
それはむしろ逆で、口に出した思いや考えは口に出さない時のものより遥かに強い意志を持っている証拠でもある。それは自分でも自覚している。
「と、とりあえず着替えて……」
『本当にそれだけか?』
山童に着替えを頼んでいる背後で、翼が風邪を切る音がした。
はらりと落ちてくるのは、漆黒の羽と一輪の紅色をした牡丹の花。
「八咫様」
石燈籠の上に羽を休めた大きな三本足の烏には困ったような表情をして烏と同じ色をした髪をかきあげた。
『私は非常に不可解だ。はあの男』
「『リドル』だよ」
『……リドルに何も感じないのか?』
「感じるよ、色んなものを。前より酷くなったよね、でも、何かを決めたみたい」
瞳を伏せてしまった少年に八咫烏は翼についた水滴を払いながら厳しい視線を彼に向ける。
『近いうちに、何かしでかすぞ。それを感知できぬ訳ではないだろう』
「それでも、私は何も言わないよ」
『言わないのか、言えないのか、どちらだ』
「……言いたくない、かな。私の言葉が彼の妨げになって欲しくない」
『そうやっていつまで人間らしい利己主義的で自己犠牲的な考えに固執するつもりだ。あまり下らぬことをしていると魂が穢れるぞ』
「私が人間であり続ける限り、それを捨てるのは不可能だよ」
血の通う手のひらを陽の光に透かせて、眩しそうに目を細めるに烏は人間で言う溜息に似たものを吐き出したようだった。
『ならば、後悔しないのだな?』
「するかもね。というか、多分するよ」
『おい』
あっさりと返した少年に、呆れた視線が突き刺さる。
彼は笑った。
「でも、きっともう止められない。リドルの決めた道……それはきっと誰にとっても辛い道になるだろうから。だから私は、どんな行動を取ってもきっと後悔すると思う。人間は常に後悔し続ける、そういう存在だから」
『救えぬな』
「救えるはずないよ。自分自身で手一杯だから、誰かを救える余裕なんてない。だれも救える余裕なんてないから誰も救われない」
『程の魂を以ってでも救えぬか』
「人間で在る限りは。あるいは、それ以外であっても……例え神でも、きっと人間だけは救うことが出来ないよ。人間が人間で在る限りは」
おもむろに衣服を脱いだはここが外であることを特に気に留めた様子もなく新しい着物に袖を通し、髪を拭く。
『本当に止める気はないのだな』
「うん。リドルはもう止まらない」
『違う、私が訊ねているのはがそれでいいのかという事だ』
その言葉に、の手が止まる。
それでいいはず、ないじゃないかと瞳が語る。
けれど、それを声に出すことはなかった。
「口には出さない。出来るだけ言わない」
『何故だ、言えば』
「叶えてはいけないから、いわない。私は」
涙を堪えるように笑い、牡丹の花を拾い上げる。
「私のこの身体は、この血は……違う、私自身が誕生した瞬間から呪われているから。リドルだけは巻き込むわけには行かない、この家に呪われるのは私一人でいい」
だから、私の人生に付き合ってとは、絶対言わない。
言えない。言えるはずない。
産まれて初めて愛し続けてきた男性を、この家に、この血族の闘争に巻き込みたくない。
そう視線だけで語ると、烏は諦めたように二三度羽ばたき、の周囲を旋回した。
「だから私はリドルが出来るだけ傷つかない方法を取りたい。上手くいくか保障なんてない、でもせめて、それまでに強く、今よりも、少しでも強くなっていれば」
『……ああ、強くなれ、。お前がそう望むなら、そうなるように最大限の努力をしろ。忘れるな、私たちは常にお前だけの味方で在り続ける』
「うん、ありがとう。八咫様」
一陣の風が駆け抜け、その少し後で、リドルが背後からを呼ぶ声が聞こえた。
「、泣いているのか?」
「……ううん、泣いてない」
「そうか。なにか辛い事があったら言うんだぞ?」
「うん」
触れてきたリドルの手は暖かくて、見上げた彼の瞳は優しい牡丹色で、その向こうの澄んだ空は泣き出しそうなほど青かった。