祈りて揺らぐ
どうせまた、あの時のようにありもしない雑誌を探しているのだろうと、肩を竦めながら階段を上ると自室のドアが開け放たれたままだという事にすぐに気が付く。
やけに部屋の中が静かな事に不安を覚え、慌てて駆け出し部屋の中を覗いた。
「君!?」
目に入ってきたのは、ベッドの上で小動物のように丸まって眠る恋人の姿。ほんの10分程度の放置していただけで、少年は眠ってしまったらしい。
「……驚かせないでください」
シーツを手繰り寄せて眠っているは、軽く唸っただけで起きようとはしなかった。起きているのならば、勝手に驚いてその言い草は何だとでも返ってきただろう。
静かにドアを閉めて足音と気配を消して近寄ると、安心しきった顔で眠っている少年の美しい顔がよく見える。それは少年自身にとって自慢の顔であったが、恋人である続にとってはそうでもなかった。
この顔の所為では今まで何度も酷い目に遭ってきたのである。が続を顔だけで好きになった訳ではないように、続もの顔が好きで付き合う事にした訳ではない。
せめて、平凡な顔立ちか、自分達と同じようににも何かしら常人離れした能力があれば。口にこそ出した事はないが、傷付いて帰って来た小さな体を何度抱き締めながら、強く思ったことか。
「う……」
眠りが浅かったのか、続の視線を感じ取ったがうっすらと目を開けた。
涙に濡れた焦点の合っていない目が続を見上げ、自分を害する存在ではないと認識したのかすぐに閉じられる。眠りやすい体勢を探しているのか、ベッドの上で伸びをするように寝返りを打っていた。
波打ったシーツの上に少年の髪が乾いた音を立てて広がる。寝乱れたシャツの間からは、不健康そうな白い肌が覗いた。
自分の中に存在する何かに限界を感じ、続はの名前を呼びながら肢体に覆い被さる。
元々性行為が嫌いなとは違い、続は都合が付けば常にこの幼い体を抱いていた。それが色々あって、もう一ヶ月以上抱いていない。しかも、このおあずけは不透明で、まだ先が見えない。
「君」
ベッドが軽く軋んで、その耳障りな音に少年が再び目を開いた。僅かに期待が含まれた視線は見上げた正面にあった恋人の顔を捉えた途端に不愉快そうな表情になる。そして、それをすぐに取り繕った。
その一連の動作を見下ろした続も、不快そうに眉を顰める。
自分の姿を見て不愉快な顔をするのは、受け入れたくはないが慣れてきていた。
けれど、その前の期待は一体何なのだろうか、何故恋人である自分を見て落胆するのか。
暇さえあれば自分にじゃれてくるのは変わっていない。気分が向けば自分に好きだと冗談交じりに言ってくるのも変わっていない。
しかし結局のところ、全ての根底にあるのは始に意識が行くのを誤魔化しているだけではないのか。
自分は続が好きなんだと、あからさまに表現されているそれは、逆に続を苛立たせ始めている。努めて意識しないように強靭な意志で捻じ伏せる、そこまでの心と思考を占めている兄に、そして何よりこの恋人自身に腹が立った。
その感情が、唇を伝って溢れた。
「そんなに兄さんの方がいいんですか?」
「……ああ?」
耐えきれなくなった続の口から出たのは、失言だった。
はその一言で眠気を覚まし、凶悪な目付きで続を睨み付ける。
その目付きには続も見覚えがあった。昔、に手を出した人間が、こんな視線を向けられていた事がある。
「なあ、続。今の言葉、どういうつもりだ」
あの時は、自分がこの目で見つめられる日が来るなんて思わなかった。
突きつけられた言葉に動けずに居ると、盛大な舌打ちがされる。汚いものを見るような視線が刺さり、瞳は絶対零度の地獄に通じていた。
続を睨み上げながら、少年は吐き捨てる。
「今のおれの態度が気に入らない。記憶を無くしてたおれも気に入らない。自分以外の男を見るな。マトモになるまで会いに来るな。自分以外愛せなくなるまで何処にも行かせない。自分を、竜堂続だけを見ろ。そーゆー類の欲望に忠実でイカれた言葉は寧ろ大歓迎だったんだけどさ。何で、よりにもよって、ソレなんだよ」
「君」
「さわるな」
触れようとした手を視線で制して、乱れたシーツの上で半身を起こしたはそのまま体を捻ってベッドから離れる。素足で感じるフローリングの感触すら気持ち悪い。
続の言葉に、ただでさえ制御が難しい始への感情が暴走しそうで唇を噛んだ。宥め騙し抑え付けていた続への不快感が感情の亀裂から滲み出てくる。
記憶の無かった自分ならば取り繕えた、日本人特有の分厚いオブラートに包む事も今よりは出来た。しかし元々、は謙虚という言葉の類の行為を進んで行う人間ではない。
それでなくてももいつ爆発するか分からない感情の爆弾を抱え込んでいたのだ。ただでさえ短かった導火線に火を点けられてしまった以上、あとは爆発するしかない。
「……分かった」
唇を噛んでいた白い歯が離れ、声を出せるようになると、少年は急に楽しそうな表情をして、どこか狂気じみた色を含んだ目を続に向けた。
「そんなにおれが始ちゃんの事が好きだと思ってるなら、期待に応えてそーしてやるよ」
買い替えたばかりの真新しい携帯を取り出して、慣れた手付きでボタンを押していく姿に続の片眉が上がる。しばらくの間それを耳に当て、やがて面倒くさそうな表情で携帯を折り畳んだ。
「つまらない脅しですね」
「続ちゃんって大概失礼だよなー。おれってヤる時はきっちりヤっちゃう子よ?」
余裕がないのか僅かに汗をかいている青年を見下ろして口端を歪めると、手の中の携帯が唐突に震え、機械的なメロディーを奏で始める。ディスプレイに映った名前を確認して、続にそれを見せた。
始ちゃんと映された文字に続は腰を浮かすが、はそこから距離を取るように後退して通話を始める。そこまで来て初めて、続はこの少年の言った事が脅しではなく本気だという事を理解した。
「や、始ちゃん」
『、どうかしたのか?』
「どーかしたから電話した、気付いてくれてアリガト。感謝してる」
『お前の電話だけはその場で取らないと、たまに洒落にならない事態になっている場合があるからな。それで、何かあったのか?』
「うん、あのな。始ちゃんおれと……!」
目の前にいたはずの続が一瞬で背後に回りこみ、左手での口を塞ぐ。同時に右手は携帯を取り上げ、耳に当てると確かに兄である男の声が聞こえてきた。
「すみません、兄さん」
『続か。何か面倒な事にでもなっているのか?』
「いいえ、ちょっとした痴話喧嘩ですよ。君が兄さんと浮気をすると冗談を言って巻き込んでしまったんです」
左手に力を入れると少年はくぐもった声で抗議する。息苦しさよりも痛みに対して上げられたそれを無視して、兄弟の会話は続けられた。
従姉妹とのデートを邪魔して申し訳なかったと、そう締めて携帯の電源を切ると、腕の中の少年が手負いの猛獣のような目で続を睨んでいた事に気付く。
左手を退けると、少年は大袈裟に呼吸を繰り返した。
「どういうつもりですか?」
「どーゆーつもりなのかはついさっき言ったハズだけど聞こえなかったみたいだからもう一度言っとくわ。続ちゃんとは別れて始ちゃんと幸せになろうとします。ウチも竜堂家も揃って家庭崩壊しそうですが皆それぞれガンバッテください、以上」
「ぼくが本気で君を手放すとでも思っているんですか?」
「手放したくない人間に対してあんな事ゆーかあ?」
「……」
何処にも通じていない携帯を床に投げ捨て、をベッドに押し倒すと冷えた目が続を見据える。暴れるかと思ったが、そのつもりはないらしい。
シャツをたくし上げ、ボタンを外しながら白過ぎる肌にキスをすると、止めろと静止の声がかかった。それでも止めないでいると、今度は盛大な舌打ちがされる。
顔を上げれば、全てを諦めて死んだような目をしているがいて、視線が合えば続を蔑む様な笑みを浮かべた。
「続ちゃんのそーゆー度を越しちゃった所ってスゲー気持ち悪いよ?」
「君、訂正してください」
「何様のつもりでおれに命令してんの? 大体、続ちゃんだって本当は腹立って仕方なかったんだろ。始ちゃんばっか意識しちゃってるおれに。だからおれに始ちゃんの方が好きなのか、なんて最低にフザケタ事を言っちゃったんだろ」
「君は、それが分かっているのに」
「そうだよ、長い付き合いだからそれくらい分かる。だから、おれが一番欲しくない言葉をくれたご褒美に、続ちゃんの言葉を肯定してあげよう。今のおれはね、続ちゃんより、始を愛してる」
良かったね予想通りで。そう言って笑ったの咽喉を、続は反射的に締めていた。
自分自身の行動に驚いて慌てて手を引くと、が首を押さえながら思い切り咳き込む。胸は大きく上下して、部屋の中には激しく呼吸する音だけが四方八方に広がった。
一瞬の衝動で、窒息させるより酷い事をしそうになった。骨を折るつもりだった手は震えていて、全身から血の気が引く。
そんな真っ青な続の顔を見上げ、は咳き込みながら狂ったように笑い始めた。呼吸が追いつかない所為で、咽喉から出た変な音が混ざる。
「何だ、結局一緒なんだな、あいつらと。おれが自分の思い通りにならなくなった途端に手え上げて、暴力で言うこと聞かせようとするんだ」
腹を抱え、目尻には涙を溜めて、発作が起きたように笑い続けながら、は何も知らない子供の表情で囁いた。
「なあに、そんなにおれの穴に興味あるんだ? いいよ、使ってみる?」
「、君」
「何、その信じられないようなモノ見る目。おれはね、こんなでも一応は純情で真面目な子供だから、好きな人とセックスする時は、それなりに恥ずかしいし、でも気持ち良くなりたいし、相手にも気持ち良くなって欲しいし、その辺の感覚普通なの。でもアンタは違う、今のアンタはただの欲塗れの薄汚い雄だ。おれを誘拐して、縛り上げて、殴って蹴って、好き勝手犯してきた下衆と一緒の目してる」
人形のような笑顔を浮かべた少年は美しかったが、それ以上の歪んだ薄気味悪さが続の動きを縛る。
従兄弟の性格がこの方向にも砕けているのは百も承知のはずだった。攻撃対象と定めた相手は徹底的に、それこそ欠片も容赦せずに叩く事も知っていた。
ただ、それを実際に目の当たりにした事はない。今の、今までは。
「アンタの愛はあの時のおれには重過ぎた。だから触られると気持ち悪かった。隣にいるだけで反吐が出そうだった。毎日顔を会わせてる時は最悪だった。でも今のおれは、それでも続ちゃんの事が好きだ、愛してるんだ。勿論始ちゃんの事も好きなんだろうけど、続ちゃんが好きで好きで、吐き気がする程大好きだから」
白く細い指が鉤爪となって、続のシャツに皺を作った。
冷や汗が背中を流れ落ち、調教された若い未熟な肢体が逃がさないとばかりに絡み付いてくる。止めるようにと言葉を放とうとした唇は触れるだけのキスで塞がれ、底のない穴のような暗さを持つ少年の瞳が哀れな青年の姿を嗤った。
体勢を変え、続のベルトに手を掛けると、薔薇色をした唇が呪詛と祝福を混ぜ込んだような形を作る。
「だから、他の奴等と同じように愛されてあげる。どんな風にして、おれみたいな異常に綺麗なだけのガキが変態相手に生きてきたのか教えてあげる」
穢れを知らない天使のような貌を持つ少年は、誰もが見惚れるような笑みと虚ろな目をして、桃色の舌を続の下半身に這わせてそう言った。