曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りて揺らぐ

 空が夜色に染まって数時間後、人工的な明るさを帯びた街中で少年は大きな欠伸をする。
 地上へ向かおうとする人の波に流されるまま地下から出ると、頭の上で薄い雲に覆われた星が今にも死にそうな明るさで光っていた。
 は先程買ったばかりのCDの入った鞄を持ち直し、濃い朱色の薔薇で作られた大きな花束を肩に担ぐ。時間帯が時間帯で、包帯だらけの美少年に薔薇の花束の組み合わせとあって通行人の視線が全身に突き刺さるが、全ての物を無視して目的の場所へと歩き始めた。
 その無遠慮な視線と虫が共に青い光に焼かれる音を背にして、大通りを避けて路地を一本奥に入る。
 小さなバーの橙色の明かりを通り過ぎ、潰れかけている雑貨屋のある角を右へ。時折目に痛い色をした風俗の看板も目にするが、客引きなど相手にしない。
 辿り着いたのは空を塞ぐようにして立っている雑居ビルの間。階段を上り看板のかかった深緑色をしたアンティークドアを引くと、ドアベルが少年の来店を伝えた。
 適度に照明が落とされている店内にはビリヤード台が幾つか鎮座している。光沢のある黒いバーカウンターには、たった一人の女性客がサマータイムをBGMにうんざりした様子で手を振って挨拶をした。
「一人か」
「うん。あ、単独行動怒るならおれだけの責任ね、始ちゃん怒らないでね。誘ってくれたけど一人で探すって断ったから」
「何事もなかったのなら特別に目溢ししてやる。だから、今日の最後の最後まで厄日にしてくれるな」
「先生ヒドイ人だね。日付変更間際に1000年に1人の美少年捕まえて厄日だとか言う。ね、マスターもそう思うよね?」
「生憎マスターは私と同意見だ。原因は開店直後から店に引き篭っていて、しかも諸悪の根源はお前だ。救いがあるとすれば店はもうすぐ閉店する事くらいだ」
 双方からマスターと呼ばれた初老の男性は会話に参加せず綺麗に整えられた髭の下で上品な苦笑いを浮かべるに留り、バー・スプーンでステアされたカクテルを女医に差し出す。
 よく冷えたジン・トニックを僅かに舐める隣ではノンアルコールのカクテルを注文して、3種類のジュースが銀色のシェイカーで混ざられる様を眺めながら笑った。
「うん、教えてくれてアリガトです。おれもその諸悪の根源さんを昼の時間の約2分の1日くらい費やして探してたトコだし、一応名目上は責任感じて引き取りに来たんだけど」
「どうでもいいから早く引き取れ」
「珍し、先生疲れてる?」
「久々に息抜きに来たバーのバイトに友人の甥っ子がいて、しかも今日は客としている上にテネシー・ワルツばかり頼んでいて、その上それが日付変更ギリギリ前まで続いているともなれば、私やマスターだって溜息の十や二十は吐きたくなるさ」
「息は抜けてるね、抜け過ぎて幸せ逃げまくりだけど。ところで、アメリカ合衆国テネシー州の州歌がどうしたって?」
「その事を知ってるなら歌詞も知っているだろう」
 の視線はシェイカーから天井に、指を振って記憶の中から言葉を引き出すとなにやら納得したように女医に向けられて頷いて見る。
「あー、成程。でも、そのカクテル頼みたいの唯今絶賛失恋中の始ちゃんだろーぜ」
「つくづくお前って奴は」
「だって始ちゃんは始ちゃんだから最初から無理だったし。先生だって、その辺りは分かってんだろ? だからおれにも言わなかった、や、言えなかったかな」
「まあ、そうではあるんだが」
 砂糖漬けされた真っ赤なチェリーが飾られた、オレンジ色のカクテルグラスを受け取った少年は、女医の溜息を他人事のように笑った。
 レモンジュースの割合を減らしたカクテルは、酸味や苦味を得意としない子供舌のに対してのマスターの気遣いなのか、それとも別の意味を含んでいたのか。
「大丈夫だいじょーぶ、すぐ済むよ。多分ね」
「そう願っている。ところで、一つだけいいか?」
「なに?」
「何だ。その馬鹿みたいな本数の薔薇の花束は」
「今更? 遅くね?」
 少年の分の代金を当たり前のように払いながら言った女医は、から差し出された一輪の薔薇を無言で受け取って光にかざしてみた。
 棘が綺麗に取られた薔薇は多くの花束と同じでまだ咲ききっておらず、ふっくらとした蕾が少しだけ綻んでいる。
「衝動買い、ドイツ語で夢って意味の薔薇なんだって。寝惚けた茨のオヒメサマが、まだ夢の中にいようとしてるオウジサマぶん殴りに来た手土産としては上等だろ?」
「凶悪で行動派の王女もいたものだな」
「モーニングコールがオウジサマじゃなかったから、余計にね」
「……やったのか?」
「幸か不幸かキス止まり。ってか、そのキスで半覚醒しやがったけど」
 悪魔の表情で忌々しげに笑う少年は、空になったグラスをカウンターに置いて店の奥につま先を向けた。
 空いた手で携帯を操作すれば、視線の先の扉から恋人が自分の為に設定したメロディが店のBGMと奇妙に混ざる。電子音で構成されたクラシックは鳴り止む様子がない。
「そんなに続がいいのなら、キス・オブ・ファイアでも頼んでみるか?」
「ルイ・アームストロング? ジョージア・ギブス? それとも、もっと別の誰か?」
 何気なく放たれた言葉に、は理解していない振りをしてそう返した。
 ウォッカのボトルを手にしていたマスターは無言で棚に戻し、カクテルの名を元となった曲名でまた返された女医は呆れた顔で薔薇を再度光にかざす。溶け始めた氷がグラスに浮いて音を立てた。
「12時に魔法が解ける前にどうにかしておけ、アッシェンプッテル」
「灰かぶりだったり、いばら姫だったり、平凡な中学生のおれって実は大忙しだね」
「何処が平凡だ」
「外見以外は全部平凡さ」
 顔だけなら童話の王女さえ霞んでしまいそうな容姿を持った少年は大袈裟に竦めた肩に携帯を挟み、ドア一枚先にいる連絡先が取るのを待つ。
 横目で先程までいた場所を見れば女医と会話していたマスターがカウンターから離れ、固定電話に向かっていた。今の時間からでは終電を確実に逃すので、タクシーでも呼んだのだろう。
 丁度店に流れていたBGMが次の曲に変わった頃、鳴り続けていた電子音が停止して、は数時間振りに恋人の声を聞いた。
君?』
「もしもし。私、メリーさん」
『……ふざけているんですか』
 音を立てないようにしてドアをゆっくり開くと、ソフトダーツの青白い光が青年の背中を照らしている。
 流石に店の雰囲気もあり乱れに乱れた自棄酒をしている風でもなさそうだったが、暗い室内に光が差し込んでも気に留めない程度には酔っているようだった。
「『今、あなたの後ろにいるの』」
 恐怖のお膳立ても何もあったものではない怪談の模倣ではあったが、それでも突然現れたの姿に続は動揺している。
「どうしてここが」
「続ちゃんにしては月並み過ぎる台詞だよね。相当酔ってる?」
 話をはぐらかし、携帯をポケットに捻じ込んで後ろ手に閉めたドアに、上半身の体重を預けて退路を塞ぐ。
 酒の入った恋人の表情はすこぶる間抜けだと評してから口を開いた。
「おれから逃げたいのなら好きなだけ逃げればいいいさ。でも、メールに書いた通り、おれは続ちゃんを逃がす気もないし、どんな手を使っても逃がさない。それに、一応他にも色々あったからその辺りの報告をね」
「……そうやって、兄さんとぼくとの気持ちを曖昧にしながら付き纏う気なんですか?」
「違えよ、だからその辺りの話をしに来たんだって。耳聞こえてる?」
「そんな事、絶対に御免です。君、君が好きなのはぼくではなかったんですか」
「おれが人様の話を全無視する原因って続ちゃんだと思うんだ。日本語に訳すぞ、脳内回線で終了させるな、おれとの会話を成立させろ、聞きやがれこの酔っ払いが」
 の右手が薔薇を束ねていたリボンを握り潰し、透かし模様の入った白い包装紙と透明なフィルムに皺が寄る。
 口元を引き攣らせて、額には青筋。抱えている花束で目の前の美男子を力の限り殴ろうとしている気の短さは、かなり控えめに見ても恋人譲りだった。
 そんな行動は気に留める必要もないのか、続は少年に詰め寄る。顔色に酒量が出ないタイプらしいが、目が据わっていて、吐息が酒臭い。近くで見るとまごうことなく酔っ払いだとは断定した。
「あんな君を見たくなかった」
「だーかーらーさあ、その後色々あった言ってんだろうが! 人の話聞けや!」
君」
「っ!?」
 少年の白い咽喉にかかった続の指が言葉を遮り、五指にゆっくりと力が入っていく。
 本気で自分を絞め殺そうとしている事を一瞬で把握して、限界まで力を入れた右手を続の左頬に叩き込んだ。買われたばかりの花束が変形してゴミになりながら床に落ち、続の靴底がそれを踏みつける。
「つ、づっ!」
「ああ、君。綺麗ですよ、顔が真っ赤になって」
「あ。ッ……ア゛」
「可愛い。ベッドの上でも、よくこんな表情をしていますよね」
 悪意のない優しい声色がの耳に届き、咽喉を絞めていた指の力が抜かれた。
 ドアに全身の体重を預けながら座り込み、支える力を失って床に転がると、続の長身が馬乗りになって再び首に手をかける。見上げた先の表情は他人を慈しむもので、瞳だけが暗く淀んでいた。
 また徐々に絞まってくる指に空気を止められ、爪が絨毯を毟る。の窒息寸前の様子が気に入ったのか今度は殺意がない事を悟り、抵抗らしい抵抗はせずにいると、続は嬉しそうに目を細めて先程よりも長い時間そうした。
 3回、4回、と繰り返されていく内に赤かった顔から血の気が引き、唇が冷たくなる。目を閉じていないのに視界が暗くなり始めている。だというのに、は暢気に、厄介な酒癖だな程度にしか考えなかった。
君、気持ち良いですか?」
 5回目でひとまず満足したのか、続の舌がの口の端から流れた唾液を舐め取り、短い間隔で上下する薄い胸を撫でながら頬や額に軽いキスを降らせる。
 本気でそう尋ねてくる恋人に、少年は息を整えながら首をさすった。
「いや、全然。おれマゾじゃないから普通に苦しかった、つーか、続ちゃんって、酒入るとそーいった受け手の生命的に危ない性癖になんの?」
「いいえ? 別に興奮したりはしませんよ、ただ、君もぼくと一緒に苦しんで欲しかっただけなので」
「おし、会話成立。よく耐えたおれ。あと残念だけど一緒には苦しんでない、いや、かなり苦しかったけど意味が違う」
「そうですか。では、もう少し強く絞めてみましょうか」
「それで続ちゃんの気が済めば、満足するまでそーすればいいさ」
 呆れた顔をして抵抗の意志を見せない少年に、続は困惑の表情を浮かべる。
 が何を考えているのか理解出来ないのは今更だった。けれど、今はいつもとは状況が違う。自分は彼を苦しめているはずなのだ、とはっきりしない思考を巡らせた。
「なあ、続ちゃん。おれ言ったよな」
 が胸を大きく上下させながら、酒浸りの脳で思い出せと笑う。
「今のおれの態度が気に入らない。記憶を無くしてたおれも気に入らない。自分以外の男を見るな。マトモになるまで会いに来るな。自分以外愛せなくなるまで何処にも行かせない。自分を、竜堂続だけを見ろ。そーゆー類の欲望に忠実でイカれた言葉は寧ろ大歓迎、だってさ。おれがブチキレた理由、何だったか思い出してみろよ」
「……ぼくよりも、兄さんを愛しているんじゃないかと、君に言った事」
「そ。覚えてんじゃん。おれはね、そーゆー類の思考されるの嫌いなの。おれは顔以外取り柄のない馬鹿で口開けば冗談ばっか言う馬鹿で馬鹿だけど、馬鹿だから誰相手だろうと自分の気持ちに嘘は吐かないし思い切り態度に出る」
君、君は」
「いいから黙って聞いとけよ。あのね、おれは続ちゃんが好きなの。でもね、始ちゃんが好きだって決め付ける続ちゃんは嫌い。それでね、首絞めて感覚と感情の共有を強要しちゃうくらいおれの事が好きな続は大好き、どうにでもして欲しいくらいに愛してる。全部、素直に受け取ってよ」
 始の時と同じように、続の首に腕を絡めながら耳元に唇を寄せて、誰にも表情が見えないのをいい事に人間を陥れる悪魔の表情をした。
「とかシリアスぶって言っても続ちゃん捻くれてるから難しいよな。そこで提案。そんなになるまで疑うよりもさ、続ちゃんの事以外考えられなくなるくらい、おれの身も心も、自分好みになるまで閉じ込めて調教しろよ。続ちゃんなら簡単だろ?」
「……君」
「なんだよ」
「君、元に戻っていませんか?」
「ええ、戻っておりますわよ。記憶も感情も、元あった所に、ほとんど全部ね」
 細い癖にびくともしない首にぶら下がるようにしてふざけた調子で返せば、目の前で続の表情がみるみる変化していく。
 正気に戻った次の言葉の言い出しを脳内で予想しておくと、本当にその通りの言葉で続はにつっかかってきた。アルコールが思考を蝕むのは本当らしい、と少年は酒という物質の一端を垣間見る。
「なんで大事な事を先に言わないんですか!?」
「あらいやだわ。続ちゃんが問答無用でシメて来たんじゃんよ」
「それは」
「やだねえ、酔っ払いは。続ちゃんの場合は性癖に拍車かかり過ぎだって。おれ成人しても酒飲まねーよーにするわ。終ちゃんは無理っぽいけど余ちゃんには注意しとこ。酒入った余ちゃんが続ちゃんみたくサディストになったら号泣するわ、主に始ちゃんが」
 続の首にぶら下がったままベラベラと喋り出したを放置するとどこまでも話し続けそうだったので、続は頭を一つ叩いて静かにさせた。
 その勢いで腕を離してしまい床に背中を打ち付けて文句を言い始めたは、凶器にされ踏みつけられゴミみたいになった花束を拾い、広い胸元に押し付けてから絨毯の上に転がったまま猫のように大きく背伸びをする。
「で。目と酔いは醒めた?」
「……ええ、おかげ様で」
「そりゃよかった。御伽噺の寝惚けたお姫様はキスすれば自然にハッピーエンドだけど、王子様の覚醒方法って割とハイスペックな能力要求されるんだよ。不公平じゃね?」
「おや、そうですか?」
 乱れていたの髪を手櫛で整えていた続が、強引にその顎を上に向けさせ唇を塞いだ。
 本当に久々の不意打ちに少年が目を白黒させ、あまりに長時間舌を入れられるので何度か爪先で脛を蹴ると、ようやくアルコール臭のする息から開放される。
「なにこれ、まっず……チョコみたいな味がするのにクソ苦い。甘いシロップみたいな何かで誤魔化してるっぽい」
「味覚はいいのに、相変わらずお子様舌ですね。そういう君はシンデレラですか?」
「ストーカー気質の白皙の王子様に捕まって安っぽい城みたいなそっち系のホテルに連行されませんよーにって願掛け込めて」
「それは残念でしたね」
「何が残念だ。2人共立て、表にタクシー待ってるぞ」
 ノックもなしにドアが開くと、続の表情が不機嫌なものへ一転し、身と下半身の危険を感じ取っていたは流石先生と救いの女神を称賛した。
「何故貴女がいるんですか」
「お前がいたからだ大馬鹿者。電話越しにマスターに泣きつかれた私の身にもなれ。1時間後に竜堂家に帰っていなかったら始と冴子に連絡を取るから覚悟しろ。おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみ、気を付けて帰ってね。先生」
 機嫌が悪くなり容赦のなくなっている彼女に長兄と叔母という最強の鬼札を出されては、大人しく真っすぐ家路につくという選択肢しかなかった。
「……たまには、それもいいでしょう」
「続ちゃん何か言った?」
「いいえ?」
 もう一度に口付けをすると、今度は仕方ないとでも言いたげな様子で大人しく受け入れられる。そこでようやく、の中に散っていた最後の一欠片がきちんと嵌り、歯車が噛み合った脳が正常に動き出す。
 長過ぎないキスの後で互いの姿を上から下まで眺めると、正気に戻って初めて見た光景があまりにも酷い互いの満身創痍っぷりで、まったく自分達らしいではないかと少年が発作を起こしたように笑い出す。とても歩けそうにない姿だったので、続は花束を片手にを半ば担ぐようにして店の外に出た。
 相変わらずムードも何もない中で、迷惑をかけてしまったらしいマスターには深い深いお辞儀をして。
「何にしてもアレだよな。怪我もおれの頭も治ったし、一応仲直りしたんだから、これからもヨロシクお願いしますでいい?」
「そうですね。こちらこそ、よろしくお願いします」
「こんなのはもう二度と御免だけどな」
「そうですか。ぼくは好きですよ、こういうプレイなら」
「あっはっは。死ね、変態色情魔。死ね」
「2回言いましたね」
「腐れ死んで、もう一度死んで、更に地獄で3度死ね」
「もういいです。口を閉じてなさい」
 を後部座席に放り込み、行き先を告げるとタクシーはゆっくりと発進した。
 窓の外を流れていく深夜の街を眺めようとすれば、天使のような寝顔をした少年が続の肩に凭れ掛かってくる。子供のようだと呆れたが、よく考えてみれば、彼はこれで末弟と同い年なのだから、子供で当然で、そろそろ眠くなっても仕方ないのかもしれない。
 数ヶ月振りに感じる恋人の体温を抱き寄せ、出来るだけ長い間、自分の傍で彼がふざけて笑っていられるようにと、続は折れた薔薇の花束片手にそう願った。