曖昧トルマリン

graytourmaline

杉吹く風に闇夜烏

 名前を呼ばれた気がして振り向くが、少年の姿はない。
 私がの姿が見当たらない事に気付いたのは、肌寒い夕暮れも過ぎて辺りが完全に夜に支配された頃だった。
 朝方は魔法の勉強を少し教えてやったので、ずっと一緒にいた。
 確か昼頃にふらりと社の方へ散歩をしに行って、そして……そう、帰ってきた。
 その後夕食の準備をするからと再び彼は姿を消して、それからだ。いくら夕食の準備と言ってもがこんなにも長い間、目の前に現れないという事はない。
を見なかったか?」
 廊下で擦れ違った魔法生物に以前の自分では考えられないほど柔らかく尋ねると、それは頭の中に響くような声で答えてきた。
『裏の森へ行ったっきり、見ていませんな』
「裏の森?」
『お孫様なら迷子になるはずもありませんから、今ごろはお台所で支度をなさっていますよ』
 それだけ言うと、その魔法生物は案内をするといって体毛に覆われた小さな体を反転させて私を導いた。
 未だにこの屋敷には何があるのか判らない。普段何気なく通っていたはずの廊下に何時の間にか扉が増えていたり、消えていたりする。今までも入用もなかったので、特に気には留めていないが。
『……おや、おかしいですね。お帰りになっておりません』
 部屋につく前にその魔法生物は呟き、一つしかない瞳で何かを聞きつけたように私の後ろをじっと見つめた後、私を見上げる。どうするのか、と訊いているのだ。
「靴を持ってきてくれ、私が探しに行こう」
『承知いたしました』
 その言葉が言い終わるかと言う早さで、同じような格好をした魔法生物が私の靴を持って外に通じる通路まで案内をする。
 彼らは好んでこの家に居るという。その代わりに家事手伝いや何らかの家の仕事をすることで対価を支払っていると、そうに聞いた。
 だからこの魔法生物たちはどのような事が起ころうとも、自分の強い意思でここから発ちたいと思わない限り決してこの家から離れる事が出来ない。例え主人の孫が戻らなくても、主人に命令されても自分が好んだ仕事に従事するのだと。
 もっとも、彼らは命令される事を嫌う。イギリスに居る私には考えられないほど、彼らに対して柔軟に対応しているのは慣れとと彼女のおかげだ。
『如何なされましたか?』
「いや、私自身、随分と優しくなったものだなと考えていた」
『それはようございます。優しさを無くしてしまってはこの世は生き地獄も同じ事、屋敷に仕える私共も、お孫様の優しさに幾度となく救われました』
「……私もだ」
 は救いそのものだと感じる。
 子供の特権であるの甘さと幼さ、そして優しさが閉鎖された空間の中でも真っすぐに育まれてきた。私のような人間と出会っても、その純粋さは穢れを知らない。
『私共はここを離れるわけには参りません、どうかお孫様をよろしくお願いいたします』
 そう言って頭を下げてくる魔法生物に会釈をして暗い庭を歩き始めた。
 杖に光を集め、森の中に入ろうとすると何羽かの烏がそこから飛び去る。
 ふと、その羽音に混じり何か聞こえた気がした。
?」
 かなり曖昧で根拠のない、言うなれば直感なのだが、私はそれがの声に聞こえた。
 理由と呼べるような理由は、今はの事しか考えていられない状態である、ということくらいだ。
、どこだ」
 杖の明かりが右へ左へと移動する。しかし見えてくるのは苔で覆われた木の根や黒い瘤ばかりでまったくの手がかりは掴めない。
 せめて声だけでも聞こえれば、この不安も多少は納まるというのに。
「どこなんだ」
 自分でも、驚くほどその言葉が弱気だったことを認めよう。
 あんな小さな子供に、もうなしでは生きていけないほど、彼に依存している。無償の優しさを知ってしまった以上、そこから抜け出す事など到底不可能だ。

 名前を呼ぶと、返事が返ってきたような気がした。
 いや、返ってきた。
「こっち」
、どこにいるんだ?」
「こっち」
 奥の方から声が聞こえる。
 歩きながらもう一度呼んでみると、すぐ隣の木の根元の方にうずくまる小さな影を見つける事が出来た。長い髪を濡らし、柔らかな木の葉を纏わりつかせたまま小さくなっている。
?」
 明かりを向けてみると、寝息を立てて眠っている少年の顔が浮かび上がってきた。
 随分前から眠っていたような穏やかなその表情、疲労はあったがそれ以上に安堵がある。誰が呼んだのかは、さほど気に留めるようなことでもなかった。
「動けなかったのか」
 木の隙間に足が挟まっている。怪我もしているようだった。
 そっと杖を振ってを宙に浮かせると、足首に触れてみた。やはり熱い。
、大丈夫だったか?」
「……リドー、さん?」
 冷えきった肩を抱き頬を軽く叩くとは目を擦りながら私を見上げて微笑った。
「リドーさんだ」
「心配したぞ」
「ごめんなさい」
 短い腕が首に回されて、抱き着いてくる。
 その身体は、微かに震えていた。
「帰ろうか」
「うん」
 私はそれ以上何も言わずにの身体を抱え上げて立ちあがる。
 ただ、小さな手が私の服をしっかりと握り締めて離そうとしない。
 もう失わないように、この体を見失わないように強く身体を抱きしめると、腕の中の子供は安心したように目を閉じて指の力を抜いた。
 私は、微笑っていた。