よすがの諷経
背中に定規でも差し込まれているのかと錯覚するくらいに姿勢を正して、女子供の腹すら満たせない僅かな量を馬鹿丁寧な箸使いで静かに口に運び、必要以上の回数を噛んでから、ゆっくりと飲み下す。
一連の動作は無言、無音、無表情のままで、一切の感情が拾えない。汚らしさとは真反対なので女受けは分からないが男受けは後指どころか前からも指を差されそうな最悪の部類で、用水路の躄蟹を彷彿させる遅々とした食べ方だった。
寺での修行の成果というよりも、他人に見せられる礼儀正しい食べ方の抽斗がそれしかないのだろう。過ぎたるは及ばざるが如しと言われるが慇懃も例に漏れないようで、一見しただけで仏僧と分かる食事作法の手本のような所作も度を越すと滲むような居心地の悪さを相手に与える。
初めて上がり込んだ家で葉巻をふかし、同情を誘って世帯主を陥れた挙げ句、真っ昼間からウイスキーを水のようにかっ喰らっていた男と同一人物かと疑いたくなるが、水木とて好きで両極端な男の食事を眺めている訳ではなかったし、論評する自身の食べ方があまり褒められたものでない事も自覚している。手持ち無沙汰故に、たまたま目に入っただけなのだ。
そもそもである、何故が水木の家の食卓を囲んでいるのか、経緯はともかく理由の方は家主たる彼にすら分かっていない。
一体何が琴線に触れたのか、用件を済ませ帰宅しようとしたを引き止めたのは水木の母親だった。夕飯を食べていかないかという誘いに目を丸くしたのは息子の水木だけではなく誘いを受けたも同様で、一体どういう事だと無言で投げられた黄色の視線に対して彼は首を横に振る仕草を返事とした。
子を持つ母として背丈の割に薄っぺらで細いを案じたからかもしれないし、蒸し暑い日に煮物を多く作り過ぎてしまったから分け与えられる相手を確保したい主婦の目線からかもしれない。いい年した大人の馬鹿を直視したので精神年齢と頭の具合を心配しているのだろうという最も可能性が高く俯瞰的で冷静な選択肢からは目を逸らし、箸の先で茄子の漬物を摘んだと、よりも嵩の多い食事をいつも通り食べている水木の母を観察する。その視線に内包された意味まで気付いたからか、見慣れている方の箸が止まった。
「人にはそれぞれ、丁度良い速度というものがあるんだよ」
早く食べろとも、ゆっくり噛めとも、足して二で割るくらいが丁度良いとも言わず、透き通った冬瓜を一欠口に運んだ水木の母親は早くも遅くもない速度で食事を進める。どんなに畏まろうと馬鹿の遊戯に興じていた片割れなので一皮剥けば飲むように物を食べる同類だと訂正する気にもなれず青い缶に手を伸ばし、が訪ねて来る直前に火を点けたものが最後の1本だった事を今更思い出した。
仲睦まじいと形容するのは大いに語弊があるが、それでも中座の断りを必要とする場でも間柄でもないので新しい物を取りに立ち上がろうと顎を上げた先で、くすんだ緑色の箱が音もなく差し出される。同席者によっては食べている最中に行儀が悪いと叱咤か顰蹙される行為も水木にとっては有り難い気遣いであったし、水木の母親にとっても息子の食後の一服など今更咎める行動ではなかった。
旧三級品の中でも極めて安価なその煙草は、であるからこそ心置きなく1本頂戴出来る。短く感謝を述べ口内を煙で満たしながら吟味すると雑味が味蕾を刺激して個々の煙草が持つ個性と奥深さを再認識させられた。水木が愛飲する銘柄のバニラ香とは異なる特徴的な甘さと僅かな酸味が口腔内に広がり、煙の量が多い。諸々と比較して旨い不味いに言及すべき値段と品質ではないが、このように偶に誰かからの頂き物として呑むならば丁度良い塩梅だろうと普段と違う匂いの紫煙をもう一度吐き出した。
まだ葉巻の跡が残る灰皿を引き寄せて外に目を向けると、障子の隙間から見えた庭の黄昏の色合いを背景に崩壊と再生を細々と繰り返しながら移動する影を目にする。磁石に引き寄せられる砂鉄のようにも見えるあれも妖怪の類なのだろうかと追おうとする水木の名を、が呼んだ。
なんとなく惜しく思いながらも浮かせた腰を戻しても金盞花の目は水木に向けられていない。意味もなく名を呼んだだけなのならもう一度あれを追ってもいいだろうかと考え片膝を立てた水木の名の輪郭を確かめるように深い声が呼ぶ。今度は視線が合った、研がれたばかりの剃刀のような剣呑な光を帯びているそれが和らいだように取り繕われる。
「水木の兄ちゃん。蝙蝠はどうだ」
「何だって?」
「变福さ、外地じゃその煙草をこの名で呼んでいた」
「聞き取れなかった訳じゃないんだが」
昼間は日本での通称で呼んでいたというのに敢えて呼び方を変えた意味が分からず一際深く煙草を吸うと障子の向こう側で影が大きく波打った。
歩みを止めた影は沢山の細い薪が爆ぜるような音と共に輪郭を崩し、枯れ葉が擦れるような音に混じって何かが嘆息する声が耳に届く。影が完全に崩壊すると小さな音の群れは哄笑か叫声かの判別すら出来ない声を上げながら消え、不愉快な金属臭と吐き気を催すような饐えた臭いを発生させる。直後、それを打ち消すかのように知らない煙草と蝋燭の炎が消えた後のような匂いが隙間から流れて来て、吐き出されたばかりの紫煙と混ざった。
全ての香りが消えた後、水木の背筋に怖気が走る。
一切の形跡を残さず消えたあれは知識を持ち得ない彼でも本能で分かる不浄のものだ。まともな思考と感覚を持ち合わせていれば追う以前に目すら合わないよう気を付けるはずの影の塊に彼は惹かれてしまっており、もしも追っていたら、少なくとも無事では済まなかっただろうと今更肝が冷える。
息を飲んでを見るも煙を隔てた金杯色の視線が水木の母を指し、軽く伏せられ、何事もなかったかのように箸が置かれた。
「ご馳走様でした。大変美味しくいただきました」
「はい、お粗末さまでした」
綺麗に召し上がってくださって、いや独り身ですと煮物など作る機会もなく有り難く頂戴してしまい、などと愛想の応酬を繰り広げる中で、ふとが口にした日常生活では頻繁に耳にする感謝の言葉を水木の母は気に留める。
「おや、お坊様なのにお礼を言われるんですね」
「ご覧のとおり、わたくしは世俗との関係を絶たぬ破戒僧でございまして、愚かな振る舞いをする事もあれば嗜好品も嗜んでおり、破門寸前の体でついぞ托鉢の鑑札を手にする機会も御座いませんでした。しかし何よりもまず水木様におかれましては、わたくしを仏僧の末席に名を連ねる身とは知らず御子息の知人として親切で招いてくださった、であるのに好意を受け取った後で信仰を盾にした思想の押し付けは僧侶である以前の人としては失礼に当たるかと存じます。水木様がわたくしという個に与えてくださったのでしたら、わたくしは個として返礼を申し上げるのが道理だと信じております。誠に申し上げにくいのですが、仮に喜捨を賜りたいのでしたら寺院に僧籍を有しないわたくしは不適当ですので、ご辞退させていただく事をどうかお許しください」
「相変わらずの長広舌だな」
滔々と語られる言葉の羅列を流し聞いていた水木が口を挟むと、は背筋を伸ばしたまま畏まった表情で水木の母に断りを入れ、口調を乱しながら続けた。
「交通網が発達して腐ちるほど寺社が乱立する時代から目を背け胡座をかき続ける婆羅門僧でもあるまい、喜捨の機会をくれてやるなどと御為ごかしも甚だしいことを宣う居丈高な托鉢僧に足並みを揃えてやる必要が何処にある」
「お前、それは破戒僧の枠すら超えてないか」
「俺が仕えるのは高僧でも古刹でもねえよ。御仏か、己自身の意志だ」
「そこで法師還りじゃなくて原理主義者に寄るのか、宗教家同士の諍いが終わらん理由を垣間見れたよ」
悪びれないを水木は呆れた目で眺め、水木の母はそんな2人のやり取りを微笑ましそうに眺めてから空になった器と箸を置いて膝で立つ。静かに食器が積み重なり片付けられる様子を黙って見る水木とは反対にはご迷惑でなければと一声掛けてから手伝えないかと申し出を行い、運ぶだけならばと了承をされていた。
木製の軽い椀や箸を持つ水木の母親の後に付いて、分厚く重い陶製の食器を持ったが席を外す。家事に慣れた人間達の動きに昼間の忠告を思い出すも、せめて何らかのきっかけが欲しいと足踏みしてしまい自分の気持を誤魔化すように不慣れな味の煙草を深く吸った。
しかしどうにも落ち着かず、思考を上塗りするために先程の影はどうなったのだろうかと声に出しながら水木は煙草を咥えたまま立ち上がり縁側へと通じる障子戸を開ける。暗がりの中で先程まで何かがいた場所を見つめても生物がいた気配は無いが、ふと違和感を覚え庭に出ると地面が光り棒のような物が突き出ている姿が目に入った。
「なんでこんな所に鉞が」
斧と口に出そうとしたにも関わらず、水木の声は眼前の物体に対して正確な名称を並べ首を傾げる。明らかな違和感を拭えずにいるのにあれは正真正銘の鉞だという確固たる自信があり、思考や詮索を視えない存在に阻まれる感覚に陥った。
人ならざる何者らかの介入を受けていると気付くも、そんな事より何故そのような刃物が庭の真ん中に鎮座しているのかを考えなければと正当故に抗う理由がなく受け入れざるを得ない思考を上書きされる。実際、この刃物が斧か鉞かの正確性よりも、刃物そのものが庭のど真ん中に刺さっている方が余程大きな問題であるのに間違いはない。
水木の家には鉄砲風呂が備え付けられている関係で薪を割る機会こそ多いが、その薪にしても焚付用に少量買い入れているだけなので加工は鉈1本で足りていた。家の明かりを煌々と反射するほど砥がれた鉞など買った記憶もなければ家の何処を探してもありはしない、そもそも、この刃物は昼間見た時には存在せずあの影が消えた場所に鎮座しているのだ。普通の刃物であるはずがない。
「……に任せるか」
気配以前に出現経緯が尋常ではないため必要以上に近寄らず触らずを徹し、専門家と呼ぶには怪しいがそれでも自分より知識を持つ人間に相談という名の処理させようと決めて短くなった煙草を投げて捨てる。暗闇の中で赤く小さな種火が二度三度弾み、大地から突き出したままの刃に煙が触れた。
「は? おい、何でだ!?」
まるでそれを合図にしたかのように鉞の形が靄のように朧げになると吹かれた風に乗って姿を消し、庭の地面には突き立っていた跡さえも見当たらず水木は狼狽える。煙草を捨てただけで消えると予想出来る方がおかしいと思う反面、超常現象なのだから何が起こってもおかしくはなく警戒すべきだったと悔やんだ。
何もない空間を指して今更説明すべき事なのか、生まれつき見えると話すなら理解を示す可能性が高いものの解決する気がしない、しかし超常現象を後出しで報告するのは明らかな悪手だと分かる、跡形がなくとも相談をしておけば最悪の事態だけは免れるだろうか。
「最近とお伺いいたしましたが、具体的にはどのくらい前からでしょうか」
「週の半ばからなので、3日か4日程。新聞を取りに出た時に明かりが漏れていて」
当惑する水木の耳へ台所の明かり取り窓から漏れた母親の声が届き、に伝えるべきだと決心する。この家に居る時間が長いのは水木よりも母親だ、軍隊上がりの男に責任が返ってくるならまだしも最早唯一の肉親である老母に何かあってからでは遅い。
しかし、食器を運ぶはずだったのに結局2人で洗い物までしているのか水音や器を重ねる音の合間にとの会話が挟まれる。日常会話にしては話題が若干きな臭く、良くないと自覚しつつも水木は勝手口には赴かず窓近くの壁にすり寄って耳を澄ませた。
「最初こそ気に留めていなかったんですが毎日となると……お寺さんは朝が早いからと納得しようとしても落ち着かなくて」
「不安に思う気持ちは充分に伝わりました。わたくしの知る限りでも隣の僧院に住職はおりません、再建や修繕の計画も耳にした記憶は……ただ、何分時期に開きが御座いますので、断言はいたしかねます。一飯千金にはなりませんが幸い寺院の縁ならば御座いますので、この件はお預かりしましょう」
「ありがとうございます」
隣の古寺という名の廃屋に何者かが住み着いた形跡があり母親が不安がっているとまでは聞き取った水木は溜息を一つ吐き、が家を出た後に立ち寄ると踏んで見送りとでも嘯き同行しようと腹を決める。
母親が息子である水木に告げなかったのは彼を気遣っての事だろう、しかし、今日会ったばかりの他人に頼ろうとするくらい弱って見えるのかとあまりにも不甲斐ない自分自身に憤りを覚えた。相手が僧籍に身を置く専門家で、ラジオや新聞の広告欄でも知られた大手の興信所に所属する調査員だとしてもだ。
右手を懐に入れようとするが、煙草を切らしていた事を思い出してどうしたものかと夜空を仰ぐ。星座の多くが屋根と雑木林に遮られ見えない中で地平から顔を出したばかりの赤い月光が目に留まり、時折不規則に飛ぶ小さな影が宙を横切った。蝙蝠の羽音の下では頭頂部から人間の腕を生やした馬の首と梵鐘のような大きさの薬缶が雑木林の中の一際太い枝に並んでぶら下がっている珍妙な光景が広がっていたので、敢えて水木は無視する事にした。
あれくらいこの世の物でないとはっきりしていれば妖怪だと分かるのにと踵を返そうとする水木の背中に、彼の母親の声が落ちてきた。
「どうか息子には伝えずにいてください。きっとあの子は、何故頼られなかったのかと自分を責めます」
「……我が子の身を案じる感情を律する事は苦行でございましょう。そのような時にこそ憂いを祓うため、御仏は手を差し伸べてくださり、僧坊も力添えをいたします。と、一介の坊主であれば、救済を説き、己が宗派を布教するものですが、わたくしのこれは人間としての我利に尽きます。社会は既に人間同士の関わりで発展する基盤が整っており、神仏は共同体に属する同士を確認する為の指標へと変わりつつあります。人を救う為に人の力を使う前提で作られた世界に所属している以上、誰かに手を差し伸べるのは自分の環境を整える為の利己に帰属するものと存じます」
昼間のように噛み合っていない説法の合間に蛇口が捻られる音が聞こえ流水音が止まる。水木の母親は応えない。
辺りに漂い始めた空気は明らかに作られたものだ。盗み聞きはとっくに勘付かれておりは水木自身に語り掛けていた事を悟って場を離れようとするも、背後に坐す誰かが告げ口でもしたのか間違いなく水木がそこに居る前提で光を漏らす隙間から声が降ってくる。
「聞いただろう、兄ちゃん。この件は俺が預かった」
加護を与える守護神だろうと水木の気持ちよりも自身の志向を優先する辺り、神はどこまでも神だと彼は密かに呆れた。
「人手が必要になるかもしれないだろ」
「要らん。明かりを隠す様子がないのなら法に触れる輩の根城じゃないだろう、ちょいと顔を見せて世間話をするだけなら1人で充分だ」
「元は付くがこれでも営業職だ、口には自信がある」
「回すのは舌じゃなく頭だ阿呆が。丸め込まれた事を逆恨みするような輩が相手だった時の事を考えろ、真っ先に害が及ぶのは誰だ」
「……忠告には感謝する」
「そこで嘘を吐けねえ時点で口すら回ってねえんだよ」
御母堂の傍にいてやれと諭す声に水木は返事をせず勝手口へと爪先を向け、数秒の思案の後に踵を返して歩き出す。幸いにも台所から声を掛けられなくなったのでのんびりと庭を横切り、居間に通ずる縁側の前を通ったところでようやく背後の扉が開閉して板切れが砂利を踏み散らす音が急速に近付いて来た。
「この利かん坊が、引き返せや!」
古びたつっかけの底を削るようにして勢いを殺し水木に並んだを見上げて、ついでとばかりに豊かな髪に覆われた頭を小突いて視線を逸らして進む。俺は折れないお前が折れろと無言で主張する水木の横顔を見下ろしたは早々に説得を諦めたのかあからさまな溜息を吐いた。
一連の遣り取りの何が面白かったのか、木々にぶら下がる馬面と薬缶面は無い腹を抱えて笑っている。人を真似たものではなく、馬と薬缶の笑い声としか表現しようのない不気味な声だった。
「言うに事欠いて利かん坊とはな。坊主はお前だろう?」
「上手い事を言ったつもりか、俺とお前を同じ括りにするならЛысаяも並べるぞ」
「風流に欠けるな、芒に月より菊に盃くらいは言ってみろ」
の口にしたロシア語を理解出来ないまま、それでも表情と声色と話の流れからハゲに近しい言葉だと推測した水木は花札に喩え、自分の美意識と情緒を溜め込んでいる抽斗も碌なものではないと評する。とはいえ、受け取るも大差のない感受性のようで、雅な酒も嫌いじゃないと一介の酒好きとしての忌憚ない意見を返した。
「だが、相手に囲われている時に八方美人を披露するАлкоголизмは好かん。花見で一杯、月見で一杯と欲深く杯を重ねられると腹が立つ」
「苦々しい声の割に雨流れにしろとは言わないんだな」
「そりゃあ自分だけが呑む分には愉快だからな」
「勝手な言い分だが違いない。まあしかし、月はともかく雨に濡れた桜というのは……」
そう悪いものではないと言いかけた舌と足が止まり、突如襲いかかった頭痛を抑えるために側頭部へ左手を伸ばす。
頭痛と共に脳裏に浮かぶ光景は何処とも知れない暗闇の中で佇み、注連縄が括られた満開の桜を見上げる自分だ。枝垂れた花々は夕焼けの光を浴びたかのように赤く輝いていて足元の湖は燃えるように青く発光している。その奥底には赤黒い大樹から伸びる根が、眼窩を曝す痩せ細った多くの人間達を捉えるようにして絡み合い、足元で吹き出した血飛沫が瞬く間に湖を赤黒く染めた。
水木はその光景に既視感を覚え、禍々しさに吐き気を催す。
あまりに悍ましい光景だ、まるで自分がその場に居て実際に目にしたかのような錯覚に陥る程であるのに記憶にはない。いや、記憶にない故に心当たりがあった。しかしそれはほんの少し前、夏の最中の出来事のはずで桜が咲くような季節ではない、そもそもあの水の中で囚われていた無数の窶れた人間達は一体何なのか、確かに持っていたはずの記憶を探ろうとすると割れるように頭が痛み漠然とした罪悪感に襲われる。
静かに散る花弁の下で水に浸かった男が妻を呼び、傷付きながら探している。水木は両手に持ったものを振り上げようとして咳き込み、血を吐きながら倒れた自分自身の姿を幻視した。剥き出しの岩肌の上に建てられた場違いなくらい悪趣味な金屏風の前で誰かが花見酒をしている。顔は見えず、思い出せない。脂ぎっているくせに嗄れた声の、金色の瞳の男。遺影が見える。
「おい、兄ちゃん、支えてやるから凭れ掛かれ。腰も下ろせ。持病は……精神的なものなのか? そうか」
「……」
「親切な御友人方が教えてくれているから言うことを聞いて大人しくしておけよ。鼻血が出ているな、袖で拭うな、これで抑えろ」
壁の向こうに居る水木の母親の耳に入らないよう気を遣ったのか声を潜めて手渡されたハンカチで鼻を抑え、見上げた先の顔を見て水木は呆然とする。
目の前で彼の身を案ずる男もまた金色の瞳をしていた。だが淀み腐臭を放つあの金色ではなく、孤高の狼が持つ目のように澄んだ黄金色だ。ただ同じ色というだけなら水木にだって似たような色の目をした人間がごまんといるのだから、単なる偶然に過ぎない。第一、声の艶と深みが全く違う。
記憶の中の金色の瞳の男が絶対にしないであろう表情を浮かべながら水木の額に触れたは家に入れとは言わず、ゆっくりと髪を撫でながら繰り返し真言を唱えている。オンから始まりソワカで終わる言葉の意味を水木は知らないが、恐らく、痛いの痛いの飛んでいけの呪いを仏教という濾過器を通して大仰に唱えているのだろう。薬師如来の名前くらいなら彼の知識にもあった。
の祈祷が通じたというよりも、時間の経過と共に精神が安定したので頭痛も治まる。軽く礼を述べながら水木はその場から立ち上がりハンカチを返そうとして、自分のポケットにしまった。流石に血で汚れたものをそのまま返すような真似はしたくないが、家に居る母親の目を避けての洗濯は現実的でないため後日それなりの物を買って返品すると告げるとはハンカチよりも薄っぺらな口調で上等な返礼品を期待していると笑う。
「そんな大層な物を買えるか。お前には麻か木綿のハンカチで充分だ」
「それなら色は白に近い無地がいい。使い勝手が良いのにやれ御遺体の顔にかける布の色だ、手巾が縁切りを連想させて不吉だと趣味の合わん派手な色や柄物ばかり依頼人達から贈られていい加減処分に困っている」
「どんな仕事をしたら大量の縁切りを申し渡されるんだ」
「浮気や素行調査だな、企業の信用調査を任されるほどおつむは回らんもんでね」
「成程、そりゃ縁も切りたくなる」
軽口を叩ける程度には治まったかと尋ねながら水木の頭に添えていた手を目の前に差し出して立ち上がらせたは朱い髪も金の瞳も夕闇に溶かし、水木の家から僅かに漏れる明かりを受けながら懐に手を入れて小さな紙袋を幾つか投げて寄越す。軽く振れば粒の大きな粉がしきりに触れ合う乾いた音が聞こえ、その軽さと大きさから葬儀の際に渡される物を想起させた。
「これは、塩か?」
「そうだ。何があったかは知らんが、兄ちゃんの軸が揺れ動いてから人に害を与える類の連中が妙に騒がしくなりやがった。昼にも言ったが俺ぁ法力を授からなかったから経は読めても護法の術は持たん、そいつをくれてやるから身の危険を感じたら相手に投げ付けるなり自分に振り掛けるなりしろ」
「分かった、有り難く受け取っておく」
水木は受け取った紙袋をハンカチとは反対のポケットに入れ破戒僧を自称する割に常に塩は持ち歩いているのかと感心する。しかしは、声にすら出されなかったそれを正確に読み取り即座に否定した。
「人間相手に迫真性を持たせる為のただの塩だ。浄土真宗に限らず本来仏教ではどの宗派も清め塩についての教義なんてねえよ。死を不浄とするのはこの国に根付いていた神道の考えで黄泉比良坂から戻った伊邪那岐命が潮垢離をしたのが発端だ。しかしまあ字面が勘違いを起こしやすいのは認めるさ、真言宗や修験道は垢離を掻くから仏教のもんだと位置付けたくなる気持ちは分からんでもない」
「ただの塩でどうにかなるものなのか」
「兄ちゃんだけはな。平釜で炊いた天然塩は万斛の水と火の力を以て精製されたものだ、加護をより具体的に顕現させるには良い具合の依代になるだろうよ。それがなくなったら自分で買い足せ、無論、感謝の念も忘れずに」
塩そのものに力はなく水木を加護する神の力を引き出す為のものと説明され、超常現象なりに相応の理屈があるものなのかと歩き出す。
夜風は微温かったが汗に濡れた水木の体を冷やすには丁度良かったようで、歩を進める毎に思考が整理されてゆく。
は依代と言った。つまり、水木相手にだって清め塩と一言嘯けば終わる話であった。だというのに敢えて雑学を披露したのは、説明を聞かせる対象が彼ではなかったからだ。
塩は水と火の性質を持っているからこれを媒介にお護りくださいと水木の背後に居る神々に対してこの男は願い出ていた、それならば居間での奇妙で強引な遣り取りも意味は分からずとも意図は理解出来る。
「なあ、。さっきの煙草も依代か」
「そうさ、愛宕信仰の祭神たる火産霊命へ頼み込んだ。あの場には水も充分あったがお袋さんの手前、障子を開けて投げ付けるわけにもいかんだろう。神は人の声を聞くだけでなく読み解ける、だから蝙蝠の発音が福に変わると近音だと中国の験担ぎを言い開いた。あれの末は白溶裔か虎狼狸辺りだったかもしれんが、まだ姿形が成っていない力の塊だから煙草1本で済んでくれて良かったよ。姿も名前も獲得していたら鵺のような性質でもない限り弾かれていただろうからな」
「……火産霊命は火の神だから鍛冶の神も兼ねているよな、神道だと鉞が縁起の良いものに分類されるのか?」
数ある刃物の中で何故鉞なのかが分からず水木は疑問を口にした。次いで日本武尊の東国征伐程度しか知らないと持ち合わせている知識の上限を開示するも、仏僧のはというと門戸外なので神様も御神体も詳しくないと頭振る。崩れかけた門をくぐり名前も分からない草が生い茂る広い敷地に足を踏み入れながら、元寺社だった神社なら幾らかと頼りない記憶を探りながら言葉を引き出した。
「確か九州の、筑豊辺りにあった霊仙寺には鉞舞が奉納されていると伝え聞いた覚えがあるな。そもそもの話、旁の戉の字義は儀式に用いる大きな斧だから探せば他にもそれなりの祭事はあるだろうよ。仏教ならまず仏像の持物の鉞斧を挙げられるが、神道となると杉並か世田谷の図書館に足を運んで調べた方がいい」
「そこまでして知りたい訳じゃない。時間に空きが出たら、そのうち調べるさ」
「こういうもんを後回しにすると忘れるだけだぜ」
「それにしても、エップと言ったか。中国語には聞こえないな、満州語か?」
「兄ちゃん誤魔化すのが下手だなあ、まあいい、忠告はしてやったからな。鉞斧は日本語だよ、鉞のえつと斧のふを合わせてえっぷ、明王や千手観音、大随求菩薩の持物で煩悩を断ち切る知徳の象徴さ。誰が言い出したのか罰を受けなくなるやら、役人の難を避けるなんて言説も流布しているらしいが、悪い関係を断つ御利益がある事に違いはねえ。しかし、いきなり大工道具なんぞ訊いて一体何処から御神託が……降りてるじゃねえか」
胡乱な目をしたが水木の背後を凝視してから得心がいったように頷き、すぐさま思い直したのか腕を組んで背中を丸めると首を傾げた。
「にしても水木の兄ちゃん、生まれか育ちは信州か? いや、なんだそれは……鉞にしては刃厚が厚い、ひつ穴も見当たらねえ。おい、まさか秘壙塞ぎの儀礼鉞じゃねえだろうな、そんなものと何処で縁を結びやがった」
「心当たりすらないからお前に訊いたんだ、庭のあの訳の分からないものがいきなり鉞に変わって消えたんだよ。そもそもこの鉞は神道じゃなく俺に理由があるのか?」
「ああ、火産霊命は火薬を使う三八式歩兵銃なら馴染みがあると気を遣ったが兄ちゃん側からの介入で鉞に変じたと仰ってる。なんだ、兄ちゃん斧だと判断しかけたのか、そりゃあ正しい形を創るために意識に逆介入して訂正もするわな」
「鉈ならまだしも鉞なんて触った事すらないんだから区別なんて出来るはずがないだろ。そんな事より随分と大仰な名前が聞こえたが、儀式に使われているようには見えないただの鉞だったぞ。ひつ穴は、確かに塞がっていた気がするが」
一般的な鉞の刃の厚さなど知る所ではないので触れず、製造工程を含め刃を固定する楔を打ち込む穴が塞がれている構造は鉞や斧のような道具として考えると不思議ではある、しかしそれ以外は金物屋の隅で売られている大工道具にしか見えなかったと思い返していると、そのひつ穴が開いていない事こそが重要で最大の特徴だと、夜空を仰ぐように背を伸ばしながらは返す。
「ひつあなは同音異義語だ。神秘の秘に壙は墓穴、それを閉じる儀式用の鉞。人知を超えたものを彼岸に封じる祭具で木曽の鬼道衆……じゃあ分からんって顔をしているな、陰陽師なら知っているか? その一派が逸失したはずの物だ」
「大した由来の代物だ、言われても全く記憶にはないがな。そもそも本当にの言うものと同一なのか?」
「鉞ってのは不思議な道具でな、ひつ穴と刃の型に地域性が色濃く出るから外観だけで幾らか出処を絞れる。ひつ穴のない丸後型の刃は俺の知る限りそいつだけだ、で、信州に縁のなさそうな兄ちゃんと鉞を結ぶ点は……火産霊命様は分からんとの事だ」
神様に分からないのなら八方塞がりだなと投げ出しかけて、水木は思い止まった。
態々火産霊命と主語を入れた理由を勘ぐり、他の神ならば心当たりがあるのではないかと疑いの眼差しを向ける。知らぬ存ぜぬと素知らぬ振りを貫き通す気はないのかもその視線を受けると肩を竦めながらも言いたくないんだとよとぞんざいに前置きして、水木がその神の名を言い当てるのを待っていた。
「靖国の馬鹿野郎共かよ。って事は、いや……軍の支給品は規格が決まっている。なら、俺は、あれを何処で?」
「流石にそれは俺も分からん」
記憶がないという事は哭倉村かと結び付けたくなる気持ちを流石に安直過ぎると抑え、子供の頃に祖父母の暮らす田舎で見た記憶の可能性もあるのだからと思い直す。
これ以上の推察をするにしても、手札が全く足りていない。
「、あいつらから聞き出せないか」
「進んで言い出していない事が答えになってるだろうが、兄ちゃんにとっては親しい友でも俺にとってはやんごとない神様なんだよ」
「そうか。それもそうだ」
機嫌を読み取り頼み乞い願う事しか許されない、無理強いして口を割らせるなど以ての外だとが言外に告げ水木も納得する。そもそもが言ったように彼は通訳に過ぎないのなら頼み込むだけでも不敬に当たり、最悪の場合は神罰が下される可能性だってあるのだ。これ以上は自分自身でどうにかしようと決めて出来る事をやってくれたに礼を述べながら顔を上げた。
鉞が出現した主だった原因と経緯は把握出来た。多少の疑問は残るもののいずれ分かる時が来るだろうと頭の片隅に追い遣り、今は確かに目に入る小さな光に向かいながら意識を集中させる。形を保てず崩れ、朽ちた屋内を曝す廃屋からは明かりの他に話し声のようなものも聞こえるので、人数は2人以上と考えていい。果たして、どのような人間が根城にしているのだろうか。
「今更だが、戻れとは言わないんだな」
「既に一度引き返せと警告しただろうが。お袋さんに息子をよろしくと頼まれたんじゃあ、そう何度もしつこく止められん」
「お母さんが?」
が勝手口から出て来るまでに妙な間があったと今更ながらに気付いた水木は、まさか母親が陰で頭を下げていたとは予想しておらず頭を抱える。今日会ったばかりの赤の他人に息子をよろしくなどと無責任な頼み事をする親ではないから下手な嘘も大概にしろと返すには心労をかけ過ぎている事を自覚していた。
第一は、言動と外見を除けばという注釈付きの上で、正真正銘の僧侶だ。見えていなかったものに振り回される水木の変化を間近で見てきた母親が初対面の男に縋ってしまう優しさを彼は責められない。ただ、母の安寧の為にを利用する事だけは気が引けると思い悩んでいると、その考えを見透かす金色の目が薄暗がりの中で光った。
「さっき聞かせただろう、俺のこれは我利に過ぎん」
「たとえ目的はそうだとしてもツケは払う主義なんだよ」
「飯を馳走になっただろうがよ」
「依代まで用意して貰ったんだ、夕飯一食じゃ釣り合わないだろ」
「何が悲しくてЧастныйで算盤を弾かにゃならんのだ。互いに仕事でもないのに等価交換なんぞを持ち出してくれるんじゃねえ」
「そうは言ってもな」
「じゃあ何だ、逆に俺の見返りが一膳分より少なかったとしたら、兄ちゃんは差し引きで等価になるまでツケを払えと鉞担いで取り立てに来るのか? まさかとは思うが感謝の気持さえあれば、なんて言わねえよな、その手の気持ちなら兄ちゃんもお袋さんも十分抱いてるだろうからよ」
「……分かった。の好きにしろ、その代わり俺も勝手にするからな」
嘘を吐く事も言い負かす事も出来なかった水木は圧し口になりながら負け惜しみのような開き直りを披露し、人差し指の先を突き出されたはというと聞き分けの良い幼児を見るような目で無言の返事に変えた。
その余裕ぶった態度が気に入らず馬鹿にしてくれるなと鳩尾を抉るように繰り出した肘は小突く寸前で躱され、は身を翻した流れでつっかけを軽快に鳴らしながら明かりの漏れる廃屋へ向かう。
敷地の端に建つ、かつては僧侶の住居だったであろう小庫裏は門扉同様崩れかけていて、紙が僅かに垂れているだけの障子戸からは蝋燭にして眩し過ぎる光が漏れていた。
微かに聞こえていた人の声は、今はしない。水木とが存在の一切を隠さず近寄ったからに違いなく、隙間風が甲高い音を奏でる薄い壁の向こうに確かな人の気配が感じ取れた。水木達の出方を窺っている様子はない、ただ息を潜めて黄昏が過ぎた頃に訪問してきた男達をやり過ごそうとしているらしい。
「兄ちゃん、何か起こったら真っ先に逃げろよ」
「気遣いどうも。遠慮なくそうさせて貰う」
水木の舌に塗りたくられた嘘を見抜いたは大きく溜息を吐き、戸の役目を半分以上放棄している腐った板切れを右の拳で叩いたのだった。