祈りて揺らぐ
先週と変わらない暇な土曜日。
両親は各々の予定で出払い、たまには気分転換をした方がいいと姉を外出させたは、午前中をひたすら睡眠で潰し、いい加減やる事がなくなった午後2時。丁度仕事の中休みを取っている自分の主治医に外出の許可を貰うために電話をかけた。
黙って勝手に出歩けば書き置きを残したとしてもあの家族は半狂乱になるだろうから、主治医で、母の友人で、今のところ自分の事を一番理解してくれている存在である彼女ならば大丈夫だろうという自己判断である。
意外にも、彼女は迷惑がることも渋る様子も全くなく、両親に連絡を取りすんなりと外出の許可をに与えた。ただし、1人は絶対に認められない、自分が共に行って午後の診察までに戻れる範囲でとの条件付きで。
それでもいいと告げると、今度は何処に行きたいのかと尋ねられ、思わず考え込んでしまう。そこまで考えていなかったのだ。
外には出たいが、何処かに行きたいという訳ではない。強いて言えば、街並みがどんな風に変わっているか見てみたいと返事をすると、竜堂家へ行く事を提案された。
その時、はもの凄く嫌そうな顔をした。しかし、彼女も患者が特定の従兄弟達を倦厭しているのは理解しており、次いで、こんな提案をした。
「始に会いに行ったらどうだ、今なら1人で家にいるはずだ。あれは信頼出来る男だから家まで送り届ければ私も必要なくなる、帰りは送って貰うよう取り付けておこう」
ああ、それなら悪くない不思議とそう思ったが、口には出さなかった。
それよりも、何故彼女が従兄弟達のスケジュールを把握しているのかが気になった。聞くと、どうやら釘を刺しても相変わらずの3人の様子を見て、勝手をしていないか定期的に長男に報告させているらしい。
たった10歳しか違わないのに立派な保護者をしている始に申し訳なく思い、また自分の為にそこまでしなくてもとも思ったが、実際問題それも効果薄なので正直微妙だった。苦労したからといって、報われるとは限らないのだ。
兎にも角にも、今、竜堂家にいるのが始だけならば行くべきなのだろうとは決めた。彼は気を遣って会いに来ないだけで、矢張り顔を見て安心したいらしいので。
どこまでも過保護な従兄弟達だと思う。故には、偶に考えてしまうのだが、記憶を取り戻してもそれが今の自分と正確に噛み合わず受け入れられないのは、家族や彼らの行動も原因ではないかと。
父親はおじいちゃんっ子だったに何とかして構ってもらおうとしていたし、母親は良い意味で放任してくれていた。姉や従兄弟だって何時も笑っていた。
「いえ、その笑顔を奪ったのは、おれなんですけどね」
を竜堂家まで運んでくれた女医の車は既になく、身長が伸びて鳴らすのに苦労しなくなったベルを押すと、しばらくしてから、玄関の扉が開いた。
「こんにちは。お久し振りです、始さん」
「ああ、本当に久し振りだな。元気だったか、顔色は良くなったみたいだが」
「おかげさまで、最後にお会いした時よりは格段に元気ですよ。ただ……」
「ただ?」
「いえ、何でもありません。そうだ、これ、お土産です」
「態々買ってきたのか。先生は?」
「男同士で暑苦しく語り合っていろと言って、お仕事に戻りました。それで、おれ、ここの黒糖饅頭が好きだった事、思い出して。あのお店、改装してたんですね。綺麗になっていて驚きました」
少しずつ記憶を取り戻しつつあると知らせる事も兼ねて、随分大人っぽくなってしまった従兄にそう報告すると、優しい笑顔を返された。
通された玄関から先の景観が懐かしく思えて、思わず次の言葉に詰まったに始が出来るだけ心配をしていない風を装って声をかける。
「肌で感じるのと、記憶と、少し違っていて。なんだかちょっと、懐かしいなって……思っただけです」
「そうか。とは言っても、おれは何処がどう変わったのかあまり分からないんだが」
「おれの中にあるのは、まだ小学校の低学年の記憶ですから。ちゃんと、始さんの事も少しずつ思い出してはいるんですが」
「そうなのか。しかし、そう急がなくてもいいだろう。おれは詳しくないが、あまりそういう事を急に思い出すと脳にも負担がかかるんだろう?」
「先生から聞いたんですか?」
「一応皆に説明があったはずなんだがな」
弟たちの行動を知っている始は苦笑して手土産を受け取った。
居間までの短い距離でも周囲を見渡し、記憶と違うものを見付けると立ち止まるを声を掛ける事なく見守り続ける。
それも、話しかけられる事に嫌気が差している彼を気遣ってのものだった。
「あの、始さん。ここ、どうかしたんですか?」
「ここ?」
「この場所。なんだか、床がへこんでいる気がするんですけれど」
「ああ、そこか」
階段の手前の床が僅かに陥没している事に気が付いたらしいは、場所的に誰かが上から落ちたのかと尋ねてくる。末の従兄弟に夢遊病の気がある記憶を取り戻している故の不安そうな表情だったが、始が口に出したのは三男の名だった。
「終が上からとんぼ返りに失敗したんだ」
「……階段の上から?」
「ああ」
以前同じようにこの床に気付いたに同じ話をしたら、ソファの上で転がりながら腹を抱え笑い出し散々終の事を馬鹿にしていた。そして、自分ならもっと上手くやってやると余に豪語して続に止められていた。
矢張りと言うべきか、今回は反応が違い、心配そうな目で始を見上げる。
「あの、怪我、とかは」
「あいつは丈夫だからな。タンコブで済んだよ」
自分たちの力の事も一切忘れているに、それを教えたのは一体何時だったかと記憶を辿り始め、行き着いた先で思わず頭振ってしまった。
それを不思議そうに見つめ続けている少年に、急拵えの笑顔で誤魔化す。
「家の床が抜けたらどうするんだとは叱ったが」
「……あ、そうか」
「どうかしたのか」
問いかけても言い辛そうな顔をするは、始と何もない空間を何度か交互に見た後で、何もない空間を選び、手の平を握る。
「お祖父さん、もう、亡くなっているからなのか。って気付いて」
「」
「変だな。おかしいですよね、ちゃんと教えて貰って、全部、分かっていたはずなのに」
自分の感情を誤魔化すように、も笑みを浮かべた。
始とは昔からおじいちゃん子で、特には保護者である両親よりも祖父をよく慕っていた。いや、今でも慕っている。
そうでなければ、才能を評価されているピアノを趣味に留め教師になるなんて言わない。一族の中でも際立って破天荒な性格だったが、そんな彼がいつも口にしていた夢は常に本気である事は皆が知っていた。
「情けない顔していますよ、始さん」
「人の事言えないぞ」
「分かっています」
その自由気ままな少年が、悲しみに耐えるような笑顔を浮かべている。
にどのような言葉をかければいいのか始は戸惑った。どの言葉を選んでも正解はないような気がして、それでもどうにかして声をかけなければならないような気がして。
そんな従兄の様子を察したのか、穏やかな笑みを繕った少年は自分が好物だと言った菓子を指して、別の話題を振る。
「お茶、淹れましょうか」
「そうだな。いや、おれが淹れよう。は居間で待っててくれ」
「はい、そうしています」
お茶菓子を持って台所へ消えた始の背を静かに目で追って、それが確認出来なくなってから、やっとは居間へと足を向けた。
記憶と照らし合わせてみても、家具の配置はそれ程変化していない。ただ、全体的に少し色褪せて古くなった感じがするのは仕方のない事なのだろう。
ソファの端に座ると、丁度1人分のスペースが静かに沈んでいった。
幼い頃はこの場所を同い年の従兄弟と共有して座っていた事をふと思い出して、座ったまま間違い探しをするように部屋全体を見回す。
目線は当然高くなっていたし、壁にかけてあった時計やカーテンは変わっていた。いつも花が飾ってあった花瓶が無くなっていて、逆に小物類が増えている。
しばらくしてからやってきた始と目が合うと、何故か思い切り噴出された。
「そこら中見回して、小動物みたいだな」
「ああ」
確かにそんな感じに映るだろう、とも怒るでもなく納得する。
「もう少し早く、家に呼んでもよかったか?」
「いえ……皆さんが、特に続さんがいる時は、困ります」
にべもなく返事され、和紙に包まれた茶菓子をテーブルの上に置いた始は戸惑ったような表情を浮かべた。
その瞳にはある葛藤が存在していたが、はそれに気付かない。
「続が嫌いなのか?」
「嫌い、と言うか」
始の弟で、記憶を失うまでは恋人同士だという事を気遣って言葉を濁すが、そちらの方が失礼かと思い、首を縦に振る。
「迷惑です」
「また、はっきり言ったな」
思わず苦笑する青年は、薄めに淹れられたお茶を啜る少年をじっと見つめた。
「鬱陶しくて、気持ち悪いんです」
「鬱陶しいというのは、分からないでもないが……気持ち悪いのか?」
「続さん、常におれの傍にいないと不安みたいで。でも、今のおれは自分の事で手一杯で、続さんの事まで気遣う余裕がありません。だから、その感情がおれには重いんです。そういうのが、全部気持ち悪いって感情に纏まっていて」
「……続は何だかんだ言ってに依存しているからな」
「それは以前の、恋人としてでしょう。今のおれは彼の従弟で、恋人ではありません」
きっぱりと言い捨てたは、そこまで言って、口にするべきではなかったかもしれないと即座に後悔しながら始を見上げた。
かなり遠慮のない意見を言ってしまったが、始は気を悪くした様子もなく従弟が買ってきたお茶菓子に手を付けている。
少し長い沈黙の後、湯呑み片手に口を開いたのは、だった。
「すみません。こんな事、始さんに言ってしまって」
「いや、いいんだ。話してくれてありがとう、おれも気付かなくてすまなかった。他の誰かに話せるような話題ではないしな、続も気が強い奴だから、直接は言い難いだろう」
「……はい」
遠慮がちに、けれど確実に頷いた少年に、始が表情に出さず動揺する。
冗談で言ったつもりはない。しかし、その返答には躊躇いという成分がなかった。
「あの人と、一緒にいるだけで、疲れる」
泣き出す寸前の声で無意識に言葉を区切り、絞り出すような訴えを耳にして、始は密かに後悔する。女医から弟と従弟の今の関係をある程度は聞いていたが、まさかここまで深刻な状態になっているとは思っていなかったのである。
「そこまで酷いのか」
「あの、いえ、多分。おれが過剰に反応しているだけ、なんだと思います」
結局最後は濁すように言って、昨日のキスの事を思い出したは、湯呑みを戻した指先で少し荒れた唇をなぞった。
けれど、それ以上は何も言わず、次の話題を探すように視線を上の方へ投げる。すると、意外にすぐ見つかったのか、それとも当初の目的を思い出したのか、投げた視線をゆっくりと始に戻した。
「そういえば、元気かどうか確認しに来たんです」
「おれをか?」
「はい。今までずっと気を遣って貰って、だから、おれの方から出向こうかなって思って。会って、始さんの顔、見たかったんです」
先程の疲れた表情とは打って変わって、無理のない笑顔を浮かべたを見て、始の挙動が止まる。
元々あの弟と並んでも何等遜色のない顔立ちをしている美しい少年だ。その彼の、今では大変貴重ともいえる無邪気な笑みを見て平然としていられるだろうか。
それでなくても、自分は……その思考を、少年の声が途切れさせた。
「始さん?」
「いや、悪い。何でもない」
何でもないなんて、よくもそんな嘘を。自分が買ってきた茶菓子に手を伸ばしたは目でそう語ったが、口には出されない。
見つめた先には、熱を孕みながらも困惑している瞳があった。決して外に出すことが出来ない感情の片鱗を出してしまい、持て余しているような瞳。
続よりも、もっと熱っぽく、慈愛を含んだそれ。
胸が押し潰されそうで、けれど、心地よく感じる。何も考えられなくなるくらい、自分の思考が跡形もなく消えてしまうくらい向けていて欲しいと思った。
「……あれ」
「どうしたんだ、」
「いえ」
絡んでいた視線を外して、手触りのいい茶菓子の包装をはがしながら、は自分の思考をもう一度辿り直した。
今、何を考えた。始に対して、どんな感情を抱いた。それは確認するまでもない。
自分の中に芽生えてしまったものを、自覚してしまった感情を、一体どうするべきなのかと過去の自分に問いかける。
あの目でもっと見て欲しいと思った。その手で触れて、抱き締めて、キスをして欲しいとも。けれどそれは、本来は恋人である続に向けるべき感情ではないのだろうか。
「すみません、始さん。来たばかりですけれど、ちょっと、先生の所に行かなきゃいけない気がして。お茶、ごちそうさまでした」
これ以上深く考えては駄目だと思考を打ち切り、今帰ったばかりの自分の主治医の所へ行かなければと立ち上がる。
「先生って、病院か?」
「はい」
幸い所持金はそれなりに持ち出して来た、道も覚えている。外の太陽もまだ高い。電車で行けば問題ないだろう。
行くなら今しかないだろう、そう結論に達したの肩を、始が掴んだ。
「送って行こう」
「そこまでして貰わなくても」
「」
低く柔らかい声で名前を呼ばれて、頬を撫でられた。
昨日彼の弟にされた事と同じはずなのに、続に対しての感情とは別のものが胸の奥底から沸々と湧き上がってくる。
「おれも、まだ心配なんだ。ここまで来ると聞いた時、先生に任せず自分で迎えに行こうと思ったくらいに」
過保護で心配性。続と何等変わりないはずの言動だというのに、そこから引き出された感情はあまりにも違い過ぎた。
顎を持ち上げられると、逸らしていた視線がまともにぶつかり合う。
「分かってくれないか」
「……わ、かり、ました。お願いします」
だから、そんな声で、そんな目で、そんな表情で自分の真正面に立たないで欲しい。その思考は、彼の中で溶けて混ざっていく。
お茶だけ片付けてくると、に背を向けてキッチンへと去っていった始の背中を眺めながら、彼は自分の中で芽生えてしまった感情が咲き切る前に摘み取る方法を、懸命に頭の中で探し始めたのだった。