紅の一花心
片手に担ぐように持っていた大きな鞄を白い石畳の上に乱暴に下ろし、羽織っていた上着を一枚脱いで苦しそうにネクタイを緩めた。
いつまでも慣れない英国と日本の気温差に一人苦笑して、再びくたびれた鞄を持ち上げる。
ここ半年程空けていたが、相変わらずこの屋敷は外界から隔絶されたかの如く何一つ変わらない様子で時を過ごしているようだった。
青々と茂る竹林を抜け、道中で再会する魔法生物たちに声をかけながら、男は時折足を止め誰かを探すかのように辺りを見渡す。
何度目かの事、白い石畳の坂が緩やかな下りになっている場所。大輪の花を咲かせる低い木の間から黒い頭がひょっこりと覗き、少女のような笑い声が男の耳に届いた。
「ただいま、」
近寄りながら、囁くようにその少年の名前を呼ぶと、笑い声はぴたりと止んで、変わりにずぶ濡れた黒髪の少年が花の間から顔を見せる。
「リドル! お帰りなさい!」
「元気そうだな」
紅の瞳が柔らかく細められ、黒い瞳が笑い返す。
「うん、リドルも元気だった?」
「ああ」
水浸しの髪を一房掴み、何があったんだと視線で問いかけると、の背後からその原因らしき物体がひょっこりと顔を出した。
それは漆黒の体躯を持ち、体長が少年の背丈程あって、足を三本持っている、水浸しの烏。
例によっての知り合いだろう。
「人間が水浴びをするにはまだ少し早くないか?」
「ぬ、濡れたくて濡れたわけじゃないもん……」
頬を膨らませる仕種にリドルが思わず笑うと少年の顔が更に赤くなる。
「身長は伸びたみたいだが、中身はまだまだ子供だな」
額をつっつくと不本意ながらも反論できないは無言で牡丹の垣根を飛び越えた。
「でも立派な魔法使いになれるように努力してるもん」
「ああ、そうだな」
それは子供じみた背伸びの自慢や言い訳ではなく、事実であることをリドルは知っていた。
実際、この少年は既に魔法学校を卒業したばかりの人間程度の実力なら十分あるだろうとリドルは認識している。けれど、それはリドルにとっても、リドルを魔法使いの基準と考える少年にとっても、まだ魔法の一端を学んだ程度に過ぎない。二人にとって、今のの実力はあくまで基本を学んだ段階でしかないと認識している。
「その年で大人と対等な魔法使いになられてしまったら、私の立場が無くなってしまうな。せめてもう少しだけ子供でいてくれないか?」
それでも彼の力を認めているリドルは、間接的に子供としては既に立派な魔法使いとの実力を肯定した。けれど、少年は少しだけ嬉しそうな、それでいて悲しそうな表情をして顔を伏せる。
「私がそうなれるのはずっと先だって判ってる。でも、私はそれを言い訳なんかにしたくない。今はまだ弱いから仕方なかった、そんな言葉で自分を弁護したくない」
哀しみと、憤りと、今はまだ弱い自分に対しての言葉を噛み締めて力強く拳を握る。
そして、は顔を上げた。
「年齢なんて関係ないよ。私はリドルと肩を並べられるくらい実力を持った魔法使いになりたい。リドルが傍に居なくても私の無事を確信出来るくらい強く、今はただ強くなりたい。それの前では大人も子供もない。肉体も、精神も、リドルを心配させたくない強くなってみせる。絶対に、私はそれを実現させる」
真っすぐとリドルを見上げた強い意志の光を宿すの瞳に、思わず気圧され、同時に罪悪感を覚えさせられる。
気圧されたのは幼子が宿すには強烈な意志を持った瞳の所為。罪悪感を覚えたのは、その少年の目指すべき所が自分自身だという事。
人を殺してきたばかりの人間に対して宣言された、酷く純粋で無垢で、そしていつかそれは現実になるであろう子供の気持ち。
否、それ以上の感情がリドルに警鐘を鳴らす。
「そうだな、そうかもしれない」
けれど青年は、少年の言葉を肯定して、そして真剣な表情で続けた。
「そうなると、まずに必要なのはその水浸しの服を着替えることだな」
一瞬、きょとんとした少年の表情に思わず吹き出して愉快そうに笑うと、も今現在の自分の状態を思い出したのか、慌てて烏と何事か話し坂を走って下り始める。
その途中、何事か思い出したのか唐突に足を止めて、少年は水滴を滴らせながら振り返り、そして告げた。
「でも、リドルに認めてもらえさえすれば、私はそれでいいの。ううん、他の誰でもない、リドルにだけは認めてほしい」
ほんのりと頬を赤らめながら笑った少年は、リドルの返答を待たずまた坂を駆け足で下りていってしまった。その様子を眺めると、先程大人一人を黙らせる程の力を持った少年にはとても見えない。
けれど、それが真実だという事をリドルはよく判っていた。
あの一見アンバランスに見えて実はそうではない一途な彼が、堪らなく愛しかった。
本当なら、ずっと傍に置いてその成長を見届けようと思っていた。
いや、今でも思っている。
「すまない、」
彼は気にしていないと言い続け、それを疑ったことなどなかった。それでも、これ以上この子を穢したくないと思った。そして、その思考が人を殺す時、ほんの少し、けれど確実にリドルの胸を抉っていた。一瞬の躊躇いをして、逆に殺されかけたこともあった。
それは感情とはまったく別の、現実との利害。
彼女は、の祖母は、何も言わなかった。ただ、どちらを取っても、全く違う道を選んでも、何も選ばなくても、誰も自分を責めないと穏やかな笑顔で言った。
「愛しているよ、」
柄にもなく、ずっと想い続けていた。けれど、私は君に愛していると言い続けたが、本気で恋をしているとは、その言葉だけは言えなかった。
きっと、これからも言うことはなくなるだろう。
「……私は、一緒にはなれない」
けれどを愛するのは止めない。
恋をするのも止めるつもりもない。
「さようなら、私が世界で唯一愛した子」
あと少し、あと少しだけ季節が進めば、はあの学校へと入学する。この屋敷から解放され、ほんのひと時の自由を手に入れる。
きっと誰かが愛してくれる。自分以上の愛情を持って、誰かが彼を愛すだろう。彼は愛しいと感じた存在には惜しみなく優しさを注ぐから。
リドルは空を見上げた。
皐月が終わるその日の空は、どこまでも澄んだ青が宙に浮いている。
「さようなら、。どうか私を忘れておくれ…」
それは君が望まない形であろうとも。
私は君に恋をし続ける。