曖昧トルマリン

graytourmaline

よすがの諷経

 酒の席での話だ。
 秋と呼ぶには淑やかさの足りない、甚だ暑い日であったことを水木は覚えている。全身を絡め取られる錯覚を起こしてしまいそうな湿気が東京中を覆った、溺れるように蒸し暑い暮秋の夜だった。
 龍賀製薬相手に恒例の接待を行ったその夜は散々なもので、四次会まで二足歩行を継続出来た人間は矢鱈と上機嫌に酒を勧めてきた社長の克典を除けば双方の企業含めて水木1人のみであった。その水木にしても、ごく自然に見える頃合いを図っては手洗所に赴き胃の中の酒精を高価な食材だったものと混ぜ合わせて幾度となく吐き戻しては何食わぬ顔で席に着いただけで、社長の機嫌を取るべく馬鹿正直に酒盃を重ねていたら吐き気と頭痛に襲われながら畜生未満の格好で路上にて朝日を拝む連中の仲間入りをしていただろう。
 勧めるばかりで殆ど飲まなかった克典など捨て置いて布団に飛び込みたい欲を堪え、最後に一杯と誘われた半地下のバーで出された洒落臭い横文字の辛く苦いカクテルに唇を触れさせて嚥下したふりをしながら本日何度目かになる乾杯をやり過ごす。
 黙々とグラスを磨く老齢のバーテンダー以外誰もいないひっそりとした雰囲気のバーの中で、克典が要件を静かに切り出すのにそう時間は要しなかった。
「ところで水木君、折り入って君に相談があるのだが」
「勿論です、克典社長。私が力になれることでしたら」
 内容も吟味せず反射的に返答した水木は、とてつもない面倒事に巻き込まれるぞと警告する理性を龍賀の社長に恩を売る機会を取り零すなと囁く欲で捻じ伏せて笑顔を貼り付ける。敢えて水木を狙って残したのか最後に残った1人ならば誰でも良かったのかまでは定かではない。しかし今宵の克典は頗る機嫌が良く、辣腕家だが若手に不可能なことを要求しては狼狽する姿を楽しむ類の人間ではないので思い付きで底意地の悪い無理難題を吹っ掛けてくる可能性は低いと見ての即答でもあった。
 濃い琥珀色の蒸留酒に視線を落とした克典は何かを決したように一息でショットグラスを空にして、同じものをとバーテンダーに注文してから棚に並んだボトルを見つめる。
「実は先日、ああ、息子の復員を知ってね。いや、実子ではなく養い子なんだが」
「……は」
「あれは容姿こそ軟派だが気質の方はどうにも慎ましやかに過ぎるきらいがあってなあ、弱音の一つも吐かんのだ」
 克典に息子がいた事実を初めて耳にした水木は短い返事をして、個人的な情報まで開示されるような関係として認められたことに北叟笑みがらも、もしかしたら自分は一社会人には背負い切れない告白を聞いてしまったのではないかと肩を強張らせた。
 克典は龍賀家にとって外様の婿養子だが主力企業である製薬会社の社長を任され、次代当主候補として直系の長男である時麿と共に名が挙がるくらいには一族に食い込んでいる。そして、今現在龍賀の直系男子2人は息子以前に嫁すら娶っていない。現当主の時貞から見て孫に当たるのは長女乙米と克典の娘沙代と、龍賀の故郷でそこそこの地位にあるという長田家に嫁入りした三女庚子の息子時弥だけで、何れも当主の座に就くには未熟だった。
 一時的にでも克典が当主の座に就いた場合、ひとつ間違えれば龍賀の御家騒動に発展する危険性がある火種に僅かばかり酒に浸っていた脳が覚醒する。
 しかし、水木が次の言葉を選び取る前に克典は先手を打った。
「安心したまえ、息子のことは龍賀も既知だ。あれは拾い子でな、私以外の親類もおらん天涯孤独の身だと申し入れて、身内にこそ入れられんが不自由のなく暮らせるよう相応の援助をして貰える所まで婿入り前に取り付けたんだが」
「御子息の方から、辞退なさったのですか」
「全く勝手な奴め、縁談が決まったと知るなり頭を丸めおって。今まで育てていただきありがとうございました、どうか末永くお幸せに、なんて月並みの台詞ばかり残して満州くんだりまで渡りおった」
 面子を潰された形になった克典は、しかし怒りを抱いている様子はなく苦く辛そうな表情でグラスを持ち上げ、口を固く引き結んだまま元の場所に戻す。
 橙色の照明の下にあったのは、戦争に子供を奪われた親の顔だった。
 赤紙が届いた時の母親もあのような表情をしていたのだろうかと浮かんだ考えを濁った感情の奥底へ沈め、湧き上がってきた歪な気泡から水木は目を逸らす。あの時期に満州に渡り今日まで生き残っている男がどのような人生を辿ったかなど、想像に難くない。
 南方と異なり国家間の問題から北方は未だ引き揚げや復員が滞っていると知識としては備えている水木であったが、同情の念は欠片も湧かなかった。克典の息子にしても、ただ地獄の最中に身を置いていたというだけで仲間意識を持たれたり同情などされたくはないだろうとも思った。
 泥と硝煙と血生臭さに塗れた記憶が手の形を取り水木の頸を締める幻覚を強い酒の力で打ち消す。酸に焼かれた食道と胃液しか入っていない臓腑が燃えるように熱くなるが、起きたまま悪夢を見るよりは救いがあると自嘲して酩酊感を払拭した。
 高いだけの不味い酒になった上に、克典はまだ肝心の相談内容を明かしていない。これは長くなるなと陰鬱な溜息を吐きたくなったが出来るわけもなく、早く解放されないだろうかと壁や腕の時計で時間を確認したがる視線を意識して制する。
「籍を入れずにいた所為で戦死広報を受け取る権利もない、生死も分からんまま、それでも何処かで生きてさえくれればいいと思っていた。けれどもなあ、家も勤め先も何もかもが決まって生活が落ち着いてから便り一つで済ませるのはあまりに薄情だろう。復員直後など幾らでも入用があっただろうに、私はそんなにも頼りない親だったのか」
 育てた恩云々ではなく只管相手の身を案じる態度を見た水木が出した結論は、克典が一方的に、且つ溺愛気味に息子を気に掛けているだけで息子の方は克典をそこまで好いていないのではないのかという冷たく乾いたものだった。万に一つの確率で件の息子が俗塵を忌避する清廉潔白な人物の可能性もあるが、兵隊として地獄に身を置きソビエトに二桁の年月抑留された男の精神の形がそうであるとは到底思えない。同じ感想を抱いたのは水木だけではないようで、カウンターの向こうで聞き耳を立てていたバーテンダーも暗がりの中でも分かるくらいに胡乱な目をしていた。
 しかし、店と客との意見が一致したからといって克典の哀惜を多分に含んだ愚痴が止まるわけではない。それどころか、生きるにしてももっと遣り様があると思わんかねと前のめりに同意まで求めてきた。
「これでまた坊主を続けるというのなら納得もしてやれるが、還俗までしたというのに欲の一つも出さんのだ。直接顔を合わせてはくれたが自分は龍賀ではないから金は正当な権利を持つ妻や娘にと頑なに受け取らん、せめて龍賀に入る前に築いた財産だけでもと食い下がってやっても、ならば龍賀の中での地位を盤石にする為に使えと躱しよる。親の心子知らずとは言うが限度があるだろう」
 仕送りの一切を拒絶された相談と称する愚痴を聞くのは退屈を通り越して苦痛で一刻も早く解放されたいが、克典の父性は独り身の水木から見ても明らかに暴走していた。だがそれを見越した上で水木に話を聞かせることにしたのだろうか、如何に自分が息子を想いその将来を案じているかの熱弁を振るおうとした克典を一時的にでも止める為に水木は郷愁の表情を作り上げ酒で湿らせていた唇を開く。
「御子息は、克典社長に似通っていらっしゃいますね」
「それは……なんとも、興味深い意見だな」
「一身独立して一家独立し、とでも申し上げましょうか。勤勉で機微に聡く、何よりも尋常ならざる意志と行動力を持つ方という印象を抱きました」
 血は繋がらず価値観こそ違えど生き方は社長を手本にしているように聞こえますと間接的に目の前の男も褒めながら続けると、克典は意表を突かれたように目を瞠り小さなグラスの中に視線を落とす。余程正反対の気質らしく、似ている、と第三者から評されたのは初めてなのだろう。
 意味を持った沈黙が幾ばくか続いた後、克典は自嘲するように低く喉を震わせ、あれは私の倅だからなあと願望を含めながら自身の膝を指で叩いて自慢気に笑った。子に覚える哀惜を払拭出来てはいないが、表出していた父性は落ち着きを取り戻し幾分か機嫌を取り戻した克典を見て水木が胸を撫で下ろした直後、それで相談なのだがと話題が継続される。
「言った通りあれは金にも物にも執着せんのだ、それでも私は、何かを与えてやりたい」
「そのような方に受け入れて貰える贈り物となりますと」
 他人を踏み躙ってまで力を手にしたい自分と正反対の人間についての相談などしてくれるなと唾棄したくなる衝動を堪え、手元に揃えた情報を整理しながら一先ず無難な回答を導き出した。
「克典社長のお人柄を尊敬しておられるようですから、法や権力を盾に有無を言わさず財産を押し付ける方法は哀しまれることでしょう。御子息をお誘いして写真館に赴いては如何ですか。着飾らず、普段着に近しい格好で。それに、昔の写真をアルバムに纏めて差し上げると喜ばれるかと」
「アルバムか……そうだな。良い案だ、私もあの子の写真を手元に置きたいしな」
 妻子もいる次期当主候補が養い子の写真を後生大事に持っているのは拙い気もするが、克典当人は大層乗り気なので水木は黙って棚の酒に視線を移した。光源が少ない中で読み取れるラベルの幾つかには1から始まる4桁の数字が並んでいる。
 嵩張りはするが纏めて燃やせば処分が終わる写真の他に、もう数点、克典の気分を害さず息子が受け取れる程度のものを挙げた方が無難だろうと消えものを羅列する為に新たな情報を求めた。
「失礼ですが、御子息のご職業は」
「興信所の調査員だ。一時でも僧になった男がだぞ?」
 自ら望んで出家したにしては極めて俗っぽい職種に就いたとの評価は克典にしても同じようで、だから相応の欲があるとばかり思っていたんだと呟く父親としての背中を見た水木は少しばかり同情する。そして同時に、矢張り克典は息子に好かれていないのだろうと確信を深めた。
「調査員となると特徴のあるものは普段遣いが些か困難になるかもしれません。あまり個性を出さない、靴磨き一式だとか、文具類、それに、お相手の生まれ年のお酒等の消えものや嗜好品は如何ですか」
「酒は私も考えたんだがなあ、贔屓の店に誘ったはいいが自分には分不相応だと疲れ切っておった」
「克典社長のではなく、御子息行きつけの店にならば快く聞き入れられるかもしれません。支払いは割り勘だと予めお伝えすれば」
「金なんぞ払わせられるか、私はあれの父親だぞ」
 遮られた文句を聞き流しながら水木は特大の溜息を誤魔化すための煙草を欲する代わりに奥歯を意識して噛む。
 高級料亭に連れ回され芸者に接待されながらのサシ飲みなんて幾ら奢りだろうと息子は望んじゃいないだろうよと出そうになった忠告を堰き止めるが、そろそろ猫を被ることすら煩わしくなり、いい年した男に対して過干渉だと自覚しろよという投げやり気味な言葉を眠気と疲労と酒を媒介にしながら茶番気味に言い換えた。
「克典社長。息子として接することと、子供として扱うことは異なります。御子息は自身の道を歩む独立した一人の男で、父親に甘やかされるのではなく、認められたいのでしょう」
「そんなもの、私はとっくに倅を男として認めているのにか」
「御子息は、常に対等で在りたいんですよ。でなければ、父親の背中を見て意地の張り方を覚えてしまったのかもしれませんが」
「……中々怖いもの知らずな物言いをしてくれるじゃないか」
 葉巻を吸うために胸元に手を伸ばそうとした克典は指先を軽く彷徨わせてから芳香の立ち昇るグラスに触れる。父としての沽券に固執するあまり意地を張らざるをえなくなっている自覚はあり、また、息子も同様だと思っているようで、共通点を指摘されたからか水木に向けられた言葉に棘はなく似た者親子かと呟かれた口元には僅かに笑みが浮かんでいた。
「しかし、そうだな。子の顔を立ててやるのも、親の甲斐性か」
 一応の納得は出来たようで、先程までの哀惜の影を潜めた克典に安堵に似た類の作り笑顔を投げかけておく。
 近況を手紙に認めて投函する程度には養い親への義理を通しているのだ、写真と酒くらいならば流石に折れて受け取るだろう。甘い見通しだが酒と眠気から来る疲労でこれ以上奮闘する気など失せている水木も無言で同意を示し、克典の機嫌が良くなるなら他はどうでもいいと投げ遣り気味に結論付けた。
「ありがとう、水木君。この借りは後日返そう」
「お褒めの言葉、大変光栄に思います。御子息のことで何かありましたらいつでもご相談ください、微力ながらお力添えさせていただく所存です」
 酒の席での口約束が果たされることなどなく期待するだけ無駄だが、今回の接待で唯一良い心象を与えられた人間となり克典の口から直接弱点とも取れるような人物の存在を知れたならば十分だと懐から財布を出す。
 そう、そしてバーテンダーから提示された金額が予想額を遥かに上回り表情筋が引き攣った記憶まで蘇ったところで、水木は顎を伝って落ちた汗の音と共に意識と思考を現在まで引き戻した。
 今の季節は晩夏、時刻は昼と夕刻の間。
 1年前とは異なり巷では今年は冷夏と呼ばれているがそれでも体感的な暑さは変わらず、隣の雑木林を住処にしているツクツクボウシの鳴き声が鼓膜を打ち、近所と呼ぶには幾分か遠い住宅街からは洗濯洗剤の匂いが風に乗ってやって来ている。
 普段の週末と代わり映えしないはずの休日の景色に紛れ込んだ異物は4つ、水木の手の中にある書面、卓袱台の上の分厚い袱紗と1枚の名刺、水木の目の前で正座と神妙な面を崩さないスーツ姿の若い男。
 名刺は、男が渡してきたものだった。という名前と、興信所の住所と電話番号が印刷された何ら変哲のない厚紙だ。しかし、袱紗と書類は違う。縦に直立させることすら容易になるまで膨れ上がった中身は信じ難い額を現金化した紙幣の束であり、書類は遺言状の写しだ。
「そちらが父、龍賀克典による遺言となります」
 ご遠慮なくお納めください。
 擦り切れて薄くなった畳表に三つ指をつきながら厳かに告げた男の言葉に返答をすることも出来ず、額入り障子のガラスに反射した己の表情を横目で見る。前触れなどなくある日突然変化した白い髪の下には青褪めた顔が見て取れて、怖々と視線を戻しても男と名刺、そして封筒の存在は都合よく消失などしなかった。
 頬を伝う汗は暑さの所為ではなく冷や汗である。自覚したところで、今の水木には何の救いにもならなかった。