曖昧トルマリン

graytourmaline

よすがの諷経

 斑模様に赤くなったちり紙が丸められ、縁側から壁の際まで畳の上で弧を描きながら投手の目論見通り屑籠のど真ん中に軽い音を立てて吸い込まれる。白いシャツの襟と胸元を細かな血痕で汚したは鼻を押さえたばかりの新しいちり紙が瞬く間に赤く染まる様子を見下ろすように眺めながら、くぐもった声で味が好かんと自身の血の不味さを評しながらも飲み込んだ。
 腰の入った渾身の一撃を食らった鼻の骨は折れる事も砕ける事もなかったようで、鬱陶しそうではあるが痛がる様子のないを横目に水木はウイスキーを瓶から湯呑みへ手酌で注ぐ。日差しに温められ水か湯か分からなくなったものを幾らか足して飲みやすい濃度までアルコールを薄めたものを口に運び、ゆっくりの嚥下してから葉巻を吸った。
「血の味を好む奴なんてそうそう居ないだろうよ」
「あちらさんじゃあ珍しかなかったぜ。読経中にЕретикイェレチークが寄って来たが、あいつら、物を書き広める人間の所為で水霊だったУпырьウープィリが近頃我が物顔で吸血鬼面しやがると事ある毎に憤慨していたな。崇めると祟るの字面が似るのも然もありなんだ」
 ロシア語は単語の意味を知らない以前に発音すらまともに聞き取れなかったが、水霊、吸血鬼、崇める、祟るの日本語から大まかな輪郭を想定して、気まずそうに視線を逸らしながら一応の返答を行った。
「……怨霊怪異を信じるとはな、今は科学の時代だぞ」
「すっとぼけるにしてはえらく中途半端な反応だ。隠さんでもいい、俺ぁ法力もねえ一端の坊主だが物心付いた時分から見える側の人間でな」
 湯呑みに口付ける仕草で表情を隠しながら何の事だと知らぬ素振りを続けようとした水木には呵々と笑いながら畳み掛けた。
「俳優みたいな面構えなのに芝居が壊滅的とはなあ、そうさな、さっきまで庭に猫がいただろう。哈爾浜ハルビンでも見たがありゃあ猫魈びょうしょうの類だな、夷堅支丁や続子不語のアレだ」
「びょうしょう……あれか、金華猫の事か。中国の妖怪だろう、昔、子守の婆さんがお伽噺を語ってくれたよ」
「そうそう、猫のおばけさ。今度あいつらが来た時お袋さんにでも訊いてみな、猫なんて何処にいると返されるだろうよ。ただなあ、あの御婦人は夜鶴の気があるから上手く誤魔化す自信がないのなら黙っていた方が賢明だ」
 確信を持って告げられる事実に水木はくゆる煙を目で追うふりをしながら押し黙る。の指摘するそれは既に過去の水木が起こしており、その時は洗濯物の影が猫に見えたと苦し紛れの言い訳をしたものの、ただでさえ心労が重なっている母に要らぬ心配を掛けてしまったと反省したものだ。
 水木が例の村から生還して以来、買い物などの道すがら神社や寺に赴き手を合わせるようになったという母の言葉を思い出してしまい苦い記憶を葉巻の香りで煙に巻いた。
 日中は会社に勤めている事もあり自身に対する噂を耳にする機会が限られる水木とは異なり、家事を一手に引き受け近所の人間と頻繁に顔を合わせる環境にいる母には好奇心という名の不躾な視線が常に付き纏う。愛想笑いを真似ようとして失敗した神経を逆撫でる半笑いを浮かべた連中が、さも心配している風を装い母を引き止めている光景を見た時は苛立ちと情けなさで腸が煮えくり返ったものだが、当の母親はというと構ってやる必要なんてないと穏やかだが強い意志の込もった口調で言い切っていた。
「子供の無事を神仏に祈る親なんて物珍しものではないからね。疚しい事なんてしていないのだから毅然と胸を張ればいいんだよ」
 大きくなった子供に親が出来る事なんて限られているから、と続いた言葉を水木は耳に届かなかったふりをして、体も歩幅も小さくなってしまった母の背を支えるようにして帰宅した夕暮れの空を思い出しながら顎を上げる。
 深みのある青色の空を背景に入道雲が折り重なり、じっとりと濡れた夏の風が賑やかな馬鈴と軽やかに踊る爪音を運んできた。一聴すると祭囃子のようにも聞こえるが随伴する笛や太鼓の音は聞こえず、駒牽きの気配すら感じられない。
「それにしても居心地がいいのかね、ここいらは格段に妖怪が多い。今も生垣の向こう、首切れ馬が通ったな」
 人を驚かす以外の悪さをするつもりもないだろうし招かない限り敷居を跨がんだろうよと宣う相手にしらを切るのも面倒だと方針を転換した水木は、首がないのに聞こえる嘶きを無視して紫煙を吐きながら本題に入れと視線だけで促す。それを察したは軽く居を正し、用件を口にした。
あんちゃん、べらぼうな数の加護が付いてるぜ」
 武神も御座すが血腥いのは歓迎されないかとが呟き、漸く止まったとちり紙を握り潰しながら乾いた鼻血の細かい欠片を手の甲で拭い水木の背後を見つめる。
「陰陽道の影響も受けてるのか、水と相生の木の名前からして主だった加護は水神様のものだな。一番縁深そうな貴船が氏神様だろうが嚴嶋の狭依毘売命さよりひめのみこと、青渭の三柱に深沙大王じんじゃだいおう。防火を祈願した訳でもないだろうに火伏せの神とも相容れてるのは淤加美神おかみのかみの縁か、もしくは台所にある火迺要慎ひのようじんの護符を通して……なぐらの釣瓶火が愛宕の祭神に口添えを? なんでだ? 兄ちゃん心当たりあるか? あとは八幡様、神明社と来てお稲荷さん、こんな季節に大欅が茂って千年乃藤が咲いてやがるが上手く治まってるな。願いが一途だと稀にこんな具合の加護が出来上がる」
「本題に入れ」
 意図が伝わっていたにも関わらず明後日の言葉を滔々と口にしながら無視したに声で指示を出すと、神様の名前ばかり挙げていたスーツ姿で赤髪の僧侶は背筋を伸ばしている癖に酔っ払ったような口調で右から左へと抜けていくような説法を続けた。
「神道に勧請って言葉があるだろう。こいつは元を辿れば仏教用語でな、御仏に救世を乞い願う他力本願の意味合いだったものが神仏習合で総本社に御わす御祭神の分霊を他所に移して祀る言葉に変わっちまった。まあ、宗教や教義なんぞは政治屋と教団幹部と世間の思惑如何で移り変わるもんだ、風の噂じゃあ赤子の身罷りが珍しくなったからと方丈共浄土宗が水子の霊を説いて銭を巻き上げる算段を立てていると聞くしな。まったく世知辛い上に度し難い、開祖の釈尊は死後の世界に関しては沈黙して霊魂の存在を認めちゃいねえのによ。かと言って霊魂は実在するし、Христианствоイスチアーンストヴァみたく衆生に歩み寄らず供養なんて行為そのものが正しくないと否定すりゃ驕傲な野郎だと拒絶されるのは当然か」
「眠くなってきた。なあ、これ真面目に拝聴しなきゃならん類の話か?」
「話半分でいいぜ」
「減らせ。長い。五割でも多い」
芭蕉バナナじゃねえんだ、叩き売れるかよ」
 素面で付き合っていられるかと喉を曝け出すようにして水割りを飲み干した水木はだらしなく足を組み、有り難さの有無はともかくとてもではないが説教されている立場には見えない体勢で先を促す。対しては口調こそ巫山戯たままだが佇まいは崩さず、何かを悟ったような神妙な面持ちで告げる。
よげんを預かった」
「先の事なんざ知りたいと思わないね」
あらかじめじゃあない。言っただろう、あずかる方だ」
「……違いがいまいち分からんな」
「未来の事象を明言するものは原因や理屈や思惑が何であれ予言あらかじめごとだ、測候所が発表する明日の天気予報から弥勒下生経に書かれた56億7千万年後に弥勒菩薩が降臨するなんて眉唾ものまでな。預言あずかりごとは格式張って言うなら御神託、世俗塗れに言い換えれば通訳者か電話交換手みたいなもんだ。で、お望み通り本題に入るからこいつだけは十割を聞け」
 軍人上がりが逃げたくなるような神託かと胡乱な眼差しを向ける水木に、は軍人だったからこそだと眉根を寄せ聞いておけよと再度念を押した。
「靖国と招魂社に御座す神々から言伝だ。幾久しく健やかに幸多からんことを、だと」
 が社の名を口にした瞬間、水木の顔色が変わる。
 靖国神社と招魂社、つまり護国神社に祀られている神は水木にとって最も縁深い存在であり、罪悪感という荒縄が全身に食い込み自責の念に押し潰され息すら難しくなった。
 南方での地獄をたった1人逃げ延び、戦友は皆玉砕し躯になった。弔いすら出来ず死体は野晒のまま腐り、遺骨どころか遺品すら持っては帰れなかった。何故お前だけが、息子を兄弟を夫を恋人を返してくれと遺族に罵倒され、石を投げられ、命など拾わず捨てるべきだったと幾度となく思った。矜持を踏み躙られ、飢えと貧困に喘ぎ、泥水を啜り手に入れた寝床では毎晩のように戦地の夢を見ては飛び起き、目と耳の奥にこびりついた幻覚と幻聴に苛まれ魘される。
 手足の末端が麻痺したように動かず、生きていることを知らしめる気持ち悪い心臓の音が次第に大きくなった。死にたい、死にたくない、生き延びたい、殺してくれと絞り出すような絶叫が脳髄から這い上がり、頭蓋の中で反響する。爆音と閃光、オレンジ色の火線が走り硝煙と泥と血の匂いが皮膚に纏わり付く。行く先で倒れてた死体に足を取られ転び、背後の誰かが前のめりになりながら隣に横たわった。皮が剥がれ、顔の半分が抉れている。頭蓋から血液と、桃色の何かと、目玉が溢れ落ちた。
 歯を食いしばり闇の中を再び走る。夜の中で蒼い鬼火が燃え盛り白い髑髏が赤い血飛沫と断末魔の中で飛び回っていた。腕の中に濡れた誰かを抱いて息を切らす。黄色と黒、あいつから受け取ったものを彼女に着せなければ。
 誰かが名前を呼んでいる。
「こちらを見ろ! 水木二等兵!」
 平衡感覚が崩壊して倒れ込む前に襟を掴まれ、引き寄せる勢いで半ば抱えられた状態になると耳元で叱咤する怒号に暗転寸前の意識を繋ぎ留めた。
 戦火の中でも一際通りそうな腹からの声に水木は反射的に目を開き、呼吸が出来ず揺れる意識の中で音を頼りに顔を動かす。想像していたよりも間近にあった瞳はよく見ると金盞花のようで、黒い瞳孔がはっきりと見える目玉が陽光を透かした髪を隔てて水木を真正面から見ている。中国では金の盃と呼ばれ関東では鑑賞用として愛でられる綺麗な花なのに、故郷では仏花として扱われ死者に供えられるものだから気を付けるようにと教えてくれた老婆は祖母であったか、子守の婆様であったか。
「飛んでくれるなよ。背中を丸めて、息を吐く方を意識しろ、そのままゆっくり吐け。息を止めて、そうだ、吐くんだ。ここは安全だ、意識を保て、聞こえているな? 返事はいらない。腹で息をしろ、ゆっくりでいい、ここは日本の、東京の、お前の家だ」
 蒼穹に映える鮮やかな赤紅と黄金、晩夏から程近い秋の盛りの野山の色。上官に難癖を付けられ意味もなく殴られそうな浮世離れした色合いだ。詩的な感想と現実に寄り添い過ぎた生臭い思考が鈍った脳の中で折り重なるようにして浮かぶ。白昼の悪夢に引き摺られ思い出しかけていた景色は長い吐息と共に夏の空気に融けた。
 強い色彩が網膜を焼く。目を開けていられなくなった水木へ肩を貸して前屈みになれるよう介助をし、背に回った腕が一定の間隔で緩く叩き始めた。手慣れている、こいつ衛生兵だと頭よりも体が先に理解して意識せずとも力が抜けた。
 肩口に額を寄せ緩く目を閉じて、声に従い深く息を吐き、浅く吸う呼吸を繰り返す。引き攣った横隔膜と膨れ上がったまま戻らなかった肺が正常に動き出したのか、張り詰めたままだった胸が上下運動を思い出した。葉巻の匂いが手元を離れた場所から薫り、火事になっては困るとうっすら目を開くと安っぽい銀の灰皿に乗せられて細い煙を2本靡かせている。
 会話はなく蝉の声も途切れ秒針の大きな音が居間から聞こえるだけの空間に、時折家が軋む音が混ざる。頭上から視線を感じ顔を上げると小さな鬼の姿をした妖怪達が天井板をずらして丸い眼を覗かせていた。視線の先には手を付けられないまま卓袱台に鎮座するカステラがあり、随分食通な連中だと可笑しくなった。
 視線を横に流すとは感情の読めない表情で軽く目を伏せている。腕を突っ張るようにして離れながらその顔を見た水木は、改めてこの男の顔立ちが整っている事を思い知った。俳優のようだと言われる水木とは異なりの容貌は人の理の外にあり世俗の匂いを感じさせない。千歳飴袋を手に下げて家族で参拝した寺で見た事がある、研ぎ澄まされた美を内包し遍く存在を救い賜う如来の貌だ。
 極寒の地獄でこれを見ながら最期を迎えた連中は救われたのだろうかと馬鹿げた考えが頭の隅を掠め、自分自身の思考を嘲笑う。
「悪い……もう、大丈夫だ」
「呼吸は落ち着いたか。末端がまだ冷たいな、吐き気や痺れは?」
「大丈夫。悪かった、大丈夫だから」
「碌に焦点も合ってねえのに何が根拠の大丈夫だ。まだしんどいだろうが、伏せて横になってろ。少しは楽になる」
「……すまん、手を煩わせて」
「構わねえよ。苦しむなとも耐えるなとは言わん、謝るなとも抱え込むなとも言わん、唯一の男手なら弱音だっておいそれと吐けやしねえだろう」
 景色の向こうの地獄を見据えた黄色が水木に向いた。盛夏の熱を帯びた瞳だった。
「だが、誤魔化すな。それをしちまったら心の内側から腐っちまう、腐っちまった心を隠す為に更に誤魔化さなきゃならん、幾重にもな。懊悩煩悶の根本を誤魔化すと正しい祈りが効かなくなる、歯痛で食欲不振だってのに胃痛だと誤魔化していたら何時まで経っても物を食えるようにはならん」
「お前は、どうなんだ。
「今は夏だ。まだ、夏だ」
「……そうか。ああ、そうだな」
 顔を横にしてうつ伏せに寝かせた水木の頭に畳んだスーツを黙って差し込んだは、呼吸と脈拍を確認すると残っていたウイスキーを一息で喉に送り2つに増えた空の湯呑みと水が動く音のする瓶を遠ざけた。
 強い酒と夏の日差しを浴びても肌は透けるように白く酔った様子は見られない。坊主の癖にザルかとどうでもいい思考を出来るくらいには回復したと自己判断を下した水木は上体を起こそうと縁側に手を付くが、すかさず頭を押さえられる。
 口さえ閉じていれば如来もかくやと思わせる男だというのにとんだ仏様もいたもんだと水木は独りごちるが、幸いその言葉はの耳には入らなかった。
「起きていいと誰が言った、戦場じゃねえんだ快復するまで待ってろ」
 かいふく違いの単語を口にする大人を叱り慣れた低い声に水木は緩く苦笑し再度スーツの枕に頭を預ける、対しては分かりやすく大きな溜息を吐くと消えかかっていた葉巻を手に取って会話を続けた。
「分かっちゃいたが世話のかかる男だな、兄ちゃん前世は二八蕎麦のつなぎか?」
「誰が小麦粉だ、パレートの法則なら優良顧客側だぞ」
「生憎と商科は埒外でね」
「お前本当に小卒か?」
「小卒未満だよ前世饂飩粉野郎、顧客なんて出されれば経済の単語だって予想出来る程度の脳味噌は頭蓋に詰まってるだけだ。ったく、扱き下ろしたくもならぁ。軍服の神様方が寄って集って気懸かりで仕方ない面晒してんだぞ、関係性知らん奴が見たら憑かれてんのかと慄くか呪いと勘違いして踵返すぜ」
 軍服と聞き脱力していた水木の体が一気に強張るのを見て取ったは余計な思考を物理で追い払うかのように腰元の白い髪を無遠慮に掻き回す。静かな空間で水木が唾を飲み込む音だけが大きく響いた。
「因果を捻じ曲げてせめて小麦粉から蕎麦粉になるか、長舎利麺類括りで纏まってくれや。いいか、聞け。俺が何と預言したか覚えてるか? 体に気を付けろ、幸せになれ、だよ」
 口籠る水木を無視して間を置かずに答えを言い切る。
 反論の糸口を掴めずにいる水木を見ないまま一口、二口と時間を掛けて葉巻を吸い気怠げに首を傾げたはやがて、しかしと逆接の単語を口にした。
「子供の数え歌でもあるまい、天の神様の言う通りに生きる必要はねえだろうよ……別にどんな人生を歩んでも構わんだろ。それとも何か? 手前等の戦友は逐一御神託が下らんと右も左も判断付かねえような腑抜けなのか」
 僅かな沈黙を挟み、明らかに水木ではなく水木を加護している神々に文句を付けたは不遜な態度を隠そうともせず葉巻片手に神仏を挑発する。神仏と言葉の上では一緒くたにされているが、衆生を赦し救う仏と違い、ただ超常の力を持つ神は恨み祟る存在であると知っているはずなのにだ。
 いや、知っているからこそだと訂正する。は水木の誤魔化しを看過した上で扱き下ろしたが、演技が下手くそなのはお互い様だった。
 は神に祀られた彼等が望まぬ幸薄い苦難の人生を水木が歩んだ場合にあの時の男が誑かしたと矛先が向くよう、敢えて分かりやすい悪役を演じている。そこまでする理由は見当たらないが、書類上は他人の養父の為にここまでする男だ、多分、ただの性分なのだろう。会って1時間も経っていない他人の人生を庇うなど、どちらがお人好しだというのか。子供の頃に読んだ絵本に出てきた青鬼の手紙が脳裏を過るが、あれだって赤鬼とは友人と言える仲だったはずなのに。
 同時に湧き上がった腹立たしさから一も二もなく起き上がり、縁側に立った水木を見上げ病人は大人しくしていろと小言を挟もうとするの脳天に拳骨をお見舞いした。襲った目眩は歯を食いしばりながら根性で抑え付け握った拳は布で覆っていなかったので骨は痛んだが、それでも小さな血痕が染みたシャツの胸倉を掴み上げて馬鹿を躾ける方を優先する。
「舐めるな。俺を腑抜け扱いしてるのはお前もだろうが、このお人好しが。次ほざいたら金玉蹴り潰すぞ」
 地底から鳴り響くような静かな声には水木の本気を悟り、しかし至極面倒臭そうな表情を浮かべた。対する水木はこめかみから首筋にかけて青筋が浮かび、目が憤怒の色に染まっている。その殺気に塗れた目が、誰もいない背後を向いて啖呵を切った。
「見えやしねえが、テメェ等もだ。いいか、加護だろうが呪詛だろうが勝手に与えてろ、俺も勝手にするから御相こだ。こいつに言われるまでもなく俺は自分で道を決めて自分の足で歩く。吐くほど後悔する事もあるだろうが腹は括る、それも引っ括めて全部俺の人生だ」
「……まあ、兄ちゃん見えんだろうから伝えとくが、物言い付いてんぞ」
「やだね」
「煽るな」
 因みに他の神様は人間と元人間の遣り取りを面白がっているから加護は消えんだろうと欠伸混じりに続け、未だシャツを掴んでいた水木の手を外すと足元で丸まり皺だらけになったスーツを広げて腕を通す。灰皿の葉巻は火種が消えかかっており、時折吹き流れる風を受けて芳香も薄くなりかけていた。
 空の湯呑みを卓袱台に戻したは話を終えた餞別とばかりに葉巻用の軸の長いマッチを鞄から取り出し水木に投げる。残り少ないのか箱は軽く、振ると数本の木片が中で踊る音がした。
「葉巻は再着火すれば吸えるからな。俺もこいつが消えたらお暇する……が」
 自身が吸っていた葉巻を手に水木の顔を見たは言葉を止め、廊下に向けていた爪先を縁側へ向ける。
「見える人間は数が少ねえ、訊きたい事があれば遠慮なぞするな。念じるだけじゃあ通じんが人並みに耳は聞こえる、俺に答えられる範囲なら幾らでも答えてやるよ」
「それは」
 水木はの申し出に戸惑い、別に今じゃなくてもいいと話を終えようとしたの言葉へ被せるように口を開く。
「その、少ないってことは、数える程度には他にも見える人間はいるんだろ」
「そうだな、見えやすい時期の子供は除くとして、俺の知人だけでも両の手程度にはいる。僧籍や神職に就いてる輩が4人、存命なら5人だな。あとは俺みたいな先祖代々って手合が同じくらいか、叔母と……お袋も見る力が強い人間だったよ」
「そうか」
 叔母を先に挙げているのは生みの親に先立たれ彼女に世話になったからだろうかと想像したが、の表情を見るとあまり触れて欲しくない話題のように見えたので口を閉じる。自ら足を運び手段こそ問題に塗れたが、それでも、養父の遺志を遂行するような家族愛が人一倍強い男が過去形で語る女性に対して抱える想いを興味本位で掘り返すべきではないと自制心が働いた。
 他人様の傷口を抉じ開けてでも知るべき話題ではない。そもそも水木が今、本当に知りたいのは、こんな事ではなかった。
 水木の様子から解決の糸口を持つ者を逃すまいと無理に繋ぎ留める為の話題だと悟っているは次の言葉を促さずただ黙って眼と視線を合わせ、心の奥から出かかっているものを見透かすかのように静かに見据える。
 少しの沈黙の後、水木は情けない自身の顔を隠す為に顔を伏せ、やがて意を決した表情で両の手を拳を握りしめた。
「知っていたらでいい。俺に憑いているこいつらが、成仏出来る方法を教えてくれないか」
 成仏したとて極楽に行く保証などない。国の命を受けて人を殺した者達だ、水木自身も含め皆地獄に堕とされるだろうが、それでも、行場のない現世に縛られるよりは相応の場所へ逝くべきだというのが彼の願いだった。
 死んでなお、この世に縛られるのはあまりにも不憫で、その原因が自分だとしたら申し訳すら立たない。死にきれなかった者として、せめて最後に安寧を与えてやりたい。その水木の想いを、は一蹴した。
「とっくに成仏してるから無理な願いだな。兄ちゃんの手でもう一度葬儀したてやりたいなら御仏に仕える者の端くれとして協力してやるが」
「は?」
「ん? んん、ああ。そうか」
 意を決して紡いだ祈りを軽くあしらわれ怪訝な面持ちで唸った水木を見て、は納得したように朗らかな笑みで腕を組み顎を摘んだ。
 生前の執着を晴らしたい者、未練を抱え断ち切れなかった者、生者に害をなそうとしている者、その手のこの世に留まる亡者じゃないと断言して、死霊ではなく神霊の分霊なのだと水木の背後を愛しげに眺める。
「神道は祭神の神霊を分けられる、無限にな。兄ちゃんの背後にいる神霊はその一柱で、仏教式の葬儀で成仏した神霊もその一柱。御家族や恋人、友人を見守っていたり、新興宗教で弔われている方も御座すらしい。台風の日に田圃、増水した河川、気持ちは分かるが暴風雨の中で野次馬根性出し過ぎて変なもんに目付けられんなよ、天候が崩れるとそういう類も出るからな。うん、天台系と真言系でそれぞれ葬儀が行われると各々分霊が赴くのか? 日蓮宗が上から目線で排他的なのはまあそうだ昔からだ、家の宗派がどこか分からんでも大乗仏教なら般若波羅蜜多心経唱えときゃいい、当人が出家してねえなら大乗仏教の括りでほぼ間違いねえから」
 水木を抜きにして戦友がと会話をしている中で咳払いをし、見えないなりに振り返り俺が先だと自分を指さす。直後、お前並外れて可愛がられてるぞと実況する唯一戦友の様子が見える男の言葉は無視した。
「つまり、成仏してる状態と俺を加護している状態が同時に存在しているのか? 俄には納得出来んし、なんだか哲学じた話になって来たが」
「霊魂が一つだと誰が決めたよ。とはいえ、守護霊や守護神はДуховныйドゥホーヴヌイの主張で世界宗教的なものを起源としてねえ、こいつも仏教じゃあ存在を否定されている要素だ」
「どうぶ、何だって?」
「日本語だと、心霊? 精神? 主義者、か?」
「スピリチュアリストか」
「正誤の判断が出来んから意思疎通は日本語か露西亜語か北京語かシベ語で頼む。満州語も少しなら話せるぜ」
「シベ語って何だ、シベリア語の略称か?」
「いや、満州語から派生した方言みたいなもんだ」
「方言を話すのか、標準語じゃなく」
「満州語は殆ど死に体だ。昔の建築物には残ってるが話者そのものは少ねえんだよ」
 便利とも不便とも言いかねる5ヶ国語を挙げられ、取り敢えず母国語でと返し肩の力を抜く。水木の心情を慮り重苦しい空気にならないよう戯けたの気遣いに騙されたふりをしようと口を開くも失敗し、詰まった声の隙間から漏れた息が震えた。
 遠くに見える夏の空を見上げると額から流れた汗が横に流れ顎を伝う。何度か唇を動かして、やっとの事で声を取り戻した水木は光から目を背けるように俯いた。
「……そうか、あいつら、未練はなかったか。故郷くにに、還って来られたのか」
 あの地獄に置いて帰って来てしまった、ずっと気懸かりで申し訳なく思っていたと弱々しく絞り出し、顔を手に覆った水木には大股で近寄る。だが、が肩を貸す前に水木は顔を上げ、鼻を啜りながら涙に滲んだ目元を乱暴に袖で拭うと、濡れた瞳のまま感謝の言葉を述べた。
 慰めは要らないと態度で示されたは二度、三度水木の肩を叩いて穏やかな表情を浮かべる。大丈夫だと言われたら嘘吐きめと暑苦しい包容をしてやったのにな茶化すのでスーツに包まれた肩を殴ると鼻で笑われた。
「水木の兄ちゃん、追加の預言だ。煙草と酒は充分な御饌が既にある、靖国に寄る用があるなら別の嗜好品を所望するとよ」
「子供にお遣い頼む親か。贅沢な神様共が、で、具体的には何が欲しいって? 靖国以外にも供えるからそのつもり提案しろ」
 二言目にはそれかこのお人好しがとが誂うが水木は再度反対側の肩を殴り返事の代わりにする。
「あー……っと。葉巻と洋酒と加須底羅カステラ、無理なら素麺と蕎麦と薬味だそうだ。昆布と鰹節と塩と醤油と水は供えられてるとよ」
「俺の財布と何だと思ってやがる前者は却下だ馬鹿野郎共。ボーナス出たら供えてやるから気長に待ってろ。麺類ならまあ用意出来んでもないが、神様って夏バテするのか?」
「神様によるが、単に食いたいらしい。大抵供えられるのが米だから麺がいいと、最悪二割の饂飩粉でも許すそうだ」
「忌々しい笑顔浮かべてそうな連中に心当たりがあるなあ」
 直前のしんみりした空気を振り払い攻撃的な笑みを浮かべる水木の前では火種が完全に消えた葉巻をしまうと卓袱台の上に乗っていた名刺を手に取り、真新しい万年筆で文字を書き足して水木に手渡した。素人目にも一目で高級品と分かる黒檀と蒔絵で仕上げられた万年筆は些か派手だが水木は敢えて指摘せず、新たに書き加えられた電話番号と住所に視線を落とすと隣市の名前が確認できた。
「下宿先の住所と電話番号だ」
「三鷹か、案外近くに住んでいたんだな」
「だからって連絡なしに来てくれるなよ。こんなご時世だからか、商売が繁盛しきりで留守も多い。だがまあ、色んな状況が考えられるからな、足ついでに寄って捕まらなかった時は一階の若旦那に言付けてくれ」
「商家の二階か、何の店だ?」
「蕎麦屋さ」
 含みを持たせた艶っぽい笑みを浮かべながらが付け加えると水木は渋面を晒し、しかし真偽を追求するのも面倒なので隣の自室に吊られたスーツから自分の名刺を持ち出すと足早に戻り住所を書き加えて手渡した。
「知ってるだろうが、うちの住所だ。会社の連絡先と纏めて一応渡しておく」
「残暑見舞いは過ぎたが年賀状と寒中見舞いは書けるな。お歳暮は海苔でいいか? 女将さんに良い塩梅のやつを尋ねておくからよ」
「いや、いらない。その手のものは全部断ってる、精々葉書止まりに」
 金が掛かり気力も削がれる七面倒な習慣を復活させようとするを一刀両断した水木の言葉を甲高い何かの声が遮り、2人は同時に顔を向ける。発生源は居間の隅で、何かの落下音もおまけのように付随していた。
 見れば、先程天井板の隙間からカステラを狙っていた小さな鬼のような妖怪の1匹が畳の上に転がっている。
 他の鬼よりも小柄に見えるので経験不足から落ちてしまったのだろう。幸い怪我はないようだが鈍臭い性格のようで涙を拭いながら起き上がると人間に背を向けたまま部屋の隅を右往左往して立ち止まり、遥か遠くにいる仲間を見上げ木造家屋が揺れ軋むような声で鳴き始めた。仲間達は仲間達で人前に堂々と登場したり人間を追い払う妖怪ではないのか天井板の隙間で大いに慌てている。
「こりゃまた頓馬な家鳴だ」
「へえ、こいつが」
 家鳴なら水木も識っていた、音を出すだけで特段害のない妖怪だ。子守の婆様からは人を驚かす事が好きな妖怪だが大きな地震が来るよりも前に家を揺らして人間を外に出そうとする家鳴もいると信憑性は欠けるが親近感の湧く話を聞いた覚えもある。不気味とも愛嬌があるとも取れるような子鬼姿の家鳴はそんな小さな威厳すらも全く感じさせないまま小動物の仔のように弱々しく鳴いているが、産まれた時分から妖怪を見てきたが言うのだから間違いなく家鳴なのだろう。
 家鳴に悩まされた経験のない水木家では活動しているのか、いないのか、よく分からないくらいには存在感のない妖怪だ。そんな小さく無害な妖怪を邪険に扱うほど、水木の性質は濁っていなかった。
「どうした兄ちゃん、あちこち見回して」
「いや、元の場所に戻してやりたくてな」
 卓袱台ならば水木が乗り腕を伸ばせば高さは足りるかもしれないが流石に食卓も兼ねている物に足を乗せるのは憚られるので目に入る範囲で踏み台を探す。
 納戸に行けば脚立があるが屋外で使っている物を持ち込みたくない。とすると、自然と選択肢は限られてくる。水木よりも頭一つ縦に長いこの男ならば、ありったけの座布団を重ねた上で目一杯手を伸ばせば天井まで届くような気がした。
「台所は?」
「そこは俺の領域じゃないから何処に何があるのか分からん」
「兄ちゃん……俺ぁ他人の私生活に口を挟まん主義だが、嫁さん居ねえんだから最低限の家事は熟せるようにしとけよ? 従軍中に繕い物くらいはしただろ? 今日からでも遅くねえからお袋さんに頭下げて習っとけって、な?」
 まさかの流れで心の底から心配され水木は言葉に詰まる。そういうお前はどうなんだと話を逸らしつつ反撃したいが、冗談を口にしているようには見えず本気で水木の今後を案じ俺も手伝うからとまで言っているので下宿はしているものの一通りの家事は出来るのだろう。そもそもは僧侶なので満州に渡ってから徴兵されるまで炊事や掃除を修行の一環として叩き込まれていると思い至り、口を閉ざす。
 明らかに不利であり都合の悪い展開になりそうなので追々そうすると誤魔化すと、の視線が水木の背中側へと移動した。気易い神霊達が何かを主張しているのだろうが、彼はそれを尋ねる事なく残っていたカステラ2切れをちり紙に乗せ小さな家鳴の前に屈んで話しかける。
「食い意地張ってるお前、怪我はないか? 隣のデカいのに頼んで仲間の所に戻してやるから大人しくしていろよ」
 やっと妖怪にあるまじき醜態を人間達に観察されていると気付いたのか、虚勢を張り怪我などある訳がないと顔に出した家鳴は差し出された水木の手の平に我が物顔で飛び乗る。妖怪に年齢などあるかどうかも知らないが、仕草は幼児だし警戒をしない辺り精神的にはまだ子供なのだろう。
 左手にカステラ、右手に家鳴を乗せた水木が振り返るとは特大の溜息を吐いて口約束だろうと人外と気軽に契約してくれるなと忠告しながら仕方がなさそうに髪を掻き上げた。
「俺は頼まれて手伝うだけだ、家鳴は家主のお前が助けろ。それと、今後は絶対に人ならざるものを人の尺度で測るな、兄ちゃんのそれは人間で例えると双方合意の上で契約書類を作って判まで押した状態だ。不履行の際の罰は文字通り限度なしで、内容も相手方の気分次第になる」
 元営業マンに効く説教をされ水木は息を飲み言葉に詰まる。しかし息を吸う頃には、初めての失態がこれで良かったとも思い、苦笑しながら反省の弁を吐き出した。
「やらかした事は分かった。悪かったな、これからは気を付ける」
「分かったならいい……なんて穏便に済ませると思ったか? 助かった後で殺せば解決と考える妖怪もごまんといるんだよ、お前は無知からそれに他人を巻き込んだ」
 反省を促しながらさりげなく背後に回ったは水木の両肩に手を置き、手を離し、何故か膝を折り深く屈む。
「猛省しやがれ薄ら馬鹿が!」
 腹の底から吐き捨てた台詞を掛け声にしながら、は水木を肩に座らせるようにして勢いよく担ぎ上げた。
 反りそうになった背中を筋肉と体幹で補正し、そのまま前屈して天井と脳天の接触を回避した水木は、股の間に鈍痛が走らなかった事に安堵しながら踵での胸を蹴る。
「あ、っぶねえな! こいつ落としたらどうする気だ!」
「類縁に目ぇ付けられるような下手を打つかよ。家鳴は受け止めてやる、そして俺は信じてる。兄ちゃんが落ちても頭の硬さと頸の頑丈さでのたうち回る程度の怪我で済む事を」
「頭から落とす前提で担いでんじゃねえ!」
「お前のために涙を呑んでやってるのになんて言い草だ」
「悪かったとは思ってるがそれはそれだ、態とらしい声色で露骨な嘘を吐くな」
 両手が塞がっているので上半身を捻り肘で脳天に圧を加えようとするも、右手の中で家鳴が不安定に揺れる水木の手の中で哀れっぽく鳴くので仕返しは後に回す。
 板が半ば外され四角い穴と化した天井まで小さな家鳴を差し出すと仲間達が挙って腕を伸ばし小さな家鳴を引き上げた。人間より余程愛情深いようでなによりだと独り言ち、同族に取り囲まれ帰還を喜ばれている家鳴に声を掛けカステラを差し出しながら皆で食えと言えば一際大きな歓声が上がった。もっとも、水木の耳には家屋が軋む音にしか聞こえず、何年も前この家が台風の暴風域に突入した記憶がうっすらと蘇った所為で安堵と不安が混ざった中途半端な表情を浮かべてしまったが。
「もう落ちるなよ。ほら、こいつも持っていけ」
 慎ましやかにも一切れを皆で分けるつもりでいるのか、カステラを神輿のように担ぎ上げている家鳴達に残りを差し出そうとした水木の腕を、暗がりから伸びた何かが掴む。
 太い、人間の、男の生腕だ。
「……は?」
 腕の先には毛に覆われた小豆のような形の大きな顔がついていて、爛々と輝く丸い両目はそれぞれが水木の頭ほどの大きさがある。大きな歯が生え揃った口は横に広がり笑っているようにも見えた。各々の部位は人間に似ているが、明らかに人間ではない何か。それが、水木の手からカステラを受け取り、今度こそ間違いなく、不気味に笑った。
 息を飲み、頭の血液が一気に下る。自分の体を支えられなくなり背後に倒れ込む水木の背中が硬いものに辺り、垂れ下がった指の先が畳の上を擦った。上にある足の脛の辺りから大きな声が降ってくる。
「ふっ、ざ、けんなよ!? さっさと目ぇ覚ませ!」
「う、あ?」
「頭打ってねえだろうな? 頸も無事だな? 意識あるな? 小豆はかり相手に気絶寸前まで行く奴があるか! あちらさんは驚かし甲斐があると大喜びだよ、良かったなあ!」
「……。お前、ほんとお人好しだな」
「そうかい、ありがとよ。頭から落ちて首折れろ!」
 口を動かさなかった分、行動は水木の方が早かった。
 掴まれていた脚が離される前に関節技の要領で足首を膝で挟みの頸を締めながら落とされる事を阻止し、で水木とは異なる意味で落とされてたまるかと両腕で水木の脚を掴み剥がしにかかる。無論、互いに本気ではないのだが、勝ちを譲るのがなんとなく癪なためどちらからも静止の声は上がらない。
 天井板の隙間から一対の大きな目玉と無数の小さな目玉が覗き、人間達によって作り出された不毛極まりない馬鹿の構図を興味深そうに観察していたが、玄関の戸が開く音を機に天井裏の闇の中へと立ち去っていく。
 天井板が少し外れたままの居間に彼女が現れたのはその直後だった。
「ただいま帰りましたよ。まだお遣いの方と……一体なにをやっているんだい、お前達は」
「お母さん!?」
「御母堂!?」
 建て付けの悪い襖を慣れた様子で音もなく開けたのは席を外していた水木の母親で、吊るされたまま水木が時計に目をやると、成程帰って来るには充分な時間が経過していると納得した。そんな息子に向かって彼女は買い物籠を片手に腰に手を当て、利かん坊を見るような眼差しで溜息を吐く。
「いい歳をした大人が揃って力道山の真似事かい? まったく、駄目とは言いませんがね、せめて庭に出ておやりなさい」
「違うんですお母さん、その、大きなヤモリが落ちてきたので天井に帰してやろうと」
「ああ、そうかね。天井板は元に戻してくださいね、埃が落ちてきてしまうから」
 息子と訪ね人とのプロレスもどきには欠片も興味はないのか、必要な事を言うと彼女は卓袱台に放置されていた湯呑みと急須を目敏く回収し台所に行ってしまった。
 開け放たれたままの襖の向こうに消えた水木の母親を4つの視線は静かに見送り、やがて家主であり息子でもある方が口を開く。
。天井板戻すの、手伝ってくれ」
「おうよ」
 ゆっくりとが屈み、水木は畳に手を付いて体勢を整えてから立ち上がる。
 ふと縁側を見てみると白毛と赤毛の小さな猫魈2匹が激しく転げ回っており、当事者達だけはそれなりに真剣だが迫力皆無の喧嘩を繰り広げている所だった。立ち上がったまま余所を向いている水木の視線に気付いたのかも庭に目を向けている。
 多分、彼女にはあれと然程変わらないように映ったのだろうという言葉を、水木とは揃って飲み込んだ。