菜の花
リドルは、障子の向こうで黙って立っているの視線に気付いて、そこを開けて部屋の中に手招きをした。
なにも言わなくても、の存在に気付いてくれる人間が、それがリドルだった。
「遊んで欲しいのか?」
「ううん」
しかしは首を振ったあと何事か言いたそうに下に俯いて、何度かリドルを見て、もう一度首を横に振る。困ったような表情で胡座をかいたリドルが更に手招きをすると、は遠慮がちにリドルの側にちょこんと座った。
の瞳はいつ見ても黒く、リドルの瞳はいつ見ても赤い。
「どうしたいのか言ってごらん?」
「あのね……」
はまだまだ幼い手を畳に付いて、身を乗り出してリドルの瞳を覗き込んだ。
「リドルは、外に出たらダメなの?」
「出ては駄目という訳ではないが、好んで出たくはないかな」
「そうなんだ。じゃあいいの」
そう言うとは立ち上がり、ごめんねと言って部屋を出て行った。残されたリドルは対応を誤ったことを理解して組んでいた足を戻し、黒い髪をかき上げて素足で畳を踏みしめた。
部屋を出て僅かばかり歩くと、庭に面した縁側で座っている小さな影を見つける。
縁側に素足をプラプラさせて、あまり可愛らしいとは言えない人面魚が庭の池に跳ねる様子をはぼんやりとした表情で眺めていた。
彼の周囲に座敷童や小さな霊の姿はなく、この春に生まれたばかりの真っ白な蝶が一匹だけが寄り添うようにして肩に留まっている。
「リドル?」
「さっきは済まなかった、はどこに行きたかったんだ?」
「だ、駄目だよ。だってリドルが外に出ないの、理由があるんでしょ?」
は慌てて立ち上がってリドルの側に駆け寄った。白い蝶がヒラヒラと宙を舞い、所在なさげにの周囲を横切る。
「どうでもいい事だから、気にしないで」
再び蝶はの頭の上に音無く戻り、薄い羽をゆっくりと上下に動かした。
「お前が行きたいと言うなら、共に行こう」
リドルが勢いよくを抱え上げると、肩の蝶がパッと青空に舞い上がる。
真っ赤な顔になったを左肩に乗せると、リドルはそのまま縁側を下りて歩き出した。その辺に放置されていた草履のまま外の門に向かう。
「リ、リドル」
「なんだ、高い所は怖いのか?」
「違うよ!」
少し怒ったように言うに、リドルは笑みを浮かべた。
「でも、リドル……本当にいいの?」
「言っただろう、お前が望むなら構わないと。それで、は何処に行きたかったんだ?」
少し首を傾けながらそう語りかけると、裸足のままで自分の頭にしがみついているは照れるように小さく頷いた。
庭の飛び石から表の石畳に変わってもリドルは歩調を緩めない。漆喰の壁沿いには雑草が手入れされる事無くぼうぼうに生えていて、その広さに不釣り合いな小さな茶色の門が青空の手前にある。
「すぐ、そこまで」
門に頭をぶつけないように気をつけているリドルに、はそう言った。
「向こうに、小川があるの」
「わかった」
の指し示す方向にリドルは足を向ける。しばらく模しないうちに口を開いたのはリドルの方だった。
「ここには長くいたが、に誘われてこうやって歩くのは、初めてだな」
「うん、そうだね、二人では初めて。あ、ここはこっち」
「坂を上るのか。ところで、そこの小川には何があるんだ?」
リドルの言葉に、は笑いながら人差し指を口に当てて内緒と小首を傾げる。
クスクスと笑いながら空を見上げるに、リドルは少し歩を早めてその目的地へと進んでいく。チラリとを盗み見ると、相変わらずニッコリと笑っていた。
「そんな顔しなくてもすぐ判るよ」
「どんな顔だ」
「隠し事されて拗ねてる顔、膨れっ面」
「……」
「ふふっ」
リドルの肩に乗ったまま、急にが腕を上げて今まで来た方向とは反対方向を指した。
まさかからかわれたのかと、リドルは楽しそうなを見ながら後ろを振り返り、そこにあったものを確認した。
青空の下で、うねるように咲く明るい黄色。
「ここからが一番綺麗なんだ」
少し麓の方を指した先には、一面とは言えないが、それでも数えきれない数の菜の花が群れて咲き誇っていた。
「全部自生している訳じゃないけど……あそこの花は切り花用だし、でもほら、川沿いに生えているのは自生している花だよ、色が違う」
色や形、咲き方の違いを喜々として語るには悪いが、リドルには花の区別などできなかった。決して壮観ではないが、しかし異国の古い絵葉書のような懐かしさを覚える。
「わたしにも、まだこんな気持ちが残っているとはな」
「少しは、気が紛れた?」
「?」
この春に生えたばかりの柔らかい草の上に下ろして貰いながら、は裸足のままリドルの正面まで歩いて首を傾げた。
「リドル、最近はこっちに帰ってくる度に疲れて……気が滅入ってそうだったから。わたしに出来る事は、これくらいだから」
「……ありがとう」
柔らかい黒髪を撫でながら、リドルはもう一度黄色い花畑を見て、すぐに視線を戻した。
「」
「なあに?」
「愛してる」
さらりと告げた言葉は春風に乗っての耳に届き、首まで真っ赤に染めた。
リドルは微笑んだままそれ以上何も言わずに、身を翻して家の方へと足を向けた。は火照った頬を抑えながらリドルの後に付いて歩きだす。
の周囲に今度は白い蝶と黄色い蝶がやってきて、彼の両肩に一匹ずつ羽を休める。すると突然足を速めリドルの横に並び大きな手をそっと握った。
「隣、歩くね」
赤い瞳が疑問を含んだ視線を恥ずかしげに伏せられた黒い瞳に向けるが、すぐにの中に含まれた感情を汲み取り、口元を綻ばせて繋がれた小さな左手を強く握り返した。