祈りて揺らぐ
竜堂家の兄弟は怪我なんてものを基本的にしないのでその手付きは怪しいものだったが、なんとか形にはなっている。
包帯と薬とガーゼを片付けている始の背中を見て、そういえばと、今まで忘れていたことを口にした。
「始ちゃん。姉ちゃんは?」
「途中で別れて戻って来た、嫌な予感がしたんだ」
心配だったんだ。
続いた言葉に、その言葉を紡いだ表情に、最早には従兄弟としての竜堂始を探し当てる事が出来なくなっていた。
長年ひた隠してきた感情を曝け出して、慈愛を帯びながらも激しい熱を孕んだ瞳が向けられる。親族ではなく、一人の男としての竜堂始が、の目の前には存在していた。
「傷、痛むか?」
「痛まない言ったら嘘になるけど……それよりも、始ちゃんの豹変振りが面白おかしい」
「別に何か変わったわけじゃないんだがな」
そう言いながらに近寄り、まだ湿っていた髪を額から払う。
「ずっとお前だけを見てきた」
「らしーね。この間そんな目で見られたし、先生からも聞いたし、おれどうしようもない馬鹿で無神経だから気付かなかったけど」
「本当にムードも何もないんだな」
「どー転んでも甲斐性無しの始ちゃんにムード云々言われてもねー!」
包帯だらけの裸の上半身をベッドに投げて、隣に座る始の横顔を見上げた。
色気があって、男らしいというか、凛々しいというか、全身までひっくるめると包容力の塊のような男だな、と今更ながらそう評す。自分や余が隣に並んで出掛ければ年若い父親に間違われるのも頷けた。
「……」
「ん、なに?」
大きな掌。けれど、ピアノを弾くにはあまり向いていない指に撫でられると、何故か猫の気分になる。ふざけて猫の真似でもしてやろうかとも考えたが、真面目な話をしたいようなので止めておいた。
「電話で続が言っていた浮気をするというのは、本気か?」
「まさか、アレは続ちゃんの勘違い」
髪を撫でていた指に触れて自分の指を絡ませると、男の人の指だなと妙な感心をした。
「おれはね、浮気なんて面倒な事するつもり全くないの。続ちゃんを捨てて始ちゃんとお付き合いしよーとか本気で思った訳だし」
ぴたりと止まった始の指をこれ幸いと退けて、は悪魔の表情で笑う。
禍々しいものを宿した瞳は従兄の顔を見据えるが、表情に出た変化はこれといってない。言葉の内容や今の表情で普通なんらかのリアクションを取るだろうと言い掛けたが、彼は一般人に比べると色々と普通でない事をすぐに思い出したので別の言葉を探した。
「でも、色々考えたんだけどさ、始ちゃんと恋人同士になるのは無理って事で」
「期待だけさせておいて、随分な言い草だな」
「じゃあ力尽くで奪っちゃってみる?」
冗談を紡ぐような口調で言葉を放ち、体を起こして胡坐をかくと苦笑する始の顔がよく見えた。その目には言葉とは裏腹にまだ熱が宿っている。顔付きも、従兄弟ではなく男の表情のままだった。
さて、どうしようか。短い沈黙の中では次の言葉を探ったが、始が先に話題を振って来たので思考を中断させる。
「続とは何があったんだ?」
「くっだらねー痴話喧嘩、おれが始ちゃんばっかり意識してるから続ちゃんがこっち見てって怒ったの。自分よりも始ちゃんを愛しちゃったかも、って感じで不安だったみたい。まあね、不安は分からないでもないよ? 続ちゃんに敵う相手ってこの世もあの世も全部含めて始ちゃんだけじゃん?」
「それでその傷を?」
「や、ただ信じらんねえくらい余計な事言っちゃってくれたから、おれもね、腹立って挑発したんだよ。だから半分くらいは自業自得っつーか、まあ、同意の上じゃないのは続ちゃんの方で襲ったのおれだから寧ろ被害者か。それにさ、単に不安溜め込んでるだけだったら、続ちゃんはおれを何処かに監禁の上に調教してハッピーエンドだろ?」
「……全然幸せじゃないだろう」
「心底惚れてる相手が手元で飼い慣らしてくれるって最高の環境じゃん。オマケに、変態共に誘拐されて犯される恐怖から逃げられる、それって、幸せな人生よ?」
いっそ、そういう展開になった方が面白かったのに。は口を尖らせてそう言うと、始の手が肩にかかった。
何事かと目を合わせると、慈愛を吹き消し、餓えた獣のような光を帯びた瞳が自分を見ていて、呆気に取られている隙に重心を後ろへ持っていかれベッドの上に倒れ込む。
「なら、おれがそうしてやろうか」
痣だらけの体に覆い被さる始の表情に心臓を鷲掴みされて、血が沸騰する感覚を覚えた。
まだ続に絞められた跡が残る首筋に冷たい汗が流れる。血が滲む唇が震えるのは恐怖からではなく、獲物を見つけた捕食者の歓喜からだった。
「出来るの?」
「出来ないと思うか?」
疑問を疑問で返されて、は視線を少しずらして思案する。
始の誘惑は、の天秤を間違いなく動かした。本当に彼がそれを出来るのならば、続への感情も、始への紛い物の好意も全て捨てて委ねる程の魅力がある。
監禁どうこうは軽口で言った訳ではない。にとってはそれくらいの事はやってのける、所謂マトモとは言えない飛躍した愛情表現が欲しかった。
度重なる誘拐とその後の行為によって積み上がったストレスから、そうでもしなければ安心しない領域にまで足を突っ込んでいる、そんな自分に向き合える続以外の男が目の前に存在している。これは、天から降ってきたチャンスだった。
「……出来ると思うよ、今の始ちゃんなら」
視線を戻し、始を値踏みするような目で見上げれば鼻で笑われた。
普段は歳若い家長やら苦労性の長兄ばかりやっている従兄弟が誰かを嘲笑する表情が新鮮で、同時に彼がどのタイプの愛情を持っているかを理解した気がする。
続の場合は性格は多少捻じ曲がっていたが、愛情は真っすぐだった。始は、性格は真っすぐだが、愛情が捻じ曲がっている。そういう所は自分と似ているな、と少年は思った。
「でも、」
「なに、始ちゃん」
「はおれを恋人にしたくないんだろう?」
先程の言葉を持ち出して、自分が続にしたように、好意を持つ相手に精神的に圧力や負荷をかけてくる姿は非常に楽しそうで、矢張り自分に似ているとは考える。
ここで折れても後が面白くない、第一、まだ決定的なものがないという結論に達したは自分から恋人になるという同意の言葉を拒絶した。
「その為に監禁して、頭ン中ぐちゃぐちゃになるまで調教しちゃうのも大歓迎だけど?」
あくまで始が自分をどうにかしろという挑発的な台詞を吐いて、出方を見る。
その始の顔には相変わらず余裕のある笑みがあった。何だかサドっぽい、でも自分も同じような笑い方をしているのだろうな、と何処か他人事のような意見を脳が出してくる。
「は本当にそれでいいのか?」
「ふふっ、そーだねえ」
曖昧に、というよりは相手を弄ぶような笑い方をして目を細めた。
それをどう捉えたのか、始はベッドに肘を付くようにして少年との距離を縮めて、肌を覆う白いシャツの上に指を走らせる。
剥き出しの欲求に素直に従っている青年の、その首に腕を絡めながら少年は舌なめずりをして、秘め事を教える悪女のように耳元で囁いた。
「ね……最後に訊くけど」
「なんだ?」
「そうやっておれを抱いたら、残された終ちゃんと余ちゃんはどうすればいいの?」
その言葉を聞き終えた始の指は、まるで時間が止まったように固まる。
耳打ちをしていた体勢のままなので表情は分からなかったが、呼吸が先程よりも荒くなっていた。それが興奮からのものであるはずなく、どうしようもない葛藤が青年の全身を駆けていることぐらい容易く理解できる。
同じような事を、付き合う前の続に仕掛けた事があった。その時の彼は兄弟達への信頼という名の責任放棄からかの言葉を笑い飛ばしたものだが、矢張り年少組の保護者に当たる始ではここまでかと、少しだけ残念な表情をする。
結局、彼は男である前に家長であり長兄だった。決して他の誰かと代われない彼の立ち位置は、それを祖父に命じられ自分に課してしまった始は、自分さえ良ければいいという思考を持つのような人間だけを相手にするなんて事は出来ない。
ただその一言で動けなくなってしまった従兄弟の背中を二三度叩いて顔を向けさせると、そこには先程までの竜堂始は存在していなかった。
そして、始が見下ろしていた少年も、ただの鳥羽という従兄弟に変わっている。
何かを、諦めたような顔をして。
「だからさ、始ちゃんと恋人同士になるのは無理だって言ったじゃん」
「それでも、今訊くのか、それを」
「止まれるの今だから訊いたんじゃん。大体ね、その程度の度胸とか覚悟は最低限必要だって。始ちゃんは家長で長子して続ちゃんと終ちゃんと余ちゃんの兄ちゃんで物理的にも精神的にも大黒柱だから竜堂家的に最重要項目よ、これ。始ちゃんが立ち位置変えたら、ウチも竜堂家も簡単に家庭崩壊するし。おれは無責任で甘えたの末っ子長男だし別にどーでもいーけどさ、始ちゃんは違うんだろ?」
細い少年の肢体の上から青年の体が退き、広いベッドの上に大小2人が仲良く座り込む。
は肌蹴ていたシャツのボタンを留めながら笑った。危うい色香も纏っていなければ、肉の快楽もまだ知っていなさそうな少年の顔だった。
「つーかおれが始ちゃんを拒絶しなかった場合、続ちゃんとは普通の兄弟どころか穴兄弟にもなるワケだけど」
「、頼むからそういう表現は止めてくれないか?」
「や。何されてもおれ男だし孕まないし同意の上だからその辺は大丈夫なんだけどな? 法律的にはアウトだけど竜堂家はアウトロー集団だから問題ないし」
「そういう意味じゃない」
「わーってるよ」
はひらひらと手を振りながら始の携帯を勝手に開き、メールを打っている。
携帯が他人の手の中にある事に抵抗も頓着もない始はそれを取り上げるような事はせず、従兄弟の好きにさせた。言ったところで彼は誰のいう事も聞かないだろうし、第一見られて困る内容のものは特にない。
「あ、そーだ。おれさ、始ちゃんに礼言いたかったんだよ」
「礼?」
「うん。今回も、おれが初めて誘拐された時から、他にも色々さ、ずっと助けてくれたじゃん。そのお礼、一度も言ってなかった。あー……でも何だろ、ありがとうとか、そんな言葉じゃ陳腐で、軽過ぎて、どうしよ。いざ言おうとすると上手く言えない」
「言わなくていいさ。従兄弟なんだから、そのくらい当然だろう」
「えー? おれだったら助けず放置してから犯人馬鹿にするよ? 竜堂家の誰かが誘拐されたなんて聞いた日には犯人に自分の墓穴を深く掘って落ちて出られないまま餓死すればいいと思いながら笑っちゃうよ?」
携帯を返しながら笑顔でそう言うに、始も苦笑を返す。
「何にしてもさ、本当、礼だけはちゃんと言いたかったんだ。始ちゃん、助けてくれてありがとう、多分これからもなので宜しくお願いされてください」
「お前の為を思うと、あまり宜しくしたくはないがな」
「こればっかはおれにも分かんないしなあ。世の中にいる変態共の脳味噌を一個ずつ取り除いて殺菌しないと無理じゃね?」
ベッドから立ち上がろうとすると、始の手が腕を掴んだ。引き止めるような力強いものではなく、静止を促すような、そんな軽い力加減。
小首を傾げてみると、青年は少しだけ躊躇した後で、口を開いた。
「、キスしていいか?」
「……一回だけなら」
それで始の気持ちにケリが付けられるのならば、そんな気持ちでベッドに座り直す。
自分だったら、きっとこんな潔い生き方なんて出来ない。そんな羨望を込めて軽く目を瞑ると、今までされてきた誰とも違う唇がゆっくりと触れた。
体の中にあった妙な違和感が高まり、唇の感覚がなくなるのと同時にそれも離れていく。
目を開けると満足そうな、少し切なそうな表情をした始がいて、本当はこんな場面で笑うべきではないと理解しながらも、は耐え切れずに思わず笑い出してしまった。
「どうしたんだ?」
「悪い。おれが性質の悪い狂ったお姫様だとすると、始ちゃんって可哀想な王子様っぽい立ち位置とか思ったから」
「何を言っているのか今ひとつ理解出来ないんだが」
「新説、眠り姫がキスで目が覚めた理由は、あまりにもトキメキを感じなかったから。で、お分かりな感じ?」
「あまり分かりたくはなかったな……」
軽く落ち込んでしまった始を無視して晴れ晴れとした表情をしている少年は、大きく伸びをしてベッドから立ち上がる。
「始ちゃんが下手って意味じゃないんだって。たださ、今ので最後の大事なもの以外全部綺麗に収まったんだよ。続ちゃんへの感情は続ちゃんへ、始ちゃんへの感情も始ちゃんに、ってさ。やっぱしてみると違うモンだね体のカンケーって大事だね、おれ性欲魔人で絶倫な続ちゃんに散々文句垂れたけど今回ばかりは感謝してるわ」
ポケットに手を突っ込んで笑っているに、始はまさかという表情をした。こんな事でどうにかなるのかという考えが駆け巡ったが、それに関してはこの少年も同意見らしい。
出来の悪い御伽噺みたいだと今の自分の状態を表現すると、は困ったような表情で綺麗に笑って始に背を向ける。
「どこに行くんだ?」
「最後の大事な人と仲なお……今後何があっても一生おれといろと脅迫に」
「熱烈で過激なのは結構だが、そこは敢えて言い直すべき所じゃないだろう」
「あとCD買いに行ってくるわ。ガーシュウィンのぶっ壊れてたんだよな」
始の指摘を無視したは、目的地が決まっているのなら送って行こうかという始の申し出をしばらく考えてから断り、その代わりに自分の所為で放置されてい茉理のご機嫌取りを頼んだ。
「そーだ。2人きりだから言えるけどさ、おれ別に本気で姉ちゃんとくっつけとか言ってる訳じゃねーからな」
「そうなのか?」
「そーだよ。おれは誰に何と言われよーと自分の好きなよーに生きてんのに、おれ以外の誰かにあーしろこーしろ言うのって何か卑怯くさくね?」
少なくとも自分は気に入らない、と言い切ると、始の何か言いたそうな視線に気付き、ポケットに突っ込んでいた手を腰に当てる。
顔には相変わらずの笑顔。
「続ちゃんだけは特別で例外扱いだけどね。おれの自由をくれてやる代わりに、続ちゃんの自由を奪い取るし」
「……仲直りして帰って来いよ」
「そーする。じゃ、多分また明日な」
「明日なのか」
「知らね。続ちゃんの気分次第。戸締まりよろしくね、おれは年甲斐もなく全力の鬼ごっこしてくるから」
手櫛で髪型を整えると、天使の美貌を持つ少年が悪戯小僧のような表情で去っていった。
長い初恋にようやく終止符が打たれた始は、これからどうするかを気怠げに考えながら、取り合えず茉理に連絡を取ろうと携帯を開きメールの送信履歴を眺める。
「成程、確かに脅迫だ」
一番上には先程が弟に送ったらしいメールがあるのだが、とても過激で下品な言葉を使用している。
脅迫文紛いのそれを一度目を通した始は、いつも通りと言ってしまえばそれまでの少年の行動に苦笑しながら、全ての履歴を消去した。