よすがの諷経
居留守を使われるとばかり思っていた水木とは病に伏しているかのようにも聞こえる年若い女の声を耳にして互いに視線を合わせ、無言で双方の想像力の限界を確かめて一時的な仲間意識を作り出す。水木にしても、にしても、声だけで病弱だと分かるような異性が身を寄せているとまでは考えが及ばなかったのだ。
「少々お待ちください、今、開けますので」
建付けも何もあったものではない戸の隙間から骨と見紛うばかりの指が覗き、何度も上下運動を経た後でついに開いた扉の奥から声の主であろう女が顔を出す。
しかしその容姿は、穏やかな口調からはおおよそ想像が困難なほどに醜かった。
背丈は並の女よりも高いが重力に抗うほどの筋力もないのか背から腰にかけてが老女のように曲がっており、死人のような肌色は屋内からの明かりでより一層青白く見える。手入れされていない長い髪に隠れた顔の各部位は崩れていて、中でも右の瞼は特に酷く、爛れて垂れ下がった肉が視界を塞いで悍ましさに一層の拍車を掛けている。
唯一纏っている肌着にしても服とは言い難く濡れて汚れた襤褸切れと表現しても差し支えない代物で、生温い風と赤い月とも相俟って怪談集の挿絵が実体を伴い現実に這い出て来たようにも思えた。
鼻を突くような酸っぱい腐敗臭と両生類が纏う生臭さの混ざった空気が垂れ込め、相手に申し訳なく思いながらも無意識に後退っていた水木はの肩に手を置いて、凭れ掛かりながら嘔吐きそうになった口元を押さえる。いっそ吐いてしまえば楽になれただろうに戦争で鍛えられてしまった胃が蠕動する事はなく、吐き戻せない辛さに抗う水木の姿を見た女が微かに開かれた左目を見開いた。
礼を欠いた態度に叱咤されるか悲嘆に暮れられるかと脂汗の浮かんだ顔を上げると、そこにあったのは何故か安堵の表情で、水木は彼女の表情に見覚えがあった。あの夜に見た顔だと浮かぶも、その夜が何時の事なのかを思い出せない。
「貴女は、何処かで」
「水木さん? 水木さんですね。ああ、あなた、水木さんですよ。水木さんが訪ねて来て下さいましたよ」
何処の誰かも知れないまま涙ぐんだ声に呼ばれ部屋の隅で蹲っていた小山が立ち上がり、爛々と光る真円の眼が水木を正面から捉える。蝋燭の頼りない炎では全貌が掴めず膝から下が包帯に覆われている事しか分からない。ただ、両脚だけ見ても女の夫が大男である目測は立てられ、水木は思わず膝を曲げ鼻と口を覆ったまま摺足で撤退の態勢を取った。
破れた屋根から注ぐ月光の下に現れた男は脚だけでなくほぼ全身を包帯のような布切れで覆われていて、その風貌は怪奇映画のポスターで見るようなミイラを彷彿させる。唯一露出した顔面は皮膚の下が剥き出しのままで、脂肪と筋肉も腐敗して半ば溶けており、瞼と唇はなく、鼻があったであろう場所には暗澹たる穴が空いていた。男の足が交互に動く度に膿が滴り落ち、液状化した肉が糸を引きながら板の間と足裏との間で潰される音が耳に届く。
療養所への入所を拒否し身を潜めているという癩病患者と家族かと青褪めた水木はその場から動こうとしないの腕を取って無言で後退を促すも、元々知識がないのか、長期間日本を離れていた所為で伝染病について疎いのか、明らかに普通でない人間に迫られている状況でもは逆に水木の手首を取って暢気な声で顔見知りなら都合が良いと納得しながら軽く振り返った。
「妬かせてくれるねえ。兄ちゃん、ご指名だぜ」
「ふざけてる場合か! 逃げるぞ!」
妻である女の口振りからすると相手は水木を知っているようだが、生憎水木の方には何となく違和感がある程度の覚えしかなく、夫である大男については欠片も記憶がない。取られた手首を振り解き、連れて逃げようと掴もうとした袖は独りでに落ちた木の葉のように容易く躱された。
を置いて逃げられない己の性根を恨みながら、水木はもう一度掴みかかるがそれも難なく回避される。
「、お前状況が」
「夜目は効く体質でね、兄ちゃんよか分かっているだろうさ。部屋の隅にある毛瀰もはっきり見えらあ」
「伝染病に罹っているかもしれないんだぞ!?」
「旦那はПрокажённыйじゃねえから伝染りゃしねえよ。意思疎通出来る相手を端から拒絶するってのは下策だぜ、日本は法治国家だ、一旦冷静になって話し合おうや。一先ずだ、姐さんはこいつを羽織りな、晩夏とはいえ水浸しのままじゃあ腹の子にも障る」
脱いだジャケットを女の肩に掛けながら指摘したの言葉を受けて初めての水木は女が身重であった事を知り、不躾を承知の上で視線を下ろして膨れた腹を確認してから逃亡という選択肢を保留した。妊娠しているのであればこの環境下での出産は命に関わるが、雨風を凌げる療養所に入れようものなら優生保護法を盾に間違いなく堕胎させられる。幾ら見知らぬ他人とはいえ、生まれるはずの子の為に逃げているであろう夫婦を国に売るような真似を彼はしたくなかった。
声に出さずとも外からでも分かる水木の変化に安堵してか、女は礼を述べながらジャケットを羽織り直す。その手の甲に残る異常な数の小さな穴を開けられた痕を見なかった事にして土足のまま部屋に上がり、腐った床板を避けての隣に胡座をかくと先に確認したい事があると断りを入れてから水木は口を開いた。
「病気じゃないと言える根拠は」
「途方もない数の髑髏が憑いてやがる。合間に見える細長い石炭みたいなそれは……結晶化した恨みか?」
「呪われているのか」
「違う」
伝染病より厄介じゃないかと反射で言いかけた水木の舌よりも早く、が短く鋭い声で否定する。
「依り憑いているんだ、煙草や塩と同じ依代さ。しかしなあ旦那、呪詛の発露を拒み、かと言って術者に返すでもなく身の内に留めているな? 何を思ってなのかを問うつもりはねえが、長くは保たんぜ」
「……」
指摘されずとも委細承知の上とでも言うようにただ静かに真正面から見据えるだけの男の視線を受け止め、内にある覚悟を悟ったのか、そもそも深刻な会話する気はなかったのかは軽い調子で一つ頷く。その流れのまま何に納得したのか座ったばかりにも関わらず立ち上がり、水木に煙草の箱を投げて寄越しながら席を外すと短く言い捨てて崩れかけた小庫裏から出て行ってしまった。
突然の行動に残された水木も後を追おうとするが、膝を立てるよりも早く隈笹を煎じたお茶だと説明されながら欠けた湯呑みを目の前に置かれてしまい、無視を貫けずその場に縫い留められる。
立ち止まってしまった以上、腹を括らなければならない。病気ではないと断じたの言を信じ、水木は汚れた湯呑みを避けるように自分と共に残された安い煙草を咥え男にも1本どうだと差し出すと、何故か泣かれた。
彼にしてみれば腹を下しかねない茶を避け煙草を共有する意思の確認と気まずい空気を誤魔化す以上の意味はない行動でも男にとっては違う意味を持ったようで、豆皿のような目を見開くと大粒の涙を流しながら顔を覆う。男の手前で揺らめく蝋燭を支える台座がどう見ても頭蓋骨である現実はきっと猿か何かだと常識の範疇に引っ掛かるよう有耶無耶にして、なんとも居心地の悪い貰い煙草もあったものだと大穴が空いた屋根から夜空の雲を見上げながら紫煙を吐いた。
水木が煙を肺に落としている最中、男は嗚咽混じりに言葉を紡ごうとして咳き込み、女はそんな夫を慰めるように隣で静かに見守り続け時折思い出したように腹を撫でている。男は暫くの間泣き続けていたが、やがて気持ちを落ち着かせたのか咳も止まり、涙で濡れた頬を布の巻かれた手首で拭いながら潰れた声で水木の名を呼んだ。
舌も喉も侵されているらしく濁点ばかりの潰れた声は意味を拾うのにも一苦労で聞くに堪えなかったが、それでも呼ばれた以上はと律儀に返事をすると男は感極まったように大粒の涙をとめどなく流し始める。蝋燭の頼りない灯りでも見間違えようのないくらいあまりにも泣くので流石に見兼ねた女の手が腹の子から男の背に移るも更に涙は溢れ、このまま放っておいたら見た目だけではなく本物のミイラように干涸らびるのではないかと若干の不安を水木に植え付けた。
これはこれで居心地が悪いと適当な陶片に煙草を休ませ、手に取った湯呑みの水面にうっすらと映り込んだ白い髪を見下ろす。
失った記憶と共に色が抜けてしまった頭髪を水木は嫌ってはいなかったが、それでも鏡や水面に映る白は自分ではない別の誰かを見ているようで落ち着かず、慟哭が弱まった頃合いで湯呑みを置き顔を上げて会話を試みる。
「で……話はなんだ? 何か言いたい事があったんだろう?」
「み、ず……き」
「そうだよ、俺は水木だ。お前、何者だ? 名前は? おい嘘だろう、まだ泣くのか」
爛れた声を絞り出して名前を呼んだ男の嗚咽が激しくなり、水木はあからさまに頭を抱えた。男の名前を知らないし、仮に知っていたとしても思い出せもしないから自己紹介未満の言葉を交そうとしただけなのに、この過剰な反応だ。
まだ話の通じそうな妻である女にそれとなく視線を送り助けを求めるも、ただ愛しそうに夫へ寄り添うだけで期待出来ない。夫婦の会話らしいものは何一つとしてないが、それでも確かに互いへの愛情と信頼を感じさせる空気を壊してまで割って入るべきではないと舌が止まり、仕方なく煙草をふかして無意味に思える時間を潰す。
男の涙が止まるのが先か、が戻るのが先か。いや、そもそもお前何をしに何処まで行きやがった何故戻って来ない、と内心毒づきながら煙草を2本、3本と消費し、5本目を吸い終えたところで男がようやく泣き止んだ。それでも、が帰って来る気配はない。
水木が肺に溜めた煙を吐き出すと何処からか本のページが風に流されて捲られるような音が断続的に聞こえ、ついでに薪が燃える匂いも漂って来たが、どうせその辺の妖怪の害のない悪戯だろうと無視を決め込む。そんな事よりも、やっと涙が枯れてくれた男だ。
「良かった、本当に……無事で何よりじゃ、水木や」
「俺にミイラの知り合いはいない」
「心失さずに生きてくれた。諦めておった再会も叶った。それだけで十分に過ぎる。ありがとう、ありがとうなあ、水木」
長時間泣いた事で喉に変化でもあったのか、掠れてはいるものの男の声は十分聞き取れるようになっていた。しかし言葉の内容までは理解が及ばず、以上に会話が出来ない事に水木が怪訝な顔を浮かべると、何を勘違いしたのか男は瞼のない目を細め名を名乗った。
「ゲゲ郎じゃよ」
「は?」
「儂の名じゃ、隣は儂の妻での」
「……そうか。まあ、渾名の方がお前の為かも知れんな。ならゲゲ郎と呼ぶぞ、待て、もう泣いてくれるな」
誰が付けたのか由来も何も分からないが随分と珍妙な渾名もあったものだと喉まで迫り上がった感想を抑え付けて、仕草だけは淑やかに会釈をするゲゲ郎の妻に頭を下げてから新しい煙草に火を点ける。しかし、やっと会話出来たかと思った矢先にゲゲ郎と名乗った男の両目が濡れ、流石に勘弁しろと声に出して水木は穴の空いた屋根の向こうの空を仰いだ。薄い光を注ぐ月は家屋の影に隠れて見えないが、星の位置は当然のように変わっていた。
水木の声が届いたのか涙を堪えたゲゲ郎は奥歯を噛むようにして感情の発露を堪えて温くなった笹茶を溢しながら飲む。唇のない口から溢れた液体が頸から胸元にかけてを濡らし、ただでさえ不衛生な布切れを汚していた。
頭では理解していたものの、飲み食いにすら不自由する体を目の当たりにした水木は火を点けたばかりの煙草を黙って差し出した。あからさまな憐れみからの施しにも関わらずゲゲ郎は静かに礼を述べると、溢れもしないものを味わいながらゆっくりと呑み、口を窄めるようにして煙を吐く。
「……さっきの男は同じ煙草を吸うてはおらんのだな」
何と比較しているのだと問いか掛ける前に、水木は一拍置いてから警戒した視線をゲゲ郎に投げた。
何故この男は水木の普段吸っている銘柄がの寄越したものと違う事を知っている。煙草の拝借それ自体は決して珍しいものではないが、その味や銘柄が水木個人と結び付く程の間柄だったのか。表情だけで伝わったはずの疑念はしかし、慈しみに溢れた声で受け止められた。
「以前お主がくれたんじゃよ。丁度、今みたいにの」
「そんな覚えはない」
「それでよい。お主が忘れようとも儂が覚えておる」
人の形すら保てるか危うい容姿からは考えられないほど芯の通った穏やかな声がして水木は目を見開く。何処かで耳にした声のようにも思えるが、記憶には引っ掛からない。
はぐらかしにも取れるような答えにも関わらず水木の両肩からは力が抜け、この男がそう言うのならそうなのだろうと納得してしまいそうになり慌てて唇を引き結ぶ。ゲゲ郎はそんな水木の内心を見透かしたのか、紫煙に似た白く柔らかな空気を纏い煙草を燻らせていた。
「一つ確認する。お前と、お前の奥さんは、哭倉村の生き残りか」
「見事な推察じゃのう」
「馬鹿にしてるのか」
それしか考えられないだろうと言い捨てた水木は慣れない味の煙草を1本取り出し、箱を叩いて葉を寄せる。残り少なくなってきたマッチを気にしながら過去の諸々の疑問は後々聞くと前置きして、卓上に肘を付いた。
「こんな廃寺に越して来た理由は?」
「お主が気掛かりだったんじゃよ。養生所のお主はまるで尻子玉を抜かれたように覇気がなくなっておったと河童達から聞いての」
「河童だと」
「切った貼ったは不得手じゃが、妙薬といえば河童か天狗と言われるほど彼の者達は医薬に通じておる。ただ儂等が尋ねる前にお主は養生所を去っておってのう、カシャボがお主の勤め先を聞いておったのが幸いじゃったよ」
ゲゲ郎はそこで言葉を句切り肺に溜め込んだ煙を吐き出す。水木はこの2人は妖怪か、もしくはと同じ見える類の人間かと思案しながら刻まれた煙草の葉をマッチの炎で炙り、ゲゲ郎はその疑念を知ってか知らずか再度静かに煙を吐いていた。肺腑の深くまで煙を行き渡らせようとゆっくりと呼吸を繰り返しながら水木の様子を窺い見ている。
「しかし、顔を見て杞憂じゃったと反省しておる。家族がいて健やかでおるというのなら十分よな、なあ、お前」
「ええ、あなた……水木さん、遅くなってしまいましたが、深くお礼申し上げます。貴方のお陰で、私とお腹の子は無事に逃げ延びる事が出来ました」
深々と頭を下げる2人の様子とゲゲ郎の妻の言葉に水木は目を見開き、言葉を探すように二度三度唇を動かしてから項垂れた。
水木は哭倉村での一件で消防団員に発見された際、しきりに彼女はどうなったのかと譫言のように呟いていたらしい。何も思い出せないまま繰り返される水木の言葉を信じて、何人のも人間が近くの山や森へ赴き捜索したが該当する同行者は影も形も未だに報告されていなかった。あれから一ヶ月以上が経過し、冬を前に捜索も打ち切られる可能性が高いと聞いていたが。
「貴女だったんですね」
「はい。水木さんだけでなく、多くの方々に混乱を招いてしまった事はお詫びいたします。けれど、人間に見つかるのはどうしても都合が悪く、今まで身を隠しておりました」
「その言い分ですと、貴女は……貴女達は人間ではないのですか」
「幽霊族と、妖怪の世界では呼ばれております」
煙草を呑み髑髏に蝋燭を灯す霊魂も居るのかと問い掛けようとして、子守の婆様からは幽霊は怨めしやと出てくるものばかりではなく赤子を養う為に飴を買う母親の幽霊だっていると聞かされた思い出が顔を出す。遥か昔の幼い頃の記憶を懐かしんでいると、ゲゲ郎の妻は水木の思考を見透かしたようにはっきりと首を横に振り字義が異なると訂正をした。
「私達は人の呼ぶところの幽霊ではありません。幽邃の幽に、霊の訓義をいきものとする、幽霊です」
「失礼を、霊魂の類ではないのですね。しかし豊かな教養をお持ちだ、今時幽邃なんて純文学の中でしかお目に掛かれないような言葉ですよ」
「そうかもしれませんね。『景色もこれといふ事は無いが、幽邃で佳いところだ。といふ委細の談を聞いて、何となく気が進んだので』」
「『考へて見る段になれば随分頓興で物好なことだが、わざわざ教へられた其寺を心当に山の中へ入り込んだのである。』……大露伴ですか、良い趣味だ」
「硯友社も好んで読んでいましたわ。人の創り出す物語はどれも愛おしいものですから」
「人の悪を書いたものでも?」
「古来から善悪は物語に不可欠でしょう。実際の暴力ではなく、頭の中で創り出したものを絵筆や文字に乗せて人の心を揺り動かす方が何百倍も素敵だと感じております」
「道理ですね」
「水木さんはどのような書籍がお好みですか?」
「生憎と僕は人に言えるほど嗜んではおりません。ゲーテを少々、と格好を付けたい所ですが、ここ最近は新聞すら目を通さない有様で」
ゲゲ郎は判断が難しいが、少なくとも彼女は人間社会に馴染みながら生きていた形跡を感じ取った水木は気を抜き、こちらの方が話しやすいし流れが早いと見て続けて会話を試みようとした。なにより、逐一泣く心配がなくていい。
しかし、残る1人が情けない声色でそれを遮る。
「除け者は嫌じゃあ、儂も混ぜとくれ」
「お前は幼児か」
「ふふふ、可愛い人。叶うとは思わなかった水木さんにお礼を言えて、無事も確認出来ましたからね。この辺りの方々へ挨拶を終えたら静かな所で、療養しましょうね」
「……また、住居を移すのですか?」
「水木さんも勘違いなさったように、人の目には私達が重い病を患っているように見えてしまいます。親切から、恐怖から、義務感から、理由は何であれ、いずれ相応の場所へ通達されてしまうでしょう。このお寺に身を寄せて数日ですが、不安の種となる前に身を隠すのが互いの為です」
寂しそうに笑うゲゲ郎の妻は、夫の手に己の掌を重ねると静かに目を伏せて水木に頭を下げた。
駄目だ、と叫びそうになる衝動を堪え煙草を揉み消し、こめかみに一筋汗を流しながら水木は言葉を探す。悪い妖怪ではないが混乱の元となる存在が引っ越す事に何の不満があるのかと理性が問うが、本能がそれは駄目なのだと一点張りの主張を崩さない。その間の水木の沈黙をどう受け取ったのか、ゲゲ郎の妻は夫の手を握りながら小さく笑う。
この夫婦は悪いものではない。今手放してしまえば二度とは会えない。万全な状態なら快く送り出せるがこの体では駄目だ。どうにかして引き止めろ。その直感に言葉を紡ぐ理性が追い付かない。
人の生活を尊び、理解を示し、交わらずとも共に歩む事の出来る存在でありたいと願う者を見放すなどあってはならないだろうと歯噛みする水木の内心を余所に話は進む。
「あの村での一件で、お主は数多の存在が見えるようになってしもうた。元来そうでなかった者にとって、その変化は体だけでなく心への負荷も大きい」
「ですから夫と相談して、水木さんが見えなくなるまで近隣の妖怪にお願いする事にしました。あまり困らせないでくださいね、と頭を下げるくらいですけれど」
「じゃが水木よ、お主中々の妖怪誑かしのようじゃ。今日も昼間に家鳴と小豆はかりに菓子を譲ったとさがりから伝え聞いたぞ、食べ物を分かち合う善意に人も妖怪もないからのう、これなら儂等も安心してこの地を去れる」
「安心してと言っているが、次の場所はもう確保出来ているのか。しかも、その体で移動するなんて」
「移動ならば妖怪の伝手があるからそう狼狽えるな。人間の汽車はどうにも体への負担が大きい、妻にも腹の子にも無理はさせられんからの」
場所の明言を避けはぐらかした、こいつは俺と同じような嘘の吐き方をしやがると水木はゲゲ郎を睨み、しかしそこを責めてどうすると煙草の端を噛んだ。
人間社会から離れ安心して暮らせる場所などそう多くは残っていない事くらい妖怪の世界に疎い水木にだって予想出来る。僅かばかり残っていたとしても、その土地には大抵何処にでも大将やら盟主、主導者が現れるものだ。それらに頭を下げて入って足元を見られず満足な治療は受けられるのか。
否、それ以前に懸念すべき点があった。医療従事者ではないもののの見立てではゲゲ郎は長くないという。移住した先には彼の背負っている恨みとやらを祓う手立てはあるのだろうか、まさか妻子を置いて逝くつもりか、そんな無責任な言葉が口を突きそうになり水木は奥歯を噛むようにして堪えた。
お前の身を案じていると口にしてそれで何になるのだろう、今の水木がしてやれる事などないというのに。同情や共感など何の足しにもならないのは身を以て知っている。長期間人目を避けられる場所の案内も出来なければ、体を癒やす技術も伝手もない。精々、この廃寺を離れる日まで世話をするくらいしか。
「戻ったぜ。なんだ、随分打ち解けたじゃねえか」
「、お前一体何処まで」
責任も何もあったものではない、腹の足しにすらならない同情などと憤りを溜め込もうとした水木の耳が帰還の声を拾い、膨れ上がりそうになった感情をそのまま開からたままの入口に向ける。次いで文句の一つも言ってやろうと扉の方を向いた視線の先には、確かにがいた。
しかしその左手には遺言状や洋酒が詰まっていた鞄が、右手に湯気を棚引かせる薬缶、しかもただの金物ではなくあの馬面妖怪の隣にぶら下がっていた生きた薬缶が不自然のない大きさで納まっており、饐えた臭いの中でも判るほど甘い香りを放つ状況に舌が止まる。その香りは、主に冬場の台所でよく嗅ぐ優しい匂いだった。
「兄ちゃん、飴やるから煙草返してくれ。姐さん方は汁粉で構わんだろう、餅もねえ寂しい椀になるが甘く炊いた豆なら蛙よか腹に溜まる」
「逆になんで小豆は持って……蛙だと?」
「毛瀰があると言っただろうが。生きてりゃ嫌でも腹は減るが幾らかの金銭もない様子だ、それなら田鶏だ莧菜だと誰の物でもないもんを食うしかねえだろうよ」
豆は天井裏の妖怪から塩と飴で融通して貰っただけさ、と現代で一般的な食材の一般的とはいえない入手経路を明かしたは、ほとんど何も見えないであろう部屋の隅で月と星の明かりだけを頼りに欠けた椀へ汁粉を注いでいく。
腐臭に混じる生臭さの正体を知った水木はが指摘したであろう場所を見つめるも、目に映るのは湿気っぽく淀んだ暗闇だけだった。
「その薬缶は?」
「薬鑵吊るって妖怪さ。合羽橋まで物見遊山に訪れた観光薬缶殿でな、煮炊きする鍋がねえとぼやいていたら僕で良けりゃと言って下さった親切な御方だ」
しかし何も薬缶で炊く必要はないだろう、言ってくれれば隣家なのだから鍋くらいは貸したのにと水木は煙草と飴を交換しながら無言で訴え、はそれに困ったような笑みを含ませながら返す。
「気持ちは有り難く受け取るが、此方の好意に横槍を入れてくれるな」
「だが湯を沸かす道具の妖怪に豆を炊かせて存在意義なんかは大丈夫なのか、小豆茶ならまだ分からんでもないが」
「当事者が大丈夫と言うならそれ以上疑うのは礼に欠く」
「無責任な」
「こちらの御仁は俺等より何百年も年嵩だ、自分の形の保ち方くらい十分承知しているだろうさ。それにな、崇福寺所蔵の絵巻物に依ると付喪神ってのは案外頑丈らしいぜ」
薬缶の役割を逸れても妖怪として形を保てるのか、付喪神のように薬缶の精が憑いているのか、兎も角、本来の特性と異なる行為を敢えてさせるのは妖怪退治の一貫ではないかと心配する水木にだけでなくゲゲ郎と彼の妻も破顔した。
害どころか益を齎す相手ならその程度の気遣いは普通だろうと不貞腐れる水木の視線の先で薬缶の笑い声と共に中の豆が音を立てて煮立つ。焦げ臭くはないので沸騰している訳ではないようだと生態観察するを無視していると、ゲゲ郎の妻が水木の疑問に答えた。
「安心してください。薬に缶の字で書くやかんは近年に作られた当て字なんです、本来は漢方薬に水を汲む器の鑵で薬鑵と呼ばれていた道具ですから滋養の為に小豆を炊いていただくのは寧ろ昔ながらの使い方なんですよ」
「薬ですか」
「まだお侍様が刀を下げていた頃には滋養の為にと薬喰という言葉がありましたし、そうでなくても漢方では豆も肉も魚も等しく薬として扱われているんです。薬膳の一種と捉えれば、なんとなく受け容れやすくなりますか?」
「ああ、それなら納得出来ます」
幽霊族の時間感覚は人類とかなり違う事に触れないようにしながら首を縦に振った水木とゲゲ郎の妻の間に白い腕と湯気を燻らせる椀が割って入り、次いで声も入り込んだ。
「博識だねえ、姐さん。そら、旦那と一緒にお上がんな」
「ご親切にありがとうございます。ご挨拶が遅れて申し訳ありません。水木さんの、お友達でいらっしゃいますか?」
「失礼致しました。わたくし、戦前に当院で修行をさせていただいた小僧に御座います。先刻こちらに身を寄せていらっしゃる方の噂を耳にいたしまして、お力添え出来ないものかと参じた次第で」
「お前、自己紹介を嘘で固めるな」
「兄ちゃんこそ嘘はいけねえな、この寺で修行していないだけで他は全部本当だろうが。それよか手持ちの塩を分けてくれ、小豆はかりに全部やっちまった」
「ったく、仕方ないな」
「隨分仲の良いお友達なんですね」
美人であった事が伺えるような品のある笑い方をするゲゲ郎の妻にが椀を差し出し、次いで夫であるゲゲ郎にも同じものを勧める横で、水木は先程手渡しされた塩を探す。穢れを祓う呪術的な意味で欲しているのか、単なる調味の為なのか、説明こそ求める気はないが前者であって欲しい希望的観測を抱きながら2つの小さな包みを取り出し話すよりも食べろと促せば、2人は夫と視線を合わせ、揃って頭を深く下げてから折れた箸を手に取った。
碌な物も食べられなかっただろうに、はしたなく貪り食うような真似をしないのは幽霊族という人に非ざるものだからなのだろうかと水木は静かに思案する。育ちの良さというよりも、彼等の持つ元来の気性のような気がしてならないのだ。
2人が静かに椀を啜り箸を動かす姿を眺めた後で蝋燭の明かりを頼らず自分の煙草を点けたを呼び止める。隣に座るとばかり思っていた男が踵を返すのだから水木の反応も当然だというのに、はまるで理解出来ないと言いたげな表情を浮かべていた。
「何処に行くつもりだ」
「話し足りないようだからな、一服終えたら外で転読の続きだ。始終声こそ出さんが煩わしいだろう」
「転読の意味と意図を言え」
「蛇腹折りになっている経典をこう、Гармонь……手風琴みたく流し広げて読み上げた事にしていただく祈祷が転読だ。旦那の方は喉をやられてまともに話せん上に筆談も容易くはなさそうだから病気平癒の祈願が必要だろう、人の形の成れの果てが依り憑いてんなら一時凌ぎだとしても薬よか経の方が効きが良い」
はアコーディオンを弾く仕草を軽く真似てから水木が作り上げた吸い殻の小山の上で更に指を弾いて、特にそれ以上の質問がないと見ると気怠げに煙草を咥え直し扉の方に首を傾げながら紫煙を吐いた。
対して水木はというとゲゲ郎が声を出したタイミングを思い出し、外から聞こえていた音の正体もお前かと指摘したい衝動を堪えて、今にも穴が空きそうな隣の床板を力強く指しながら地鳴りのような声を出す。
「座れ。加勢しろ」
「兄ちゃん1人で挑んでくれや。俺が経を読まねえと旦那の喉は潰れたまんまだ、身重の女相手に兵隊上がりの男共が徒党を組んで詰め寄るなんざ粗陋極まりねえだろうがよ」
「すぐ外に居たのに話を聞いてなかったのか」
「紙幣の肖像じゃあるまいし、余所事しながらの祈祷で御仏に声を届けられるほど徳を積んじゃあいねえよ」
言われて初めて、水木はの姿をしっかりと見た。呼吸こそ乱れていないが肺を膨らませるように胸で大きく息をしていて、シャツは全身から吹き出した汗で肌に張り付き髪も霧雨に降られたように濡れていくつもの細い束に変わっている。夏とはいえ今の季節は既に晩夏だ、夕暮れ過ぎに外出したくらいでここまで汗を掻く事はまず考えられない。
以前の水木ならば誤魔化すつもりならもう少しマシな嘘を吐けと呆れたかもしれないが、ここひと月の経験と、ほんの数時間だが共に酒を酌み交わしたの言動から、そこまで真剣に祈祷していたのなら仕方ないと納得して現状を手短に纏める方向に舵を切る。
「行く宛もないのに近々出て行こうとしている相手に手段なんて選んでいられるか」
既に水木の手札は尽きている。が進んで衣食を与えようとするくらい気にかけている相手なら単独で口説くより組んだ方が有利だと判断し、引き込む為に発破をかけた。人の埒外の世を昔から知っているのならばゲゲ郎の体を苛んでいる原因を祓える人物に伝手を持っていて欲しいと願う水木の前で、はゆっくりと煙を肺に入れ溜息とは違う息継ぎで深く吐き出す。
思案をしているようだが何を探るわけでもなく視線を外に投げてから腕を組み、長い指で肘を数度叩いてから何でもない口調でが提案をした。
「定住にゃ向かねえが、冬の避暑地ならすぐに入れる洋館があるぜ」
に不釣り合いな避暑地の物件と聞いて諸々の経緯を察知した水木の表情を見て、当人は煙草を持つ手で口元を隠すように覆ってから笑った。
「お察しの通り、親父が遺してくれた立派な別荘だよ。ただ格に見合った金食い虫でもあってね、俺の懐具合じゃあ維持すらままならんから拝辞の挨拶を考えていたところだ。管理がてら住んで貰えるのならそれだけで有り難い……給与はそう多く出せんが」
「金ならある」
丁度、目の前の男が騙すように押し付けた紫の袱紗が彼の家にはあった。それをそのまま突き返すような言動を受けられても、は軽やかに笑うに留まる。
「惚れ惚れするような男振りだ。まったく、一生に一度は言ってみたい台詞を聞かせてくるとはな」
「茶化すな、そして邪魔もするな」
「どちらもしてねえよ。親父の遺志が果たされた以上、あれの権利は兄ちゃんのもんだ……まあ、日露の御落胤への献上分は残しとけよ。取り分が少ないからそう持って行かれる事はないはずだが俺は金勘定が苦手でね、一度税理士に相談した方が賢明だ」
何なら俺が世話になってる先生を紹介するぜと腰を曲げて肩を組んだにそれとなく促され立ち上がった水木は、申し訳無さそうな表情を浮かべて断る理由を思案している風な夫妻を目にして、必要以上に馴れ馴れしい態度の意図を汲み取ると重心を後ろに移した。
喉が再び潰れ呻いているゲゲ郎の隣で、妻の唇の上下が離れる。しかし、声を出したのは業務慣れした健康体である水木の方が早かった。
「では特に留意すべき点はないようなので進行させていただきます本日はお忙しい中お時間を割いていただきありがとうございました」
頭を勢いよく下げて染み付いた型通りの挨拶を一息で言い切るや否や、水木は組んでいた肩を外すと踵を返し扉と言えないような入口から全速力でその場を去る。歩幅ひとつ分遅れて飛び出したも鞄を片手に横に並び、水木よりもかなり遅い駆け足で更に背後の状況を報告した。
「やべぇな、旦那が追ってくる」
「撒くぞ」
「隣人を?」
「くそ、足が縺れる! お前は靴に履き替えているなら速く走れ!」
至極真っ当なの指摘を意図的に無視して靴とは異なる硬い木の板を踏み鳴らし、軽く振り返って人間の形をした包帯の塊を目に入れてから諸々からの逃避を企てる為に崩れかけている門扉へ突き進む。2人の男が走る抜ける音が夜の静寂に響き渡り、それに驚いた野鳥が星と月明かりの下で羽ばたく。羽音と暗がりの向こうでゲゲ郎が喉の痛みを堪えて叫ぶも水木は止まらず、も彼に追従した。
「、どうにか出来るか!?」
「兄ちゃんが神頼みした方が余程効果があるだろうよ」
「万が一にでもあいつを傷付けたくない!」
「なら諦めろ。おっと、あちらさんがそうしてくれたらしいぜ」
境界である山門の外に出た所で金色の目が背後を向き、水木も振り返って追手の影が消えている事を確認する。幽霊族がどれ程の体力を有しているか水木は知らないが、あの体では長く走れなかったのだろう。
も小走りを止め、月光に照らさせた地面に向かって肺を膨らませてから深く吐き出し肩で呼吸を整えた。同じように足を止めた水木も息を吐いたが、それは安堵というよりもゲゲ郎達を騙した事を悔やんでいるような息遣いだった。ゲゲ郎に傷を付けたくないとは言ったものの、それは彼等を慮っての言葉ではなく自分がそうしたいという押し売りだと自覚したのだ。
2人は互いに顔を見合わせてから同じタイミングで苦く笑い合う。先に呼吸を落ち着かせたが何度か水木の背中を鞄で叩き、心の泥濘に沈みかけていた思考を押し出した。
「了承もなく受け取らせた事を悔やむなとは言わんが、せめて……そうだな、赤子が無事に産まれるまでは先延ばししておけ」
それがあの一家にとって最善だとが暗に告げると水木も同意し、気持ちを切り替え汗に塗れた体を空に向かって伸ばす。月は変わらず輝き、星々も弱々しく瞬いていた。東京の汚れた空気越しに見た光景は色彩こそ淀んでいるが平穏で、だからこそ大多数の人間にとって意味を持たず、夜が訪れる度に繰り返されるただの光と闇で作り出されたものに過ぎなかった。
視線を空から地上へ下ろすと赤から黄色に変化していた月と同じ瞳の色が水木の背後を見ており、御神託を賜っているのだろうと考えながら胸元に手を伸ばすも煙草ではなく飴を探り当てて項垂れる。
「摂末社で構わないと仰っているから、安産祈願なら八幡様に足を運べよ。鬼子母神や水天宮へ参拝しても受け容れて下さるそうだが、今加護を与えてくださっている神仏を蔑ろにはするな」
「自分の管轄外で願うなとは言わないのか」
「相乗りは今更って御方に、改宗の手続き踏んでくれって御方も御わすが……兄ちゃんや御母堂の判断で増やす分と、神様方の判断で減る分には問題ないとよ。ただしБог、神様……あー、唯一神の神様相手は慎重にな」
「成程」
皆まで言わずともの忠告を受け入れた水木は差し出された煙草と燐寸を受け取り、火を点けながら夜道を歩き出す。水木の生活圏内に教会はないので関わる事はまずないだろうと楽観し、もそれ以上口煩く言わないので本当にただの忠告に過ぎないようだった。
袖振り合わない唯一絶対の神様よりも余程重要なのは現実で、いつ頃彼等を連れて行くつもりなのか、もしも逃げられたらどうするつもりなのかと、湧き上がる不安は滾々として絶えない。しかしそれよりもまず、と水木は紫煙を吐いてから隣を歩くを見た。
「見ず知らずの他人に対して、幾らなんでもお人好しが過ぎるんじゃないか?」
水木に対しては半分以上が克典の遺志かもしれないが、それを差し引いても異常とも思える世話の焼き方をするなので、という理屈では流石に納得出来ない。
別荘を持て余しているのは恐らく事実であろう、しかしだからといって会ったばかりで身元もはっきりしない他人にいきなり管理を任せるなど常識と良識の範疇に収まるものではない。水木にしても金ならあると啖呵を切った側の人間だが、彼自身が覚えていないだけで元から夫妻との縁があり、且つ、記憶を失っていたとしても助けなければならない相手だと強く感じているからという理由がある。これでが不動産の価値が分からない世間知らずだとか、有り余る財産を抱える富豪だとか、清廉潔白で聖人君子もかくやと思わせるような人物であったのなら理由など求めないが、彼はそのどれでもない。
紫煙の向こうで月光を写し取った黄金色の両目が獣の視線で水木を見据える。白い指の関節に挟むようにして煙草を取ったは夜の向こう側に視線を逸らしてから、お人好しとは違うと呟いた。
「兄ちゃんの行為に理由があるように、俺の援助にもそれはある」
「是非とも知りたいね」
「詮索したって碌な事がねえだろうよ」
鋭い視線が水木の背後を向き、畏れをなしたように逸らされる。どうやら水木に加護を与えている神様が、彼の願いを叶える為に奮闘という名の脅迫をしているようだった。
もう一押ししてみるかと思案を巡らせる前に、水木の考えを汲んだらしい神仏が圧をかけたようでは横に半歩ほど距離を空けた後で盛大な溜息を吐き、大きく息を吸ってから一息で言い切った。
「あの人ぁ俺の叔母だ、碌な女じゃなかったお袋に代わって育てて貰った恩がたんまりとあるから返すってだけだよ。ああ、ああ、言わんでも分かるさ、なんで甥だと名乗り出ねえのかって面だ。俺だって膝付いて頭下げてありったけの感謝を届けてえよ」
まだ吸いかけの煙草を指先で弾き、小さく輝く赤い点が音もなく足元に落ちるさまを見届けてから、は履き慣れた靴で火種を消す。
まさかの告白に水木の足が止まり、煙草の火を必要以上に消すの元までほんの数歩の距離を慌てた様子で戻った。
「名乗り出ればいいだろ、彼女は誰かの感謝を無碍に扱うような人じゃ」
「そんな人じゃあなくても駄目だ……兄ちゃんの御尊父の親族なんだよ、あの人にとっての俺はな。自己満足の為だけに名乗れるか」
戦時のどさくさに紛れて彼女を騙し金を奪ったと告白され水木は何かを言いかけるが、その横顔から見て取れた感情と少ない時間の中で知った心根に、はあれらとは違うだろうと否定の言葉が浮かぶ。
そもそもは戦前に満州へ渡っている、彼女から金を騙し取るなんて事は時系列から考えても不可能だ。
「お前がやった訳じゃないんだろ?」
「それでも、あの人の金をごっそり持ち出して行方眩ませた下衆の実子だぜ。今の生活を見るに、お袋はその後も碌でもない迷惑ばかり掛けたに違いねえだろうよ……顔も名前も、存在すら思い出したかないに決まってる」
足首を捻る動作は止めたがそれでも地面に転がる煙草に顔を向けたまま、暗がりの中で過去に囚われた目が水木を捉えた。それを疎らに遮るの髪が、ゲゲ郎の妻と同じ色だという事に今更水木は気付く。
それどころかに彼女の面影を感じて、道理で似ていると無意識に評してしまい、醜悪な容姿しか知らないにも関わらず確かに彼女は美しい如来顔だったと記憶を伴わない感想を作り上げた。覚えはないのに知っている、その奇妙な感覚を受け容れながら彼はただ黙ってを見据えている。
「今の話は口にも顔にも出すなよ、何があってもここに秘しておけ。俺の為じゃねえ、あの人の為にだ」
晩夏の闇を穿つような鋭さで火傷の下に埋まる心臓を指したは、水木と彼の背後を睨み付ける。しかし言いたいことを言うと満足する性分なのか怒りに似た感情も瞬きが一つ終わる程の時間しか保たず、晒した傷跡を疲労と諦念を含んだ溜息で有耶無耶にする。
覇気のない目が潰れた煙草を見下ろして勿体ない事をしたと呟いてから髭とは縁の薄そうな白い顎を擦り、再び顔を上げた時には飄々とした表情に戻っていた。疲労と諦念を含んだ溜息を吐いたは細い煙を燻らせる潰れた煙草を見下ろして勿体ない事をしたと呟いてから髭とは縁の薄そうな白い顎を擦る。
「財布の紐が弛いんだか固いんだか分かりゃしねえな」
「価値の大小が何になる、仕事じゃないんだろ?」
「そうだな、兄ちゃんの言う通りだ」
煙草も別荘も金銭を介せば価値の比較こそ出来るが、そういうものでもないだろうと水木は否定する。
先程交わした等価交換についての所感を引き合いに出せばは肩の力を抜き、すっかり夜色に変わっている空を見上げて足を動かし始める。履き替えられた靴の音の横に下駄によく似た軽快な音が並んだ。
「第一、別荘がなくても俺達庶民は困らないが、ヤニが切れたら色々と困る。その別荘に煙草何万本分の価値があろうと土地と建築物は吸えないからな」
「確かに、家屋を吸ったりでもしたら、それこそ妖怪や化物の類だ。ただ見えるだけで先祖代々生粋の人間の俺にそんな所業は出来ん」
「え?」
「あ?」
幽霊族を名乗るゲゲ郎の妻が叔母ならば純粋な人間ではないだろうと言いかけて、これは部外者である自分から伝わるべき事ではなかったと後悔しながら口を紡ぐ。今の反応と諸々の情報を総合するとは自分の血筋を把握していない。
の実父の正体が何であれ、実母がゲゲ郎の妻と血の繋がった姉妹ならば、少なくとも半分は幽霊族の血を引いている。疑いようもなくは身内を気に掛ける性質だが、自分の血筋についてどの程度重きを置いている人物であるのか、水木は知らない。彼女が人ではなくとも心を砕き続ける事は想像に難くないものの、果たして自分自身が人でない事実を受け入れられるのだろうか。
そんな事、分かるはずがないだろう。なぜなら水木がと出会ったのは今日の昼間、ほんの数時間前の事だ。
「おい、兄ちゃん。何だ今のは」
何でもない、聞かなかった事にしてくれと話題から遠ざけるべきか、それとも正直に答えるべきなのか。
判断を下せないまま口を噤み、しかしはぐらかしてもがそれを許さないだろうという予感だけは確かにあったので、水木は素直に白状した。
「彼女は、自分達の事を幽霊族と言っていた。人ではないと」
「……そう、か」
沈黙の中で明らかに動揺しながらもは聞き返す事も笑い飛ばす事もせず、ただ一言だけ呟いた。水木もそれ以上の言葉は続けず、そして反応を待つ事もなく、ただ夜道を並んで歩く。
自分のような第三者ではなく、せめてゲゲ郎の妻の口からに伝わっていればこうはならなかった。けれど、彼が彼女と血縁である事を明かす事は出来ない、少なくともは親族が犯した罪からそれを望んでいない。
矢張り言うべきではなかったのではないか。けれどあの2人に今後も関わるのならばいずれ自分に流れる血についてを悟るだろう、その時に果たして事実を受け入れる余裕などあるのだろうか、ただでさえ慕う養父を亡くしたばかりの男に。
が自分をただ少し人と違ったものが見えるだけの人間だと思い込んだまま残りの人生を過ごす事になる事と、どちらがよりマシか。その残りの人生が並の人間と同じ年月ならば構いはしない。しかし、極端に短かったり、逆に長かった場合、彼はどうなる。もしくは、に敵意を抱いている誰かが揺さぶりをかける為に突然この情報を投げ付ける可能性もあった。に限らず、北から引き揚げた帰還兵は共産主義に洗脳された危険人物のレッテルを貼られ公安の監視が付くという噂は水木もよく耳にした、万が一、公安の中に見える人間がおり澄山が国に目を付けられた場合はどうなるか。
否、自分の失言を誤魔化すべきではない。水木はただ、嫌だったのだ。
が幽霊族の血を引いていると知られてはならない。
衝動的に湧き上がって来た感情が唇の端から漏れないよう固く引き結び、頭の中で泥のように広がる虚無へ腕を突き入れて理由を探す。幽霊族の血についての記憶などないが、それを知っている感覚だけが脳に残っていた。
「水木の兄ちゃん」
思っていたよりもずっと静かな声を掛けられ、水木は意識を戻す。気が付けば目の前に水木の表札が掲げられた家があり、は少し疲れたような表情で小首を傾げている。
「あ、ああ。すまん、何だった」
「御母堂に適当な説明が要るだろう、俺の知り合いで、近々引っ越すと説明すれば嘘でもねえし詮索もされない」
「……そういえば、そんな流れで行ったな」
「呆けた顔しやがって。今日はあれこれ考えず湯に浸かって休むがいいさ、引っ越し先の準備が出来たら連絡してやる」
月光に照らされる顔の半分は闇に浸かっているが、もう半分は白々と輝いていた。その輝きが自分を見据えて細められた事で、水木は自分が今どんな顔をしているのか自覚する。しかし、それを気に掛ける事はせずの気遣いに礼を言ってから水木は門扉に手を掛けながら、ふと何かを思い付いたように先に視線をに向けて、それから体ごと向き直った。
「休みは作るから何時でもいい。準備が終わるまで、あの2人が何処かに行かないよう気にかけておく」
「余り気張らんでもその辺は大丈夫さ」
「どうして言い切れる」
「他人から借りた服をそのままに行方を晦ませられる女性じゃねえよ」
煌々と輝く月のように笑ったの背後に幾筋かの流星が白い直線を描いて瞬く間に消えていく。その輝きが水木の目に焼き付き、酷く幻想的なもののように思えた。
何か、取り留めのない言葉を発して欲しいと願いながら水木はを見つめるが、月光に縁取られた輪郭は水木の視線を受け止めて少し困ったように笑った。その笑い方は如来ではなく人の情が滲み、溢れ出た感情に彩られていた。