青柳の糸
春になっても、この屋敷には活気がつかず、かと言って静まりかえる事もなく平穏な日々をのらりくらりと歩んでいる。
濃青の着物を着込んだ少年は午後に差しかかるまどろみの中で、うつらうつらと船を漕いではカクンと首を落とし、それに気付いて、起きなければっと自らの頬を叩いた。真昼にまで舟を漕いでしまうのは、最近寝つきが悪いからだろう。
理由が、ある。
「リドーさん……」
この場にいない男の名を呼んで、瞳が潤んだ。
数週間前、何も言わずに家を去った青年。祖母は仕事だから仕方ないと悲しそうに言ったけれど、それならそうと一言言って欲しかったとは思う。
「だいじょうぶ……じゃない」
幼い自身に言い聞かせようとして失敗する。
掃除も全然楽しくないし、ご飯も美味しくない。散歩も遊戯もつまらなくて、大好きな本を読もうとしても文字の羅列にしか見えなかった。
「なんで、なんにも言ってくれなかったの?」
言ってくれたなら、こんな想いで待つ必要もなかったのに、と嫌な事を考えてしまう。
また、帰ってくるよ。とそれだけでよかった、それでいいから言って欲しかった。もしくは、もうここには来ないと一言。
そうすれば、来るのか来ないのか判らない人を不安に待ってる必要なんてなくなる。
約束通り来てくれる事を心待ちにしているか、もう来ない人の事を思い出の棚の中にしまい込んでしまうか出来たのに。それならば、耐えれるのに。
「こんなの、やだ」
でも、別れるのはもっとヤダ、と誰かが言った。
一人でいる虚しさが満たされて、そこに戻るのが嫌だ。自分を包んでくれる温もりが消えると考えると、また胸の中にぽっかりと穴が開く。
「リドーさん」
は膝に顔を埋めて声を押し殺した。
淋しいわけでも、怖いわけでもない。ただ、虚しい。
水面に幾つも小石を投げられたような、そんな感じの不安。穏やかな風の吹く春の空気は暖かいのに、の心が次第に冷めていく。
「……」
薄灰色の虚空が見えた。
視界の景色が変わっていきそうで、ぎゅっと目を閉じる。
膝を掴んで、それを見ないようにする。日に日に、それは滞空する時間が長くなっていて引きずり込まれたら笑えなくなる気がした。
大丈夫、もう一度そう言った瞬間、ギシリと床板が軋む。
「……」
微かな不安と、大きな期待が胸の中を支配した。
顔を上げるのが怖くて、それでも上げずに入られなかった。もう一度名前を呼んで、その大きくて暖かい手で撫でて、笑って欲しい。
「リドーさん?」
「どうかしたのか、」
耳元に残る心地良い声。包み込むように撫でてくれる優しい手。微笑する紅い瞳。
「……ふ」
じわぁと抑えていたものが込み上げてきた。
泣いたら心配をかける事くらい判っているはずなのに、一度流れた涙が後から追うように溢れ出して止まらない。目元を擦ろうとした手を、リドルが止める。
「私の所為で、泣いているのか?」
嗚咽を漏らすを抱きしめようか躊躇うリドルは、柔らかいハンカチで涙を拭い背中を撫でた。
ぐずぐずと無言で見上げる少年に、まずは何を言おうかと考え込んでいると小さな手がローブをぐっと掴んで濡れた黒い瞳がリドルを見上げる。
何故が泣いているのかよくわからないリドルが困り果てた表情をしてしばらく黙った。
その間も小さな頬を薔薇色に染めた子供はローブを掴んで離さず、やがてひ弱な力を精一杯出してその胴にしがみつく。
「……何故泣いているんだ」
「だって、だってリドーさんになんにも言わなくて行っちゃって、帰ってくるか、わかんなかったんだもん! もう会えないと思ったんだもん!」
「……」
リドルは、自分が微笑するのがわかった。
両腕は小さな体を抱きしめて、手の平が愛しげに何度も撫でる。悪いのは自分なのに、泣かせたのは自分なのに、この少年が愛しいと感じてしまった。
「何も言わずに出て行ってしまってすまない。なら理解してくれていたと……浅慮だった。大丈夫、何があっても私はの元に帰ってくるから、だから泣かないでくれ」
「ほんと?」
「ああ、言う事が出来なくてすまなかった……今度からは」
「……ううん、いーの。リドーさん、のところに帰ってきてくれるって、言ってくれたもん。でも、約束だからね? 絶対に、ずっと先でもいいから、またお仕事にお出かけしたら、帰ってきてね?」
腕の中から覗く二つの黒い瞳に頷いてやると、も安心したのかふわりと笑い返してそのまま顔をリドルの胸に埋める。
「?」
暖かい体を抱えなおして顔を覗き込んでみると、少年は安らかな息を立てて静かに眠っていた。泣き疲れたのか、緊張の糸が切れたのか、その春の日和のような表情を微笑して見下ろしながらリドルは寝室に向かうために立ちあがった。
一度だけ動いたに苦笑し、額に唇を寄せると花の香が風に乗って髪をくすぐる。
「ああ、桃の花が咲いたのか」
美しい色の花を咲かせた木を眺めながら、彼は床板をそっと鳴らしながら廊下の奥に消えて行った。