安達が原
いつもは何処にでも居るはずの生き物たちが影を潜め声すらもしない廊下、ぎしぎしと床板の軋む音だけが空気を鳴らし消え入りそうな衣擦れの音が体にまとわりついた。
灯が微かに漏れている襖を開き、そこに静かに座っている女性を見下ろす。
「何か用ですか? 先生」
「ええ」
きちんと襖を閉め、何か濃密な気配が漂う小さな部屋の中でリドルとの祖母は正面に向かうよう座り言葉が紡がれるのを待っていた。
「……あの子の事で、話があるの」
「の?」
「この事は、他言無用にお願いするわ。できそうにないなら、ここで話は終わり」
無理に悪戯っぽく笑った女性にリドルはすぐに首を横に振る。無論本心からだ、彼女の他言無用とはつまり、誰かに漏らした場合死が訪れるという意味合いである事をよく知っていた。
安心したようにゆっくりと息を吐き出す姿を見ると、なぜか彼もほっとした。こんなに切羽詰まった彼女を見る事は、なかなかない。
余程の話なのだろうとリドルはじわりと汗の滲む手の平を握り、声に耳を傾けた。
「リドルは、あの子がどういう子なのか知らなかったわよね?」
「ええ」
「何故、あの子が両親を知らないのか……考えたことはある?」
今度は少し間を置いて、やはりリドルは首を縦に振った。
「からは、ほとんど何も聞いていませんが。旅をしているとか言っていました……無論その事を頭から信じていた訳ではありませんでしたけれど」
「……嘘ではないわね。真実でもないけれど」
少しだけ寂しそうに言った女性はしばらく言葉をおいて、リドルに尋ねてみる。
「リドル、貴方はそんな二人を軽蔑する?」
「……いいえ」
理由もなくを置いて放浪をするはずがないと、目の前にいる女性の息子だからこそそう思えた事を口にはせずただ短く答える。
再びほっとしたように息を吐いたの祖母は話を続ける。
「あの二人には、あの子を置いて行かなくてはいけない理由があったのよ」
「話したい事とは、そのことですか?」
「そのことも含めて、よ。あの子に惹かれている貴方だから言える事なんだけれどね」
「……」
「あら、無自覚だったかしら?」
普段の悪戯っぽい表情に戻った女性を見て、今度はなぜがリドルがほっとする。
最近は、を可愛がり始めている事を自覚しているのだが、まだその言葉を抵抗なく受け入れられない。
「でもね、リドル」
「はい」
また、彼女の表情が陰る。
どくん、と心臓が高鳴り冷たい血液が体内を疾った。
「本来ならあの子は、誰からも愛されずに死んでいく筈だったの」
「……それは、どういう」
「言葉の通りよ。あの子は誰からも愛されず、誰も愛さずに死ぬと決められていた子なの」
「何故、ですか?」
ぐらりと視界が歪み、耳の中でやけに速い鼓動が聞こえる。
冷たい視線がリドルを射抜いて、氷片が飛び散った。
「話せば複雑に、長くなるわ……でも、そうね、蔑まれていたから、かしら」
「蔑む? を?」
彼から考えれば、は蔑み様のない……誰からも愛されそうな子供だった。
その考えを見抜いていたのか、の祖母は軽く首を横に振って目の前の青年に昏い現実を突き付ける。
「あの子の両親はこちらの家系にとって望ましくない関係を結んだの。こちら式の純血を尊ぶ家系の息子と、偉大な魔法使いと呼ばれる男の養女……」
「養女?」
「ああ、リドルは、知らなかったのね……あの子の母親と髭は血が繋がってないのよ。厳密に言うと、別の純潔一族の血を引いているんだけれど。まあ、今は関係ないしそんな事は別にいいの」
「というか、ダンブルドアの孫だって事も今初めて知ったんですが」
「あらあら、駄目じゃない。どんな世界の戦でも情報は大切よ、魔法界を覆すつもりならどんな小さな裏の事も知っておかないと」
そんなのじゃあっという間に負けてしまうわよと笑われ、リドルは怒るでもなく素直に頷いて続きを促した。
「二人とも頭も技術もズバ抜けていたのにヤンチャな子でね、私の息子は堅苦しい家系に囚われたくないって放浪してはふらっと戻ってきて……どこで出会ったのか、アルバスの娘と子供ができたって彼女を連れて笑いながら帰ってきたわ」
「先生は……その時、どうしたんですか?」
「心から歓迎したに決まってるじゃない。二人とも強くて優しい子だからきっと育てていけるとも思ったの……でも、それを許さなかった。私の再婚相手と、あの髭がね」
苦々しげに言ったの祖母は一度自分を落ち着かせる為に深く息を吐いて、冷め切ったお茶を啜る。
窒息しそうな空気の中でリドルは静かに目を閉じて、言葉に耳を傾けた。
「再婚相手は当時の当主でね、彼女ごとあの子を殺そうとしたわ。でも出来なかった。息子より劣っていたから……だから子供だけでもと、命を落としてまで呪ったの」
「……そこまでする必要が、あったんですか?」
「あの男は魔法使いの血が混ざった人間は穢れていると吐き捨てたわ。女と子供を殺せばって……こっちもこっちで気難しい純血主義があってね。勿論、この家みたいな特殊なのは少ないけれどね」
男のこめかみの辺りが少し動いたのを見ても、彼女は表情を帰ることなく言い続ける。
「呪いを受けてあの子は生まれたわ、生憎あの子自身、魔法に関しては才があるのだけれど……こちらの能力に関してはほとんど力がなくてね、呪いを返すことも出来なかった」
「けれど……不特定多数から愛されないようにするなど不可能でしょう? 現に私はを愛している」
歯を食いしばり服をきつく握り締め、怒りを露にしつつあるリドルを見ると彼女はゆっくりと穏やかに息を吐く。
「殺す必要なんてないのよ。あの子を愛せなくなったのは血縁者だけ、私と、息子と……あとそのお嫁さんね。血族への呪いは単純で何より強いから。だから、あの子はきっと結婚しないわ。自分の子供に愛されなんて、耐えられないもの」
「……」
「貴方も薄々感づいてはいたんでしょう? 私があの子を愛していないって」
「……何となくは」
よりも血縁関係のない自分を愛しているように感じたのは決して気のせいではなかったと断言され、リドルは黒い物が体の中を侵していく感覚がはっきりとわかった。
愛されない憎しみを知っているからこそ、誰からも愛されそうな素直で純粋な子供が人の手によって愛されないように作られてしまった事に憤りを感じる。
「あの子を見ていても、自分の孫だとは思えない。他人の子供に思えるの、救いだったのは私も息子たちも子供が嫌いじゃなかったことね……でも、それだけじゃなくて」
話す事と思い出に少し疲れたのか、軽く足を崩して座ったの祖母は冷たい表情をしている青年に苦笑して肩の力を抜く。
今にもにその呪いをかけた人間を殺そうとするリドルだったが、その男はすでに死んでいた。ならば、その家系の人間を全て殺そうかとも考えている。
「私は、あの子の監視役なの」
「……監視役?」
「私は所詮分家した身だから本家には逆らえないの。外部との接触を極力避けるように命令されて……あの子は一族の汚点の一つだから、人の目に触れさせず、誰からも愛されないように育てれば大人になって自由を得ても、あの子は誰も愛せない……愛を知らないから」
びりびりとした何かが彼女の頬を掠った。奥の土壁が抉れ軽い砂の音が畳の上に散らばると、仕方なさそうな笑い声がリドルの耳をつく。
それに我に返ったリドルは、自分が無意識で使った魔法の跡を見て気恥ずかしそうに座り直して相変わらず穏やかにしているの祖母に頭を下げる。
「気にしなくていいのよ、これくらい直せばいいのだし」
「先生」
「正直困っていたのよ、あの髭も一向にあの子に会いに来ないし……このまま育って行ったらあの人達の思う壺だったから。まあ、私が退屈だから外にはしょっちゅう連れ出しているのだけれどね」
「ダンブルドアは何故に会いに来ないんですか?」
ダンブルドアは直接の血縁ではないのだから、あまりリドルにとっては嬉しい話ではないが自分が出会う以前からを愛せた筈なのに。
「言ったでしょう、あの髭もあの子を生むのは反対したって。一度会ってみたらって言っているのに頑固なのよ」
「……」
「あの子は父親似で、そこがまた癪に触ったらしくてね、なんだか私の知らない所で息子と色々あったらしいのだけれど」
一族の話をする時よりは幾文か柔らかめに、それでも手厳しく言うの祖母にリドルは苦笑して頷く。自分のあの男に対する嫌いとは別の嫌いを彼女は持っていて学生時代はよく二人して悪口を言っていた。
杖を人振りして背後の壁を修理すると誰に言う出もなく言葉を放つ。
「それはあの子と直接関係はないのに。何が偉大な魔法使いよ、ただの大馬鹿者の爺じゃない。あの子がホグワーツに入学した後に死ぬほど後悔すればいいんだわ」
言葉遣いが年齢より若干若めになっているのは彼女が少々頭にきている証拠だ。
それに気付いたのか、はっとしてしばらく間を置くとリドルに話はそれだけですよと落ち着いて言う。
「……先生、なんでこんな事を私に?」
「知っておいて欲しかったの、あの子を愛しているからこそ……愛していない私たちが知っていて、愛しているリドルが知らないなんて何か変でしょう?」
「そう……ですね。では、失礼します」
軽く頭を下げて立ち上がったリドルに、ほの暗い空気をまといながら彼女は目を細めて背の高い姿を見上げた。
「リドル……この家は恐ろしい場所よ。貴方が思っているより、ずっと」
「……」
「ここは血族同士が争い、呪い、殺し合う世界。親が生まれてくる子を殺し、子が親を呪う場所……貴方が人間の本質と他人への疑心を利用して恐怖に陥れる構わないわ」
血で血を洗う地獄を見てきた女性はきついまなざしを男から視線を外し、強い口調で言う。
「でもせめて、人を愛せる世界にしてあげて……貴方だって、あの子が貴方に殺されると思われているのは嫌でしょう?」
「私はまだそこまで、強大で愚かな力を持っていません」
「そうね。ごめんなさい、年寄りの戯言だったわ」
「いいえ」
短くそれだけ言って襖を後ろ手に閉めたリドルは、暗すぎる天井を静かに見上げた。
濃密な空気に吐き出した息が黒く感じる。これが呪われた家の本当の姿なのかと紅の瞳が昏く沈み、汗に滲んだ手の平を握った。
「人を愛せる世界、か」
の事を考えると、ぞっとする。
自分もせめて、あの少年だけには愛されたいと思う。その気持ちは否定できない。
「……」
あの小さな子供を、今すぐ抱き締めて腕の中でその温もりを感じたかった。