よすがの諷経
月曜日を翌日に控えた気怠い午後にその男は水木の家を訪問した。若干畏まった呼び声を受けて玄関に足を運び扉を開けたのは水木の母だったが、実際に来訪者を迎え入れたのは水木自身だった。
叩扉に支障のない時間帯のため愚にもつかない勧誘の類かと思い母親に接客を任せていたが、彼女は玄関先で二言三言話さない内に怪訝な顔を隠そうともせず青い筒から取り出した最後の1本に火を点けたばかりの水木の元へ戻って来た。曰く、龍賀克典の息子を名乗る男が訪ねて来たが対応を決め倦ねている、と。
龍賀の遣いと称する人間が水木の家を訪ねるのはこれが初めてではない。
龍賀家の当主である時貞の長逝をきっかけに哭倉村に集った龍賀の一族は皆、一ヶ月程前に原因不明の事件、或いは大規模な自然災害、警察の発表に依ると化学薬品漏洩事故の可能性、想像力豊かな者が言うには祟りで一人残らず彼の後を追った。一族どころか村人も、遺言状を届けに訪れた弁護士さえも、水木一人を省いてあの日あの村に滞在していた人間は皆息を引き取った。
辛くも生き延びた水木にしてもあの村での出来事は前後を含めて一切覚えておらず、彼を診た医者は突然総白髪になってしまった患者に向き合いながらそれで心が守られているのなら無理に思い出す必要はないだろうと診断を下し、体の治癒に必要な医療のみを施した。
僅か数日で大きく姿を変えてしまった息子を見た母は泣き崩れたが、それでも、おまえが生きてくれていて良かったと嗚咽を漏らしながら小さな体と細くなった腕で力一杯抱き締めてくれた。
記憶を失ってから時折よく分からないものが見え、声が聞こえることもあるが、今の所は日常生活に大きな支障は出ず医者に話しても一時的な心疾患だろうと言われ、水木自身も精神の均衡を崩している自覚症状はあり、母も自分も実害も被っていないのでその内治るものとして静観している。
無論、放置で済ませてくれないのが下世話際まりない世間だ。
警察と消防は仕方がないにしても、マスコミは病院、自宅、会社と場所も時間も問わず水木を付けて回っていた。幸いにして数日、数週間、一ヶ月と存在しないものとして扱い続け事件の旬を過ぎたこの頃は流行に乗り遅れたカストリ雑誌の記者が時折姿を見せる程度まで頻度は減っている。
会社は龍賀に取り入る事も密命とやらを果たす事も出来ず生還した社員を白い目で睨め付け、復帰の翌週には花形の営業職から窓際部署への左遷を命じた。せめて死んでくれさえいればうちも被害者として立ち振る舞えたものをと陰で言われたが、記憶と共に何故か出世欲も失ってしまった水木は特に何の感情も湧き上がらないまま心無い態度など今更だとし、伽藍堂な会社の傀儡が予想の範疇を超えない台詞を並べているなと無味乾燥とした感想を抱きながら粛々と異動命令に従うだけであった。
近所で娯楽代わりの玩具になり自称情報通の無責任な拡散器達が言い寄ってきたこともある。もっともこちらは水木が何も語らないことを学習すると急速に興味を無くし、代わりに無い事に骨と肉と鱗と鰭を付けて馬鹿馬鹿しいこと極まりない話を吹聴していた。立ち寄った商店で下らない視線に晒され噂話の種になるのは耳元に漂う羽虫のように鬱陶しくはあったが逐一否定することも億劫になり、また水木の自宅は井戸端から遠い雑木林と古寺に挟まれた立地にあったので被害も少なかったことからマスコミ同様に無いものとして扱った。
最も不愉快でしつこかった、否、現在進行系で現れるのが生き残った哭倉村への入村を許されなかった龍賀の親戚筋達だ。
彼等は龍賀一族に含まれる分家の人間で、自身の権利を主張しながら龍賀時貞が遺した遺言状の内容を水木にしつこく尋ね続けた。知らない、覚えていないと幾度となく邪険に扱おうとも自分だけには教えてくれと食い下がり、日毎に異なる名字を名乗る人間達が判を押したような言葉を携え水木の元へやって来た。
故に、龍賀の名を口にする人間はその時点で顔すら見せないと水木も決め、彼の母親も了承していたのだが。
「いつものようにお引取り願ったんだがね、どうにも違うらしくて」
「と言うと」
「あの村で亡くなったカツノリという人かい? その方の御子息だと名乗ってね、遺言状にお前の名前が載っていたから遺産の受け渡しに来たと言っているんだよ」
母親の不可解な表情が水木にも感染するが、記憶を探ると対象となる人物に思い当たる節はあった。克典の遺言状に水木の名が記載されているのは甚だ不可思議な話だが、聞こえの良い言葉だけでなく本心から水木を気に入っていたのだろうか。
ただの他人である水木に遺されたものなどどうせ大したものではないだろうが、居留守を使い受領の返事を先延ばすと期限が切れた数年後辺りに税務署から面倒な通達が送付される未来は目に見えていた。
あの克典が溺愛していた養い子を一目見てみたいと疼いた好奇心も僅かながらあり、彼は母親に確認を行う。
「その方の名は?」
「さん。そうそう、さんと仰っていましたよ」
名刺も貰ったと差し出された紙には水木でも名を知っている大手興信所所属の調査員である旨が印刷されており、真新しいインクの匂いを発する名字は克典の旧姓で、名前は確かにあの日克典が漏らした音と字が一致した。
下準備を整えた詐欺師かどこかの回し者の可能性も捨て切れないが、まず間違いなく本物だろう。克典の血の繋がりのない息子と水木の住所を突き止めるまで調べた上げたのなら現状で龍賀の名前を出し親類を騙って自宅への訪問は明らかに警戒される悪手だと分かりそうなものだ、出来の良い詐欺師にしては下準備以外があまりにも疎かなので消去法からの本物だと彼は判断を下した。
「分かりました、心当たりのある方なのでお会いします」
「そうかい。私は、お茶をお出ししたら少し出ることにするよ」
母親が席を外すことを承諾すると、再度襖を隔てた廊下の向こうから二言三言話し声が聞こえた後で水木の元へライトグレーのスーツを隙なく着こなした男が通される。馬鹿が付く程器量良しで、線は細いが上背が高く、童顔という訳でもないのに北方へ出征していたにしては随分若く見える男だった。
赤銅に似た奇抜な髪と淡褐色の人懐こそうな大きな猫目を特徴に持つ男は克典と似ても似つかないが、何故か既視感を覚えた水木は相手に不快な感情を与えない程度に観察する。閑職に追い遣られたとはいえ腐っても営業職であったため人の顔を忘れることはまずないと自負していたのだが何故か思い出せず悩んでいると視線が合い、一先ず常識ある大人として、この度は御愁傷様でしたと最低限の挨拶をして座布団を勧めた。
「突然の訪問にも関わらずご対応くださり感謝申し上げます。わたくし、龍賀克典の息子のと申します」
欧州の絵本に出てくる王子様めいた容貌に似つかわしくない水底にまで響くような男性的な地声は酷く印象的で、愈々思い出せない理由が分からいないまま母親が置いていった熱い煎茶を啜る。傍らに置かれた茶菓子は目の前の男の手土産だろうか、甘い芳香を漂わせるカステラが行儀よく鎮座していた。卵と砂糖をふんだんに使用したこの洋菓子は物資の乏しい時代に姿を消しほんの数年前に漸く復活を遂げた贅沢品で、見た目こそ地味だが趣味が良いと言える。
スーツに時計、仕事用の鞄と相応のものを仕立てているようだが営業で諸々と培った水木から見ても悪目立ちせず実直なもので揃えている、矢張り克典とは趣味も性質も異なるのか成金じみた毒々しさがない。その分顔面の造りと配色が派手で華やかな美貌は否応なしに人目を引くものの、こちらは生まれ持ったものなのでどうしようもないだろう。
一通り観察を終えても思い出せないものは仕方がないと無駄な思考を切り上げて、本来ならば世間話から遠回しに会話を始めるところを省略し、まだ長い煙草を揉み消しながら本題を切り出した。
「様のお話は克典氏から聞き及んでおります。なんでも、遺言があると承りましたが」
「相違御座いません。父は生前、水木様を大層目に掛けていると常々申しておりました。先日、遺言書の検認を終え弁護士立会のもとで確認したところ、水木様のお名前と共に遺産を分与する旨が記されておりましたのでお届けに上がった次第です」
母親から聞いた内容に食い違いはないようだが、どうにも納得の出来ない水木は後頭部を若干乱暴な仕草で掻く。
「確かにあの方には可愛がっていただきましたが、他人の私が受け取るというのはどうにも据わりが悪いのです」
「水木様のお気持ちも十二分に理解出来きます。しかし、であるのならば、わたくしも他人なのです」
「ああ、そういえば……籍は入れてはいないと」
「そこまでご存知でしたか。息子と称しておりますがの名も強請って頂戴したものなので、厳密に申し上げるとわたくしは龍賀克典の旧姓と同じ名字の他人に過ぎません」
だがそれでも同じ分類の他人とは言い難いだろうと水木は眉を顰める。溺愛していた養い子と取引先の窓口とでは立場も感情の注ぎ具合も何もかもが天地ほど異なるのだ。
記憶を無くす前の水木であればこれを好機として捉えただろう。まんまと騙されやがったと毟り取った金を投資し、更に成り上がるため血反吐が喉から噴き出そうとも歩みを止めなかっただろうが、今はとてもそんな気にはなれない。白い目で見られ、陰口を叩かれ、嘲笑されながら書類に向かい毎日でも、所帯を持たぬ身の上なので贅沢を望まず慎ましい生活を続ければ母親との2人暮らしで今後も生きていけると無気力に考えていた。
あぶく銭は身に付かない、とまでは言わないが、感情を動かす程に慕ってもいない相手からの遺産分与というのはどうにも腑に落ちず気味が悪い。書面に認められたくらいの額ともなると相応の理由を彼は欲した。
「遺言状を拝見してもよろしいですか」
「勿論です」
そうして受け取った紙切れに記された額面と、千円札で膨らんだ紫の布の分厚さに、水木は冷や汗を流したのだ。
「そちらが父、龍賀克典による遺言となります。ご遠慮なくお納めください」
丁寧に宣いながら折り目正しく頭を下げるに両手と卓上の紙全てを投げるように押し付け、思わず帰ってくれと声を張り上げる。
「アンタには悪いが、こんな大金は受け取れない」
「ええ、左様でしょうとも」
顔を上げたは庶民としての真っ当な金銭感覚を持ち合わせており水木の反応も予想していたようで、驚いた態度も困った様子も表に出さず、ただ幾許か悲しげな表情で俯くと膝上に落ちた遺言状の写しには目もくれず鞄の中から装飾が施された木製の箱を取り出し畳の上に静かに置いた。
「ならばせめて、こちらを」
オルゴールの箱のようにも見えるそれの蓋を開けると、整然と収められた立派な葉巻が顔を覗かせる。何度か目にした事がある、克典が愛飲している葉巻だと気付いた水木は先程流し見た文章の中に確かに一揃いの葉巻と葉巻の湿度管理や熟成を行う保湿箱も譲渡される旨が書かれていたのも思い出した。
紙煙草を愛飲する水木にとって葉巻は境界を接しているだけの別世界にある嗜好品であり管理する知識などないと断ろうとするも、はせめて供養の代わりに1本だけでもと食い下がりシガーカッターを勧めてくる。
龍賀克典という男は水木にとって感情を大きく動かすほどに心を占めた存在ではない。しかし、供養する気が失せるような付き合いをしていた訳ではないし、寂しそうな表情を浮かべ亡き養父の遺志を果たそうとする人間を無碍に扱うほど情を捨てた訳でもない。わざわざ仏壇や墓前に赴けと強要されている訳でもなく、愛煙家に対する線香の代わりだと思えば葉巻を1本頂戴するくらい、と絆されてしまう。
先に金銭の受領を拒否した後ろめたさもあり、水木が仕方がなさそうに頷くとは安堵の表情を浮かべてターボライターを取り出した。
「用意が良いな」
「わたくしが水木様と同じ立場ならば、あの袱紗はとてもではありませんが手を付けられる代物ではございませんから」
「だろうなあ」
製薬会社の社長である克典の葬式は表向き盛大に行われたそうだが、婿養子である彼の為に心を砕く者などきっと居なかったに違いない。の目的は遺言通り金を受け取らせるのではなく、父親を知る自分以外の誰かに供養をして欲しかったのだろう。
都合の良さそうなきっかけが手元にあったから便乗したに違いないと苦笑した水木は足を崩し、慣れない手付きで吸口を作り葉巻を渡してきた男を真っ直ぐ見つめた。
「なあ、もう堅苦しい遣り取りなんてものは止めないか。俺とお前と、そんなに歳は変わらんか、どうかしたらお前の方が上のはずだ」
「まあ、そうですが」
「歳の上下に関わらず畏まられるのはどうも性に合わん、敬語でない方が俺も気が楽だ」
は逡巡の間を挟んだものの素直に頷くと肩の力を抜いて姿勢と髪型を崩し、大きな音を立ててライターを卓袱台に置きながら少しとは言い難い砕けた調子で返答する。
「なんだ水木の兄ちゃん、お前さん軍人上がりの割に上下関係は緩い方かい」
繊細な容姿に相反するガサツな口調に水木は思わず目を見開くが、胡座をかいて煩わしそうにネクタイを緩めるを見てライターの横に肘を付き男臭い笑みを浮かべた。
「また随分とでかい猫を被ったもんだ」
「奴さん俺にゃあ懐かんから宥め賺してやっても肩が凝って仕方ない。その上、大陸の屋根兎は毛深いからこの時期は暑くて敵わん」
「ウサギだ?」
「おかふぐさ、兄ちゃん」
したり顔で告げ未だ熱いままの茶を一息で飲み切ったの横で水木は庭先で猫が戯れている様子を眺めながら盛大な溜息を吐く。晴れの日のこの時間に庭で見られる平穏極まりない光景だったが、水木は眉間に皺を寄せに顔を向けた。
「被ってるように見えたが祟られているだけか」
「だったら祟り返してやるまでよ、七代祟るのは猫だけの特権じゃない」
「……還俗したと聞いたぞ」
「誓って名刺は本物だ。十手を預かった博徒の真似事さ、抜けるはずだった僧籍は有耶無耶で、破門もされちゃいない」
適当な調子で適当な言葉をぐだぐだと返したはスーツの前を開け懐のシガーケースから葉巻を取り出すと覚束ない様子で吸口を作る。先程までは気合で止めていたのか、造形だけは必要以上に整った白い顎から滴り落ちた汗がシガーリングの上で弾けた。
紙煙草とは異なる手順だからか時間を要した割に着火だけは妙に堂が入っており、あっさりと火が付いたそれを咥えたはライターを差し出す。拒絶する理由も見当たらない水木は受け取ったまま放置していた葉巻に見様見真似で火を点けると紙煙草と同じように肺まで吸い込んで、盛大に噎せた。
「おいおい、期待してたが本当にやるとはなあ!」
「テメっ……言えよ、先に!」
「兄ちゃんだって逆の立場だったら面白がって言わんだろうが」
「初対面の相手に断言出来る根拠を訊きたいね」
「勘。それともまさか懇切丁寧に手引してくれるつもりか?」
「するわけないだろ、馬鹿野郎が」
涙を浮かべながらも強がり、しかし拗ねた様子を隠そうともしない態度が気に入ったのかは豪快に笑い飛ばして力強く水木の背中を叩く。そこにまた既視感を覚えつつ、気の所為だろうと記憶の隅に蹴り飛ばしながら何やら鞄の中を漁っている姿を黙って眺めた。
「詫びの品だ。折角葉巻を嗜むのなら、こいつも一献と思ってな」
何処に入れる空間があったのか定かではないが、そう言いながら取り出したのは見覚えのあるスコッチ・ウイスキーで、金属製のスクリューキャップが開かれるとアルコールの甘味を含んだ芳醇な香りが居間に広がる。なんとも不釣り合いな匂いに思わず水木は笑い、お前うちに何しに来たんだよと溢しながらだらしない掛け声と共に腰を上げた。
「言っとくがグラスなんて洒落たモンはないぞ」
「蘇格蘭由来の般若湯だ、焙じ茶と色合いは大して変わらんから湯呑で十分だろう。そうそう、欲張らんでもそこそこの大きさでいいぜ、三杯までは一献の勘定だ」
「インテリ生臭坊主め」
「俺がИнтеллигенцияなら目の前に御わす旦那は学者様か? こちとら最終学歴が尋常小学校中退だぜ」
ソビエトに囚われていた片鱗を発音で見せながらは器用に片眉を上げ茶目っ気のある表情を作り、水木が用意した湯呑に手早く酒を注いでいく。茶渋がこびり付いた湯呑に注がれる酒は琥珀を溶かしたような色合いで香りも格段に良く、味の想像がつかない水木はストレートで一口啜ると水を入れた急須を追加で持ってきた。
「待て待て兄ちゃん、割るんじゃねえよ、水と交互に飲む方がこいつは美味いはずだ」
「はずって何だ、憶測で高い酒を無駄にするな」
「親父がそう言っていたから一度だけ付き合った。俺は質素だから密造焼酎と金鵄で十分だと悟ったが」
「そりゃ一周回って贅沢って言うんだよ」
水木が愛飲する鳩とは違う蝙蝠のパッケージを好むというどうでもいい情報をその辺に投げ捨て、家主はウイスキーの入った湯呑を盆に乗せると顎で縁側を指す。視線を合わせるのが気まずい訳でも、少しでも景色のいい場所で吸いたい訳でもなく、葉巻2本分の煙に居間が白く霞始めたからこその提案であった。
肩を並べて2人は黙って葉巻を吸い、気怠げに燻らせる。蝉の声に混じりどこか遠くで鳴る風鈴がおりんの音を想起させたが会話はせず、時折どちらかが思い出したように温いウイスキーを舐めた。
一掬の涙すらも流れない乾いた供養だったが、湿っぽい事を厭いそうな克典ならばこういうのも有りだろうと考えた水木は葉巻に不釣り合いな安物の灰皿に灰を折るように落とし、目を眇めるようにして景色を眺めたまま切り出した。
「なあ」
「どうした」
「克典社長は、どうして俺なんかにあんな大金を遺そうとしたんだ」
「親父の目利きをぞんざいに扱ってくれるな。受け取らんのだろう、知ってどうする」
「俺の気が晴れる」
「は、建前もクソもねえな。だが素直な奴は嫌いじゃない」
下手に言い訳を並べるより正直に告げた方が効く、そう判断した水木は間違っていなかったようで、は手元を見ないまま灰を落とすと横目で水木を見る。
「半分は同情、もう半分は期待だとよ。親父はその昔は裕福だったそうだが、両親が詐欺師に身包み剥がされた挙げ句心中を図ったらしくてな」
「……知らない話だ」
「だろうな、迂闊な所も多いが弱い所は見せたがらなかった人だ。俺だってその話を聞いたのは深酒した席での、一回こっきりだよ」
視線を外してわざと葉巻を深く吸い込んだは苦々しい表情のまま白い煙で溜息を誤魔化し、やや勿体ぶってから再度水木と目を合わせた。
「だが兄ちゃん、どこかで聞いた話だろう」
「お前、趣味が悪いと言われないか」
「良い趣味してると自負していなきゃあ他所様の身辺調査で食い扶持稼ごうとは思わんぜ」
「結構な自覚方法だ」
水木はそれ以上答えず、含んだ煙を細く吐き出して唇を撫でる。その様子を見ていたは先程と同じ仕草で湯呑を呷ると、吹き出た汗で濡れたシャツの胸元を引っ張り水分を吸い取らせた。雑木林を住処にしている蝉の合唱が示し合わせたように止まり、一拍置いた後で一際大きく夏空に響く。
経緯も年齢も異なるが、財産を失い矜持を踏み躙られた者への同情。まったく有り難い話だと吐き捨てたくなる水木はしかし、風に揺れる濃い緑の木々を眺めていたの横顔を見て言葉を飲み込む。
克典は彼が天涯孤独の身だと嘆いていた、結婚どころか見合いの惚気話も耳にしなかった事から恐らく所帯も持っていないだろう。冬が支配する大地に10年もの年月囚われ、帰国後も領土と引き換えに帰還した恥知らずの共産主義者と罵られただろう、仕事に就き生活基盤を整えどうにか胸を張って再会出来た養い親をたった1年足らずで喪った孤独な人間に感情のまま投げ付ける台詞ではないと自制心が働いたのだ。
ふと、水木の脳裏にぼんやりと薄暗い影が過る。脳の中で誰かが再会の涙を流している気がして胸の内がざわついたが一際強く吹き付けた風が雑木林を騒がせ影は霧散し、雑音が収まるとが薄く唇を開いた。
「随分寂しそうな顔をしてくれるな、憐れみなんぞをかけてくれるなと殴られる覚悟くらいはして来たんだが」
「そうか。お望み通り今から殴ってやろうか」
「遠慮させてくれ、兄ちゃんの拳骨は骨の髄まで響きそうだ」
間を取るためだけに短い灰を落とし、は地面を見下ろした。猫の姿は夏の景色を透かすように消え、足元では蟻の行列が透明な蝉の羽を運んでいる。
「期待は、まあ、文字通りだ。親父は兄ちゃんの野心を買っていた。纏まった金を遺してやれば、きっと成り上がるための努力を惜しまず成功するだろうと。報われる人間の姿が好きなんだ……と、言っていたが、耐えられんのだろうな。金も家族も何もかも全部失っちまって、我武者羅だった昔の自分を見ているようで」
「そこは綺麗事で終わらせてやれよ」
「親父に聞いた通り、今も兄ちゃんが透けて見える野心の塊だったら上っ面繕って縁切りしてやったさ。もっとも、そうなっていたら肩を並べて葉巻をふかすことも、酒を酌み交わす事もなかっただろうがな」
「褒められてるのか貶されてるのか分からん所だな。しかし俺はこの先、お前と会うつもりなんざ毛頭ない。どこかで見かけたら声くらいは掛けるだろうが、それだけだ」
最低限の義理は果たし好奇心も失せた。
今後も関わるつもりだと告げるに対して、この葉巻を吸い終えれば切れる縁だとしてを水木は突き放し、ぶっきらぼうな返答をしながら湯呑を手許に寄せた。縁側から立ち上る夏の熱気でとても適温とは言い難くなったウイスキーは甘い香りに反して苦く、舌の上に広がったアルコールの鋭さを葉巻の苦いまろやかさで打ち消す。
振られた形となるはしかし、そうとは思えない余裕を持って葉巻を灰皿に休ませてから薄気味悪い表情を浮かべた。肌に擦り付けられる濡れた砂利のような、細かい傷を絶え間なく付けられる感覚に似た不愉快な笑みだ。
営業成績が劣っていた同僚が水木を嵌めようとした時の笑みを想起させるそれを見て、這い寄るような悪寒を覚え背中に冷たい汗が流れる。幸いあの時は同僚側の準備不足と水木の機転と根回しで大事には至らず、逆に相手が音を上げるまで追い詰めたが。
「お前、一体何を」
「なあ水木の兄ちゃん、俺ぁ知らなんだがよ、兄ちゃんは相続放棄の条件ってものがある事を知ってるかい?」
「知らないが、おい、まさか」
「残った金に手ぇ付けたり、経済的に価値が高い遺品を手元に置くと認められねえんだってよ。でもって、だ。親父が遺した玖馬産の最高級葉巻一揃いと古美術商垂涎の保湿箱、市場価格だと幾らで取引されてると思う?」
「待て、それ以上は言うな!」
「黙ってどうにかなるか試してみるか? 御愁傷様。火種はとっくに点いちまった、待ったところで灰になるまで燃え尽きるだけよ」
思わず腰を上げた水木に対し、は追手を巻くために仏門に入った悪党のような態度を顕にして悪魔のように吊り上がる口角すら隠さないまま盛大に葉巻をふかす。
掌の上で踊らされ情に流された結果として頭の先から尻まで完全に嵌められた水木は耐えきれなくなり、どうにもならないと理解していても叫ばずにはいられなかった。
「騙したのか!?」
「兄ちゃん、お人好し過ぎるぜ」
チョロいなと酒と共に煽られ軽い目眩と頭痛を覚えた水木は力一杯拳を握る。
感情のまま動けば先がなくなる事くらい身を以て知っていた。日本は法治国家だ、税務署相手に知らなかったは通用しない。遺産に手を付けてしまった以上を殴ったところで状況が好転する事は絶対にない。
だとしても、眼前のスカした面を力の限り殴らなければ腹の虫が治まらない。言葉にせずとも背負った感情がそう語っていた。
身の危険を察知してなおは悠然と立ち上がり、訪問時からは想像出来ない草臥れた格好で両手を上げて降参の姿勢を取る。逃げることは悪手と判断した態度ではなく、殴られる覚悟で会いに来たという先程の言葉は嘘ではないとでも言うかのように。
「殴るなら脳天か腹で頼む、顔は言い訳が面倒だ」
「断る。だが俺も鬼じゃない、その潔さに免じて一発で済ませてやる」
「そりゃあ有り難い心遣いだね」
「歯ぁ食いしばれよ、色男」
どこからか取り出した手拭いを拳に巻き体重を乗せて振り被られた水木の右の拳は、宣言通りの顔面を手加減なしで打ち抜いた。