小笹原
泥と雨の匂いを纏った風が夕闇の深くに沈んだ庭に吹き抜けて、見上げれば、まだ薄い雲の流れは昼間のものとは比べ物にならない速度で進んでいる。
湿気を帯びた空気が撫でる度に肌寒さを感じ、薄手の上着を手に持った。
「静かだな」
天候が荒れると、この屋敷は静寂に包まれる。
何も彼もが息を潜め、姿も音も形をくらまし、後に残るのは生きた人間だけ。その瞬間、この屋敷は闇や光と共に自らの主に孤独を教えた。
人の中にいるとき孤独を感じるが、自然の中を歩くときは寂しいとは思わないなどと誰かは言ったが、それはこんな絶望すら感じない空間にも当てはまるのだろうか。
この場所は希望を持つ事すら、最初から備えられていないのだ。
「」
未だここにいない少年の名を呼ぶ。
杖に小さな明かりを点して、庭の中を進んだ。虫の声すら消えた静寂の中で、石畳を打つ足音だけが鼓膜に届く。
どこまで行ったのか、そろそろ森を抜け、庭が終る頃だというのに気配が一向に掴めない。
「屋敷からは勝手に出れないはずなんだが」
この先には、大きな河川があるだけ。
春に何度か菜の花を摘みに、夏にも笹を採りに来たが。
「最後に行ったのは、確か冬か……枯野に雪が積もっていて」
深々と降り積もる雪に、それを眺めるの瞳が見るに堪えれなくなって、彼を連れて屋敷に引き換えしてからは一度も来ていない。
あの場所は、すべてを一色に染めてしまう。
怖いくらいに。
「……?」
森の出口から見えた、消えそうなくらい薄い月光の下で佇んでいる小さな影。
「……」
見つけた。
半身を黒い花畑に埋め、両腕にその花束を抱えたまま立ち尽くす影は生気のない瞳で夜空を見上げている。まるで何かに囚われたかのように、瞬き一つしない。
いや、何かを、目に見えない何かと意思を疎通しているのだ。
微笑しているような、眠たげな表情のまま凍り付いている。瞬きをしたかと思うと、今度は悲しげな表情を浮かべ、の感情はゆっくりと移り変わっていく。
やがて、轟と風が叫び、ここも静寂に包まれた。
「……行ったのか?」
背後からかけられる声に、は驚いた様子もなく、悲しげに微笑する。
「うん、逝ったよ」
冷えた首筋に触れ、腕にかけてあった薄手の羽織を肩に掛けた。
見下ろした小さな腕の中の一抱え程もある花束が、死人花だと気付き慄然とする。
きっと周囲は、あの春の日の菜の花のように、あの夏の笹野原のように、あの冬の雪原のように、この闇の中で完全な赤で埋め尽くされているのだろう。
「どうしたの、リドル?」
「嵐が来る」
「……本当だ」
首を揺らす黒い花の群れの中で月が囁いてるとは穏やかに呟いた。
「雨が降る前に迎えに来たんだが、邪魔をしたか?」
「ううん……ありがと」
冷えた手を繋ぐと、ふわりと青臭く苦い毒の香りが小さな体から漂ってくる。
花の香りにを犯されたような嫉妬を覚え、強く引き寄せた。それなのに、抱き締める寸前、腕から零れる花束を照らした月光が、少年を奪っていく錯覚を見る。
「連れて行くな」
泥色の、光から輪郭まで濁った月。
ざわざわと風が言葉を交わし、足元で揺れる黒い花が体をさらう。雲の流れに逆らうように昇る茶色の月の目が、少年を捕えて放さない。
「行かないでくれ」
「リドル?」
「行かないでくれ」
不気味な光が、少年から離れない。
いつまでも、それが影を作り続ける。
「リドル、家に帰ろ?」
抱えていた花束を投げ捨て、は自身の頭部を包み込む腕をきゅっと抱いた。
ポツ、ポツ、と月を流そうとしている灰色の雲が二人の肩を叩く。
泣き出す空と地に視線を落とし、少年を包んでいた腕は落ち着いたようにゆっくりと笑って互いに濡れた手を引き合った。
「そうだな、帰ろうか」
「二人とも、濡れちゃったね」
「折角摘んだ花も落としてしまったしな」
天から降り注ぐ滴に濡れた黒髪を梳かし、肩を震わせた小さな影を抱き上げる。
「花はまた摘めばいいよ、あの花たちも……きっとすぐに土に還るから」
「そう、だな。今度はよく晴れた日の昼間に来ようか。二人で」
「そうだね」
「じゃあ、帰ろうか」
「帰ってまずはお風呂だね」
音も鳴く笑い合いながらそうして一つに溶けた影も、やがて森の奥へと姿を消し、通り雨は針のような音を立てて止んでいく。吹き抜けていた風も高く遠くへと帰り、黒い死人花たちも首を揺らすのを止めた。
それでもまだ、あの褐色の月だけは朧気な表情を湛えたまま影たちを嘲笑っている。