墨染
芒の穂が揺れて、リーンと虫の羽音が夜の訪れを伝えていた。
静かな歌を口ずさむ唇の動きが停止する。紡いだのは目の前の人間の名前だった。
「リドーさん」
薄明の中で認識できた青年に幼い子供が境界までトタトタと近寄る。
「おかえりなさい、リドーさん」
「ただいま。」
腰に届くか届かないかという背が低く丸い物体に、リドルは優しく笑って見せて膝から離れるように言う。
「こらこら、。それでは私が歩けないよ」
「あ、ごめんなさい」
恐縮する子供の頭を撫で、怒っていないよ、と笑って見せた。
それでも叱られた子猫のような様子でちらちらとリドルを見上げているに、彼はそっと手を差し伸べた。
「……?」
「帰るんだろう?」
首が痛くないのかと疑問に思う程首を傾げた幼子に、リドルはしばらく繋がれない手と彼を見比べた後に地に膝を着いた。
目の高さを一緒にして、もう一度怒っていないよと笑いかける。
「本当?」
「こんな事で怒らないよ」
もう随分と視界が暗くなっていた。
太陽の沈んだ方向を背にしたリドルを見上げたからしてみれば、彼がどんな表情をしているのかさえ識別が困難なほどに。
更に腰を下げ手も地面に着いて、俯いているの視界に顔を入れると今度は少年の首が勢いよく反対側に傾げられる。
「どかうしたのか?」
そのまま丸くて軽い体を抱き上げると、短い腕がしがみ付いてきた。
胸元に埋められた顔から、もぞもぞとした声が聞こえる。
「こわいの」
「怖いのか? 一体何が」
「すぐね、暗くなるの」
「……夜が怖いのか?」
もう片方の腕でその体を支えなおし、頭を撫でると服を掴む手の力がますます強くなった。
胸元の顔は首を横に振る。
「色……」
「色?」
「色が、今だけ……なくなるの。みんな、暗い灰色に見えるの」
そう言われ、リドルは微かに頷いた。
歩き出しながら周囲の景色を見渡してみると、確かに全体的に青がかった色になっているように見えた。
ほんの30分程の時間に急激に光が失われる所為か、幼いにはそれが灰色に見えたらしい。
「灰色は嫌いか?」
「独りが、イヤ」
「……?」
「独りのときは、ずっと灰色に見えるの。全部、全部灰色なの」
しがみつくの言葉を聞いて、リドルは歩みを止める。
「、顔を上げてごらん」
「……いやっ」
ふるふると長い髪が揺れてリドルの腕に当たる。
頑なに顔を上げるのを拒むの頬に触れると、そこが濡れていることに気付いた。
「独りは、やだ」
「独りじゃない」
「……っ」
「は独りじゃない。もう、孤独ではない」
涙を手探りで拭い、顔を上げるように促す。
「ここに、私がいるだろう?」
「……うん」
「それでも、は独りなのか?」
「ううん」
「じゃあ、顔を上げて。大丈夫、怖くないから」
恐る恐る顔を上げたにリドルは上を見るように言う。
「……」
その先にあるのは、藍から薄紫色をした空。
ほかには何もない。上空にあるものはそれだけだった。
「綺麗だろう」
「……うん。キレイ」
「あれも灰色に見えるか?」
「ううん、薄明の色」
落ち着きを取り戻したに、リドルは微かに笑って、声をかける。
「さあ、帰ろうか」
「……うん」
再び歩き出すリドルに、は何か言いたそうに小さな手のひらで青年の頬に触れた。
「判らない訳じゃない」
それだけ言われると、も納得したのかそれ以上の言葉を促さず、青年を慰めるようにそっと寄り添う。
辺りは暗がりが増し、二人の表情は闇に飲まれていく。
夜の訪れはもうすぐそこだった。