曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りて揺らぐ

 眼下には豆粒よりも小さな通行人や車の姿。
 とあるビルの屋上で、2人の従兄に挟まれた位置にいた少年は夕闇の中で首を傾げた。
「どうかしましたか、君」
「ビルへの侵入って結構あっけなく出来るものなんだな。と、思っていただけです」
君には出来ませんから、やろうとしないでくださいね」
「ええ、流石に命は惜しいので」
 3人がここに来るまでに、この建物の内部にある階段やエレベーターというものは一切使用されていない。
 ただ単に、年長者2人が持つ、その驚異的なジャンプ力やクライミングで建物の屋上から屋上へと伝って、何の障害も受けず目的の場所へ到着したのだった。
「2人共、そろそろ行くぞ」
 始の声が屋上にある唯一の入り口の方からする。
 その声色も緊張感の欠片もなく、とても今から大企業が所有するビルの内部に何の力も持たない少年を連れて行こうとしている人間が放ったとは思えない。
 続とが行儀良く返事をしてそちらに行くと、頑丈な鍵で施錠してあった屋上のドアが開かれていた。
 激しい音を立ててビル風に揺られるドアには、捻じ曲がったドアノブと修復不可能な壊され方をした鍵がぶら下がっている。それを見て少年は僅かに眉を動かしたが、何のコメントも出さず建物の内部に足を踏み入れた。
「内部の構造知っているんですか?」
「ええ、先程の方々が快く教えてくださったので」
「そうですか」
 続が一体どうやって内部の情報を手に入れたのか理解出来たは、監視カメラを探しながら従兄の後を付いて行く。
「ありませんね」
「何がだ?」
「こういった場所って仰々しく監視カメラとかがあると思ったんですけれど」
「この階は直通のエレベーターを使わないと来れないんですよ。ですから念の為に扉の前にSPが何人か控えているだけで、カメラはありません。というよりも、所有者がその手ものを嫌っているそうなんです」
 監視カメラに映って逃げられたら元も子もないから此方としては有難いと言った続に、それもそうだと始とが納得する。
「ああ、ここですね」
 続の呟きが上から降ったかと思うと、その姿は既に前方にあり、その傍らでは2人のSPが呻き声を上げて転がっている。
 は、そんな甘い処置などせずに首の骨を折ればいいのに、とは口に出さず、念の為と始に背後を守られながら続に近付いて行った。
 そこには、電子ロックがかかった一枚の扉がある。
「どなたがいらっしゃるんですか?」
君の記憶を奪った張本人ですよ」
 そう言いながら、続は軽く足を振り上げる。
 堅牢そうに見える頑丈な扉がベニヤ板みたいに部屋の中へ吹き飛び、重い音を立てて絨毯の上を跳ねていった。その転がった先には、1台のベッド。
「こんにちは……いえ、もうこんばんはの時間帯ですか」
 部屋の中央と陣取っているそこには、左手に包帯を巻いた女。
 周囲には高価そうな服を着せられた顔立ちの整った半裸の少年や、青年。
 お楽しみの最中らしいが、部屋の主の目以外はどれも淀んでいて、人並み以上の見た目も相俟って彼らは生きた人形のようにも見える。運が悪ければ自分もこうなっていたのかと思うとは胸糞悪くなった。
 そうやって自分の感情を持ち合わせている記憶と共に魔女の大鍋の中の如く煮詰めていると、先程まで存在していなかった過去の記憶が徐々に戻ってくる。
 だからショック療法は嫌だと言っているだろう、彼は自分の脳にそう文句を付けたが元から出来の悪いそれは受け入れられなかった。思い切り舌打ちでもしてやろうかと思った矢先に、大きな手が肩を抱く。
……?」
 従弟の様子がおかしい事に気付いた始が声を抑えて名前を呼ぶが、返って来たのはそれに対しての言葉ではなく、喜びと怒りを孕んだ呼び声だった。
「続ちゃん。代わって」
君、今、ぼくの事をなんて呼び」
「何週間か振りに続ちゃんって呼んでやっただろうが。これで満足だろ? つーか、邪魔なんだって。いいからそこ退きやがれ。その雌豚、挽き肉になるまで殴らせろ」
 真っ青な顔をしている女から目を離さないようにして、同じくらい顔を青くしたが唸るように言葉を吐き出す。
 続に劣らぬ美貌を誇る顔は怒りという感情に彩られ、瞳には獲物を見つけた肉食獣のような嬉々とした光が灯っていた。以前は鍵盤を叩いていた彼の指先が、目の前の人間を殴る為に握り込まれている。
 完全に元のに戻っているその言動に、何がきっかけだったのかが掴めない2人の従兄は何と声をかければいいのか躊躇った。
「暇ならこいつの父親肉片にしてこいよ。がっつり薬漬けにした被害者侍らしてる腐れアマの様子じゃ海外なんてメディアに書かせただけの嘘だろ、だってこいつにパパ呼ばわりされて矯正もさせない野郎だぜ? 何だったらこの場にいるか賭けてみる? おれ聖徳太子賭けるわ、額面は百円で。始ちゃんと続ちゃんは諭吉1枚ずつな。って事で探索行ってらっしゃい、アレはおれのだから手出しはNG」
 未だに次の言葉が見付からない年長者達に対して、視線を外さないまま少年は言う。
 同時に、彼女の脇に控えるように立っていた青年がに突進した。手には果物ナイフが握られ、それを視認した始と続が動こうとする。
 それを察したの細過い腕が2人を制し、ステップを踏むように体を半歩分横へ移動させた。ナイフを持った青年は目的の少年を素通りして、足を止め体を反転させて斜め後ろにいるであろうを振り返る。
 しかし、彼の目が確認したのは、爛々と輝いた目と、跳ね上げられた足に続く靴底。
 顎を蹴り上げられて意識を失った体はその勢いに乗ったまま、始と続の間に仰向けに倒れた。その様子を鼻で笑いながら、少年はベッドの上の女性に向かってその容姿に不釣合いな台詞を吐き出す。
「幾ら腕折れてるからってラリったジャンキー如きがおれを殺れるはずねえだろ。ああ、寄生虫に犯され塗れた腐れ脳じゃそんな考えも及ばないか、テメエは食って寝て性交して排泄するしか知らねえ糞蛆に劣る塵屑の雌豚だもんなあ」
、今更その口調を直せとは言わないから、せめてもう少し青少年として正しい、健全な言葉を使ってくれ」
「もしくは、ベッドの上でぼくに矯正させてくださいね」
「……どっちも却下。特に続ちゃんの方は大却下」
 いつもの調子を取り戻してきた従兄達の言葉に、の怒りに震えていたはずの肩が急に落とされた。
 先程まで危なっかしく輝いていた目も、僅かながら落ち着きを取り戻している。
「ああ、もう、出鼻挫かれた気分。兎に角さあ、おれは、この腐れアマと、2人きりでイイ事したいんだけど?」
「素直に認めたい所ですけれど、言い方が気に入りません」
「おれは鳥羽家の長男で正確には竜堂家に属していないから恨みは十倍なんて怖い事は言いません、ただ人道的に優しく屠殺したいだけなんです。こんな感じどーよ?」
「お前の方がおれ達よりずっと性質が悪いという事はよく分かった」
 呆れたように呟いた始の隣で、続の手が翻される。
 先程を襲った青年が握っていたナイフが壁に突き刺さり、この場から逃げようとしていたのか、入り口とは反対に向かおうとしている女を足止めした。
「うん、そっちに非常口がある訳ね」
「ついでにそこも塞いでしまいましょうか」
「そだね。うっかり続ちゃんが適当にSP伸しちゃった所為で定時連絡ないって怪しまれそうだし。やるなら徹底的にやれよ、首って名前の付く部位全部折るとか」
「今の君ならそうしていましたが、以前の君にそれはショッキング過ぎますよ」
「えーなにそれ。意味分かんなーい」
 は未だに入り口で転がっている2人の男を一瞥し、腰を抜かしている女の傍まで歩いていって傍らに膝をつく。その様子を目で追う事もなく、ずっと立ち続けている少年達を一度だけ見上げた。
 1人の人間の力では到底動かせそうにないベッドを、続が軽々と持ち上げて移動させる様子を見て、ご苦労様とでも言うように手首から先を振った。
「じゃ、さっき言った通り父親の方、肉塊にしてこいよ。中身が発酵出来ずに腐っても外が綺麗な方はおれの獲物」
「お前は相変わらず勝手な事を言うのが好きだな」
「始ちゃん的には時間の有効活用とか、健全な少年に対するグロテスク表現の教育的配慮とか、そういった気遣いっぽいアレはない訳?」
「時間の有効活用は一理ありますが、先ほどの発言を顧みると君を健全な少年と表現したらぼくの良心が痛みます」
「誰に対してのよ?」
「日本中の男子中学生に対してに決まっているでしょう」
「うわあ……健全な性行為のセの字も知らなかった当時小学生のおれに色々イタズラしてくれた過去軸の続ちゃんに今の台詞聞かせて未成年者保護法についての感想文を原稿用紙に書いて貰いたいわあ」
「……続」
「兄さん、君の言葉ですよ。真に受けないでください」
「ああそうか。それもそうだな」
「何でよ! 今の件に関してはおれ一言も間違った事言ってないよね!? 始ちゃん何で納得しちゃってんの!? あ、おい、逃げるなって!」
 逃げようとした女の体を片腕で器用に押さえ込み、マウントポジションを取ると困ったものだと肩を竦める。
 治りかけとはいえ、左腕が折れた状態でよく出来たものだと自分自身に感心して、上から注がれる視線にバイバイと手を振った。
「大丈夫大丈夫、いざとなったらコレあるし」
 そう言っては腰の辺りから拳銃を取り出し、青褪める女の額にぴたりと当てる。
 それが一体どういうものなのかすぐに悟った始と続は、呆れたような目で少年を見下ろした。これ以上、口論のような漫才をしていても埒が明かないと表情が語っている。
「だからさ、この獲物はおれにちょーだい。散々好き勝手ヤッてくれた事の礼に地獄に落とすくらいしないと気が済まない」
「……全く君にも困ったものですね」
「ああ、そうだな」
「やった、おれの粘り勝ち! じゃ、2人とも後でねー」
 結局折れた従兄達の背を見送り、完全に見えなくなったところで女に向き直る。その顔には、先程のような悪戯っぽい年相応の子供の笑みではなく、肉食獣の笑みが浮かんでいた。
「どーも、久し振り。左腕ブチ折ってくれてありがと、おかげで二度とまともにピアノ弾けなくなったわ、おれの趣味どうしてくれんの? アンタの左手とお揃いってのが余計腹立つけど、それやったの続ちゃんっぽいから不問にしてやるよ。で、こっちも忙しくてな、色々あって遊びに来られなかったけど、特に下半身が思ったより元気そーでよかったわ」
「い、いや……助けて!」
「流石にビックリだって。続ちゃんの物理警告無視してもう一度手え出そうとするなんてアンタどんな馬鹿だよ、それって勇気じゃなくて無謀って世間一般では言われてるはずなんだけど? あ、脳味噌ブサイクだったな、そーいえば」
 ホント金持ちの思考回路は理解出来ないなあ、と肩を竦めながら言い捨てて、助けて欲しいと喚く顔に向かって右腕を振り下ろした。
 紛い物のグリップにヒビが入り、血が付着する。
「いや……お願い、止めて……」
「あ、やっぱ殴られると鼻血って出るもんだよな。なっつかしいなあ、おれもさ、昔変態に抵抗しまくって殴られてたんだよ。なんにも悪くないのにクソ野郎相手にゴメンナサイ許してクダサイとか言ってさ。笑える。本当、こんな状況じゃ自分の命守るために他の全部捨てて懇願するしかねーよなあ。その気持ち、よーく分かる」
 抵抗が弱まったのを確認すると、血のついた防犯スプレーを腰のベルトに挟み込み、開いた右手で床に転がっていた細いペンのような筒を拾った。
 それがペンタイプの注射器だと分かると、陽気で可愛らしい曲を鼻歌でうたいながら片手でキャップを外し始める。使用方法についての知識はなかったが、舞い戻ってきてしまった記憶から筋肉注射だろうと勝手にあたりをつけた。
 それ程長くない針の先が光を反射させると、鼻血塗れの女の顔が蒼白に変わる。
「お、中々唆ってくれる反応じゃん。中身の薬品が何か全然わかんねえけど、おれに注射したヤツと同じようなブツだろ。よかったな、これでアンタもお人形の仲間入り」
「や、いや……お願い、何でもするから、それはやめて」
「何でも?」
 顔面が血と涙でぐちゃぐちゃになっている女の言葉に、の行動が止まった。
「何でもする、だから……!」
「そうかいそうかい。何でもしてくれるなら美しいまでの無抵抗主義発揮してもらって、この注射素直に受けよっか?」
 神に愛された天使のような顔を持つ少年は可愛らしく首を傾げて、地獄以外の選択肢は一切認めないと言い切る。
 咽喉を引き攣らせ更に何か言おうとした女をもう数度殴り、笑顔を天使から地獄の門番のそれへと変えて血のついた右手を服で拭った。
「おれはさあ、あの2人みたいに懐深くも甘くもねえんだよ。潰せる奴は女だろうがガキだろうが老人だろうが潰す、時間があったらそれなりの礼をしたかったんだけど。世の中そう上手くはいかねえよな」
「お、お願い、許じて!」
「だーめ」
 また先程のような天使の笑みを浮かべ直し顎を殴りあげてから、左腕の肩近くに針を付き立て薬品を注入していく。
「はい。しゅーりょー、よく我慢できまちたねえ、偉いでちゅねえ」
 少しだけ軽くなった注射器を指先で回して遠心力に従わせたまま放り投げる。相変わらず死んだ魚の眼をした身動きしない少年の1人に当たるが、ぼんやりとした表情のまま反応を一切見せない。
 はその顔に見覚えがあった。この女に拉致された時、彼女の傍に控えていた少年だ。
「二度目まして。でも多分、お前等との三度目はねーわ」
 濁った目をした少年に背を向けて、変形したドアを跨ぎ、廊下の不必要に明るい照明の下で溜息を吐く。角を曲がってきた2人の美男子に右手を上げて応えた。
 その手の甲に付着した血液を見て、2人が何を勘違いしたのか駆け寄ってくる。
「慌ててやがんの、ただの返り血だってのに」
「じゃあその服の血はなんだ」
「あー。この手拭ったから」
君、手を拭うときは服を使わないようにとあれ程言ったでしょう」
「だってタオルもハンカチも持ってねーし。いーじゃん、別に怪我なかったんだから。それより獲物いた? 雰囲気からするといたっぽいよな、よし、おれの1人勝ちな! あー、腹減った。久し振りにジャンクフード食いたい気分だから奢って! 2人の金で!」
 半分程は少年らしく、もう半分は彼の従兄の上から3番目がこの場で言いそうな台詞を胸を張りながら言った。よく考えてみればそろそろ夕飯の時刻だという事に気付き、確かにそれは一理あると始も続も頷く。
「終ちゃんと余ちゃんの食事まだだろ、だからそっち行ってもいいよな? この服じゃどの道、直で家には帰れねーし。あと、飯は重い系のピザが食いたい。ペパロニとカナディアンベーコンとミートボールが大量投下されてるヤツとね、ビスマルクと、クワトロフォルマッジと、あとモチとチーズ入った和風のやつとバーベキューソース系。で、その後重大発表がありますのでチャンネルはそのままで、みたいなノリで生きていきたい」
 記憶を取り戻した途端、饒舌になったに2人は顔を見合わせて苦笑した。
 一族の中で誰も持っていない不真面目さを唯一所持している、外見だけは非の打ち所のない美少年。矢張り記憶をなくした大人しい彼よりも、生まれたときから付き合いのあるこちらの少年がいい。
 続は過去の、始は先程までのを意識して手を差し出すが、当人は不快そうに鼻を一つ鳴らすと、少し荒れている舌を突き出し親指で咽喉を掻き切る仕種をして見せる。
「いい度胸ですね、君だけ正面玄関から帰りますか?」
「すみませんゴメンナサイ調子乗り過ぎました無力なおれを運んでください心から反省してますからお願いシマス」
「言葉に謝罪の気持ちが見当たらないな」
「そうですね、もうちょっと感謝の印を示して欲しい所です」
「駄目出しされた! ええ、マジおれだけ警備員倒しながら正々堂々正面玄関から突破ルートに突入しちゃったの!?」
 いつも通り、やけにオーバーリアクションをしながら叫ぶを続が抱え、少し黙っていろとでも言うように始がその頭を軽く叩いた。
 舌を噛んだのか、すぐに黙ったは涙で潤んだ瞳を始に向けたが、2人が移動し始めたのでそれっきり黙って猛スピードで去っていく景色を目で追う。
 されるがまま夜の闇に触れ、風に身を晒しながら夜景を見物していたが、残業の結晶と呟かれた単語を拾い上げた続が思わず笑う。それは種類こそ違えど、彼が記憶を失った日に感じたものと、そう大差ないように思えた。