曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りて揺らぐ

 さて、どうしたものか。と女医は目の前で困惑した表情で座っている鳥羽家の末息子と、待合室で待機している竜堂家の長男を脳内で比較してみる。
 午前と午後の診療時間の丁度間に来た彼等は、正確にはは、今まで見たことないような表情をして患者用の椅子の上で俯いていた。
「先生、どうしよう。おれ、始さんの事、好き、なのかもしれない」
 この歳で未婚の自分に恋愛相談なんて専門外だと分かってくれ、と少年の言葉を一刀両断出来ればどんなによかっただろう。
 ただの患者や、友人ならば彼女はそうやって切り捨てられる。現に、切り捨ててきた。
 しかし、今回の相談相手は違う。この少年は彼女にとって幼い頃からずっと診てきた特別な患者で、しかも今回に限って言えば記憶喪失という厄介なものを引っ提げていた。
 いや、ただの記憶喪失ならばまだいい。
 彼には、記憶を失う前までは現時点で好きな男の弟と付き合っていたという、核弾頭並みにとんでもないおまけが存在するのだ。
「続さんにやられて、迷惑だって思った事、始さんにやられても、嫌じゃなかった」
「続に何かされたのか?」
「昨日、帰り際にキスされた」
「それは……始にもされたのか?」
「始さんには、その、して欲しいって、思った。されてはない」
 俯いて辛そうな表情をしている少年に、どんな言葉を掛けるべきか女医は脳をフル回転させてその答えを導こうとする。今、ここで、何とか形だけでも処理しておかないと、後々どうしようもなく厄介になる問題だからだ。
 彼を中心に、男兄弟で堪らなく面倒な三角関係が完成しようとしている。
 大黒柱が巻き込まれている故、下手をしたら竜堂家が家庭崩壊しかねない。
「でも、本当に好きなのか、恋とか、なのかは。よく分からない……キスして欲しいとは、確かに思ったんだけど」
「よく分からない?」
「なんて言うか、違和感は、少しある。あの人は、自分のものじゃないような感覚。感情が食い違ってる、って言えばいいのかな、方向が違って重なってる、っていうか」
 自分の中にある意識を言葉にしようと、は顔を伏せたまま口元を手で覆った。
「多分だけど、以前の続さんへの感情が、始さんに、向かってるんだと思う」
「まずいな」
「あ、やっぱりヤバいんだ」
「相当」
「ですよね」
 更に問題なのは、始がの事を今でも好いているという事実も問題だった。
 以前は自らが続を選び、彼でなければ自分は駄目だと周囲に言ったのだ。誰かが入る隙間もない程、それこそ本当にいっそ迷惑と言っていいほど、2人は愛し合っていた。
「……先生?」
「いや、上手く収める方法を探しているんだが」
 彼女が始の内部に潜み鍵を掛けられている想いに気付けたのは、医者としてを見ていたからに他ならない。
 あれはまだが幼稚園に通っていた頃の話だ。初めて誘拐され、身も心も酷く傷付いた状態でこの病院に担ぎ込まれた時、目の前に座るこの少年は、待合室にいるあの青年に抱かれてやって来た。
 後になって聞けた話だが、誘拐犯を見付け出しを救出したのが当時中学生の始だったらしい。ベッドに寝かせようにもは自分を助けた始から離される事が相当怖かったらしく、両親の腕すら拒絶して、結局一晩、保護者として祖母に付き添われながら始が腕の中で小さな体を守り、啜り泣きながら震えて眠る幼い従弟の名前を繰り返し呼んでいた。
 翌日になるともそれなりに落ち着いて、祖父の司や、母の冴子にベッタリになって、その様子を始は黙って眺めていた。その静かな目が、とても印象深く今も残っている。
 年齢も、性別も、血縁関係すらも飛び越えて、始とが結ばれるものだと彼女は思っていた。しかし何時しか、少年の隣には弟の続が寄り添うようになり、あとは、語るまでもないだろう。
 確かにの性格、そして内面に存在するものを考えれば、始よりも続の方が同調出来て支えやすくはあるのだろう。
 既に竜堂家を背負っている始にはのそれが重いかもしれない、けれど、彼は続のように自分の感情を振り翳したり、少年を振り回したりはしない。
 2人が付き合う事を宣言したその日、彼女は始に最初で最後の質問をした。
 ずっと見守ってきたのに、本当にこれでいいのか、と。
 返ってきたのは、焦れたような、諦めたような、とても複雑な笑みだけだった。
 下の3人の弟達は、始の事を奥手だ無精だとからかいながら茉理とくっつけようと画策しているが、実際はそれとは正反対だという事には気付いていない。
 彼は自分の感情を抑制する術を知っていて、従姉弟達と最適と思える距離を保ったまま、今日まで過ごしてきたのだ。
 だから、始が本当に好きなのは誰なのか、その正答を知っているのは本人と、そしてこの女医だけで、他は誰も知らない。冴子辺りは勘付いているかもしれないが、彼女は自由恋愛主義者であり、その辺りは信頼を根底にした放任をしている。
「ねえ、先生。始さん、本当はおれの事をどう思っているのかな」
「どう、って?」
「始さん、母さんと同じくらいおれの事を考えて、気を遣ってくれているんだ。大人とか、社会人だからとか、そういうのじゃなくて。もっと深くて、別の部分で」
 今まで、顔を合わせなかったから、あんまり理解していなかったけれど。
 そう言って、唐突に核心を突いてきたに、思わず言葉が詰まる。
「でも、今のおれの感情は、始さんにとって……続さんにとってもだけど、失礼なんだ」
「失礼かどうかの正誤は別として、あいつ等に知られて殴り合いにでもなろうものなら、人類史上最大の兄弟喧嘩になるぞ」
 竜堂兄弟の血液検査の結果を何度も弄った事のある女医は比喩でもなくそう言うが、は人類で括るには些か大袈裟ではないかと返した。
 大袈裟などではない。続はあの通りで、始も未だの事を好いているのだ。
 常人離れした兄弟、しかも普段は言い争いすらしない長男と次男という組み合わせが正面から対立したら、幼い弟達は確実に止められない。どちらかが手を出そうものなら、辺り一体は瓦礫の山と化してしまう。
 実際には、確実にそれ以上の被害が及ぶのだが、竜堂家の四兄弟が竜に変身するという事までは知らない女医は自分の想像の中での光景に絶望した。
 ともすれば、は殺されるかもしれないという所まで行き着いたのだ。
 始の我慢強さは相当なものだが、逆に続はその手の事が大変不得意で、自重しようともしていない。不快に感じたその瞬間から口に出し、怒りっぽく手も早い。良くも悪くも素直なのだ、彼は自分の感情と兄の命令に従って行動している。
 このまま何も知らせずに騙し、ある日突然の気持ちを知られたら、そう考えると、背中に冷や汗が伝う。
「正直に伝えよう」
「……え」
「包み隠さない方がいい。続への感情が始に行ってしまっているかもしれないと説明した方が、隠すよりずっといい。言わないと後々混乱が起きる」
「続さんが、暴走したり?」
「短い期間であいつの性格を把握したようだな」
「出来れば否定して欲しかった」
 だからあの人は嫌なんだ。不満を漏らす少年の頭を撫でてやると、深い溜息を吐かれた。
 待合室にいる始を呼びに行こうと椅子から立ち上がると、1人残されるのは嫌なのか、も無言で後を追う。担ぎ込まれた時に比べれば随分らしくなった少年を見て、女医は笑うのに失敗したような表情を浮かべる。
 一刻も早く彼の記憶が戻って欲しいと願う反面、彼の過去を事を考えると、このまま記憶が止まったほうが幸せなのかもしれないと、そんな考えを、彼女は自分の胸中に沈めた。