祈りて揺らぐ
「続も来ていたのか。丁度いい、話がある」
「何が丁度いいんですか」
「そう睨むな。が怯える」
近寄らなくても彼の不機嫌が見て取れた女医はその視線を受け流して、隣を歩いていた少年を白衣の背後に隠すように身動ぎする。
の姿を確認して名前を出すと、刺々しかった空気が少しだけ和らいだ。
「君が外出したと聞いた瞬間、心臓が止まるかと思いましたよ」
「私が送迎したのにか。第一、お前の内臓はどれもそんなに軟弱じゃあないだろう」
余計な一言だったのか、再び空気が肌を刺し始める。その隣で、始が弟に落ち着くように諭していたが、効果はあまりない。
そんな3人の様子を確認したは、何時も続に接する時の表情を貼り付けると女医の背後から進み出て、続の目の前まで歩いて行った。
「続さん、心配かけてごめんなさい。おれから先生にお願いしたんです」
「外出したいと?」
「はい。先生の許可が下りれば、両親も納得してくれると思ったので」
単純な事実のみを述べたに、続は少年の両肩に手を置いて長い溜息を吐く。
余程心配していたのか、その肩には重さはあったが力が加わっていない。
「お願いですから、せめて記憶が戻るまでは無茶をしないでください」
「別に無茶をしているつもりは。あと数日で、ギプスも外れますし」
「そういう事を言っているんじゃありません」
「じゃあ、どういう事ですか?」
誘拐と強姦された事実を未だ思い出していないに続の言葉が詰まった。
始は困った顔をして少年を見下ろし、それから女医の方に助け舟を出して欲しいと視線を送る。同時に、彼女が両手を打ち鳴らした。
「こっちの話に戻してもいいな」
「……ええ」
「先生?」
「、おいで。そこの2人も来い」
贔屓を感じさせるどころか、いっそ清々しいほど声色を使い分けた女医と素直に従うに、始は苦笑して、続は不満そうな表情をする。
白衣を翻した細い背中を追って、少年が駆け出す寸前、彼等の背後でガラスが砕ける音がして、4人が一斉にその方向へ振り向いた。
砕かれていたのは病院出入り口の、ガラス張りの扉。
冷たい床に散らばったガラス片、そしてそれに塗れたスリッパを踏み付けて、無言かつ土足で上がり込んで来たのは特徴のない黒っぽいスーツを着た男達だった。
突然現れた目の前の不法侵入者達が一体何なのか一瞬で悟った女医は、その場にいた誰よりも早く反応し、を守るように抱き締める。
「何だってこの手の輩は土足で踏み込むのが好きなんでしょうかね、兄さん」
「ドアを開けずに壊して入ってくる連中だ。しないんじゃなくて出来ないんだろう」
「軽口を叩いている余裕があるならどうにかしろ!」
悠然と構えている兄弟に、女医が背後から大声で怒鳴った。
その上から目線の内容が続の気に障り、女医の方を向いて口を開いたが、彼女の腕の中で真っ青な顔をして震えているが目に入り、嫌味を発することなく閉じられてしまう。
右手の細い指が腕に食い込んで血を滲ませ、口からは呻き声が漏れていた。震えている患者を抱き締めて視覚と聴覚を塞いでいる女医は、鋭い目付きで続を睨み付ける。
「……言われなくてもそうしますよ」
竜堂家にも鳥羽家にも属さない部外者に指図された事と、の様子に気付けなかった苛立ちをぶつけるように、襲い掛かってきた男の腕を掴んむと、そのまま握り潰した。
始に膝を砕かれた男の声と合わさって、院内には野太く汚い絶叫が響き渡る。
しかし、その声に混ざって、息を呑むような短い声が2人の耳に確かに届いた。先程まで辛うじてでも立っていたが床に座り込んでしまい、女医が懸命に彼の名を呼んでいた。
血を滲ませていた左腕は爪によって掻き毟られ、赤く腫れ上がっている。唇は呻き声ではなく聞き取れないくらい掠れた声を紡いでいた。
「続」
「分かっています」
荒事に怯えているの姿を確認すると、2人はスーツ姿の男達を声を上げさせる間もなく床に這わせて行く方法に攻撃手段を切り替えた。
普段反撃する時にはそんな事など一切気にせず、やりたいようにやっていたが、今回ばかりは、やられる方にとっては全く有難くない気遣いを見せる。
いつもよりも少しだけ時間がかかったが、それでも数秒のうちに片を付けた2人は、伸びた不法侵入者達を床に放置しての傍らで膝を突いた。
「……いやだ、怖い。助けて……誰か、誰でもいい、もう嫌だ、助けて」
「君」
終わった事すら認識出来ず、まだ震えている肩に続が手を伸ばすと、少年の手がそれを勢いよく払い除け、白衣に包まれた腕を振り払う。
「君!」
「いやだ! 怖い、助けて! お願いだから……助けて」
そう言いながら、が抱き付いたのは、始だった。
一体どういう事だと困惑する兄弟に、尻餅をついていた女医がこれ以上2人に何か喋られるのはまずいと判断を下した。早口で患者の経過を報告し始める。
「さっき言いかけた話だ。の中の、続に向けられていた諸々の感情が、今は始に向いているらしい」
「どういう事です」
「記憶が揃わない所為で食い違いが起こり、感情が方向を見失っているのかもしれない。大方、自分を助けた始を今まで恋人だった続に、脳が置き換えたんだろうと思うんだが」
「そんな事が」
「私はそちらの専門家じゃないから、そこまでは分からない。だが、そうなっているのは本人の意思ではない。そこだけは、理解してくれ」
血の気の失せた顔で震えながら始に縋っているを見て、2人はそれぞれの感情を殺して首を縦に振った。
それを確認すると、女医はそれ以上何も言わずに立ち上がり、腕を自傷してしまった幼い患者の治療の為に診察室へと姿を消す。
残された3人の間には沈黙が下りたが、すぐに続が目線で床を指しながら片付けてくると言って立ち上がった。その袖を、白くほっそりとした手が引っ張ろうと宙を漂う。
「君?」
「……ごめんなさい」
「いえ、いいんです」
まだ顔色の優れないの頬をいつもの癖で撫でようとした手が、直前で止まる。結局その手の平は、少年に触れる事なく握りこまれた。
「兄さん。君の事、しばらくお願いします」
「……ああ」
続は始と視線を合わせないままそれだけ言うと、スーツ姿のまま伸びている男達の襟首を掴み、ガラスの破片が散らばった床の上を引き摺って運び出す。入れ違いに、必要最低限の道具を持って女医が帰ってきた。
落ち着きを取り戻していたは傷だらけの左腕を差し出して、疲れたような素振りで視線を明後日の方向へ投げる。
女医はその表情を見て何かを言いかけたが、ガーゼを消毒液に浸して治療を優先させた。
「これから、殴り込みか?」
「そのつもりです」
真新しい傷にしみるのか、眉を僅かに寄せた少年の肩を始が抱く。
それが終わる頃に、病院の床を占領していた男達を片付け終わった続が戻って来て、また女医が口を開いた。
「続の警告では効果がなかったか。このケースは初めてだな」
「ええ、父親は海外で隠居の身、本人も一生ピアノが弾けないように左手を砕いて差し上げたんですけれど。どうやら、それだけでは足りなかったみたいです」
今度は逆恨みする気にもならないように徹底的に叩いて来ますと言った続に、女医は傷だらけの腕に包帯を巻きながら尋ねる。
「はどうする。ここは危険だ」
「一度、家に寄ります。終君と余君の2人と一緒なら安全ですから」
既に連絡を付けたのか、携帯を見せた続に、つくづく出来た弟だと始が漏らした。
はというと、治療が終えた腕を見つめていた顔を上げてから、何を考えているのか読み取れない表情と落ち着いた声で、従兄達の会話に爆弾を投げ込んだ。
「おれも、連れて行ってください」
彼の放った日本語を理解する為の沈黙が4人の間に下りた。
次の瞬間、発言者の従兄達が声を荒げて当然のように反対する。
「何を言い出すんだ!」
「遊びに行く訳ではないんですよ!?」
自分達と違い普通の人間である従弟の口から出た言葉に、竜堂家の年長組は目の色を変えて却下した。一体何を考えているんだと責められるが、当人は気圧された風でもなく表情すらも一切変えない。
対して、女医だけは落ち着いた様子でに何故行きたいのかを尋ね、それだけには応対する気になったのか、少年の目がどこか遠くを見る。
「嫌なんです」
「今の奴等が?」
「いえ、嫌というか。なんだろう、なんで、こんな事思ったんだろう。怖いのに、逆なのかな、怖いからなのか、潰したいって。死にかけさせて這い蹲らせてそれでも、真っ平になるまで潰したいって、思って」
口調は兎も角、らしい思考といえば非常にらしい発言をした少年に、女医は呆れたように肩を竦め、呆然としている兄弟に視線を投げてどうするかと問う。
平坦な口調とは裏腹に、の目は本気だった。
「幾ら君の頼みでも承知しかねます。兄さんもぼくも君を出来るだけ危険に晒したくないんです。分かってください」
「分かりました」
続の説得に、少年はゆっくりと頭を上下に動かした。
しかしその瞳からは、光が消えていない。それどころか、先程よりも強くなっている。
「終さんと余さんと一緒に、勝手についていきますから、先に行ってください」
「全然分かってないじゃありませんか」
寧ろ、先程よりもかなり悪化した条件を突き出してきた。しかも、言葉通り実行されそうなので手に負えない。
続は困った顔をして兄を見た。助けを求められた始も、弟以上に困った顔をしている。
以前のであれば対応は楽だった。終と同じように拳骨を一つ食らわせてから待っていろと命令すれば、文句を垂れながらも大人しく待っていた。今のは、どちらかというと無茶を言う余を相手している心境と似ていた。
しかも、彼は余よりも気は強いが力が弱く、扱いが難しい。
「連れて行けばいいじゃないか」
「先生!?」
「本気で言っているんですか!」
「でないと、脅し文句が現実になるぞ。が頼み込めば、蚊帳の外だったあの2人は喜んで殴り込みに加わるだろうな」
兄弟4人それぞれの性格を把握しているのか、兄2人に対して弟2人が起こすであろう行動を告げると、反論出来ないのか家長である長兄が頭を抱えている。
「それに、相手が相手なのだろう。ここも冴子の家も危険だ、ああいった手合いに対してはお前達以上の安全地帯もない」
女医はを見つめながら言うが、彼は先程からずっと強い光を宿した目で従兄を見つめているだけで表情には一切の変化がない。
その姿に盛大な溜息を吐いた彼女は、とどめとばかりに言った。
「だから、お前達がを守ってやれ」
「……分かりました」
「まさか、貴女にそこまで言われるとは思っていませんでした」
「事実を述べたまでだ。煽てた訳ではない、」
少年の同行が決定すると、女医は彼を呼んで立ち上がらせる。
表情と態度で加勢を感謝しているの頭を撫でながら、何があっても2人からは絶対に離れない事を約束させ、その手を取って待合室から連れ出そうとした。
「どこに行くんですか」
「服に血が滲んでいるから取り替えるだけだ。すぐに終わるから待っていろ」
言われた通り、細い左腕のシャツには先程傷付けた血が滲んでいる。
相当近付いて見なければ分からないが、を幼い頃から知っている女医はそんな些細な事でも気になるのだろう。
竜堂家の2人を待合室で待たせたまま、女医はを診察室に通し、何処からか取り出したシャツを渡した。腰を僅かに屈めて少年のボタンを外しながら、ある一言を放つと、少年の顔に笑顔が浮かぶ。
「はい、当たってます。流石先生、どうして分かったんですか?」
「今のは竜堂兄弟について何も知らないはずだ。なのにお前は、非常識とも言える一連の会話の中で動揺を一切見せなかった」
悪戯小僧のように笑ったは、血の滲んだシャツを床に捨て、真新しいシャツを女医の手を借りて着込んでいった。
「そうじゃなかったら、別の提案していたところだ」
「どんな?」
「始はと一緒にいろ、続だけで殴り込みに行け」
「ああ、それ。おれも思いました、黙っていてくれてありがとうございます。先生、人を煽てるの結構上手いですよね、普段そんな口調だから余計に」
「神経質になっているお前に余計な口を出すと、後で何をされるか分かったものじゃない」
「嫌だな、先生は昔からの恩人ですよ。そんな事をされても、精々ご近所さんにおれが先生の愛人だって言い触らすくらいの可愛い悪戯に留めますから、安心してください」
「冤罪で社会的に抹殺する気か。ほら、ボタン留めたぞ」
「ありがとです、何から何まで」
とても綺麗な笑みを浮かべて礼を言う少年に対して、女医は興味なさそうに気のない返事をしただけだった。
そして、溜息混じりに護身用だと言って黒光りする銃器も手渡す。日本では違法なはずのそれをよく見ると、防犯用催涙スプレーとプリントしてあった。
「念の為だ」
「用意いいなあ」
「お前が忘れていったんだ。そのシャツもな」
「あれ、そうだっけ。その辺全然覚えてない」
銃器を模した樹脂製の玩具を背中に隠し持ち、女医が眼鏡を外して眉間を揉み解しながら会話を続けた。
「まだ全ての記憶が戻った訳ではないようだな」
「でもショック療法って嫌ですよね。面倒臭いし、欲しい記憶だけ思い出すっていうのも不可能ですし。とこで、先生はテレパシストの類ですか?」
「口調に無理がない。今も演じずにほとんど地の性格で話しているんだろう」
言外に正解だと言ったに、女医はつまらないクイズを出された大人の表情で返した。
侮れない、呟かれた言葉を拾った彼女はその言葉も無視して眼鏡をかけ直してから首と肩の関節を鳴らす。
「どうして何も言わない。あいつらに」
「タイミング逃しただけだから、後で上手いこと言っておきますよ。さっきは、脳内が非常に困った事になってたから黙ってたんです」
「具体的には?」
「記憶は大方戻ってるのに、始ちゃんへ向かってる感情が続ちゃんに戻ってこない」
「……それは一大事だ」
「ですよねえ、もしかしたら単なる兄弟喧嘩で関東全域が焦土になりますよ。まあ、平野部の面積は増えるだろうから数世紀後の人間にはお得な喧嘩かな? 東京壊滅時点で日本の経済ガッタガタになりそうだけどね。しかも原因は個人間の色恋沙汰で全員身内とか冗談としては最悪だし、笑うに笑えない」
従兄達が竜になる事も思い出したは、それにしても、と自分の嫌な想像を払って玩具を見つけた子供の笑みを浮かべた。
「始ちゃんがあんな目するなんてね。おれの事、性的に好きだなんて知らなかった」
「性的と言うな。それに、あいつはずっとお前だけを見てきたぞ、それこそ、お前がまだ小学校に上がる前からな。お前達は茉理を好きだと勘違いしているみたいだが」
「……嘘?」
「言ってどうする。本当の事だ。始はずっとそれを隠してきた、恐らくこれからも、死ぬまで隠し通すだろうな」
「そっか、そうだったんだ。今まで、全然気付かなかった」
「だから、手に負えない事態になったら大人を頼れ。冴子か私の所に逃げろ」
それでも小悪魔の笑顔でいる少年は、待合室にいるであろう年上の従兄達の方を見ながら不気味に口端を吊り上げる。
少し乾いた唇は、女医に向かって問いかけをしていた。
「そんな事おれに教えるなんて。先生、一体誰の味方なんですか?」
「今のお前が自分の感情と立場を利用して、不用意に混乱を引き起こさないよう釘を差しただけだ。敵や味方なんてもので私を分別してくれるな」
「今のおれなら、それを全部承知で彼等を傷付けるかもしれないのに?」
女医の手が止まり、少年を睨んだ。
後ろ手で診察室のドアを開けながら、は笑っている。
「ごめんなさい、冗談です」
「私はこの手の冗談は好かない」
「うん、知ってる……あと、ありがとう、先生。他人なのに、あの人達相手に逃げて来いって言ってくれて」
そう言ったの背中はすぐに扉が隠してしまい、見えなくなった。
誰もいない診察室で、女医は箒と塵取りを持って待合室へと足を運ぶ。そこには、既に患者の少年も、その少年の従兄達も姿を眩ませていた。
散らばったガラスの破片を黙々と掃除しながら、大穴が開いた扉を眺める。
「あまり無茶をするなよ」
自分しかいない待合室で、その病院の主は友人の息子に対してそう言った。