祈りて揺らぐ
「、何読んでるんだよ……って新聞!?」
「図書室にあった夕刊です、暇だと言ったらいただけました」
「え、何? って暇なの?」
「まあ、基本的には」
放課後の学校で、周囲をクラスメートに囲まれ、濃いオレンジ色の光に照らされた教室の窓際で、は微笑とも苦笑ともつかない笑みを浮かべた。
「暇なら一緒に遊びに行かない? 明日休みじゃん」
「取り合えずカラオケとボーリング、どっちにするよ」
「カラオケ行こうよ、鳥羽君の歌聞いてみたいな」
「そうそう、ピアノは弾いてくれるけど、歌はまだ聞いた事ない!」
「そういやそっか。去年の合唱コンクールも伴奏だったしな」
「それ覚えてる。担任から指揮権強奪の原曲崩壊即興アレンジアンコール」
「おれ1年の時は鳥羽の顔しか知らなかったけど、こいつ中身ただの馬鹿じゃんピアノ上手いな!? って友達と爆笑した」
「あれ実はね、担任の先生には内緒で練習してたんだよ。アンコールされたら即興っぽくやろうって」
「発案者は?」
「鳥羽君」
「だろうなあ」
「アンコール直前までイケメンのくせにピアノまで弾けるのかよって雰囲気だったから余計衝撃デカかったよな」
暇という単語を聞きつけて、教室に残っていたクラスメートが数人寄って来る。
顔は覚え始めたけれど、名前はまだ覚えていないし思い出せてもいない。ただボーリングではなくボウリングだと脳内訂正だけしておく。
そんな風に現実逃避を図っている抜きで好き勝手に喋り始める少年少女達に、自分の言葉を無理やりねじ込む。そうしなければ何時までも会話が止まらない事は、既に学習していたからだ。
「ええと、すみません……誰が、どなたでしたっけ?」
「ったく、半月経った今でもクラスメートの顔も名前も思い出しゃしねえんだな」
「それより性格だって、性格。最初ドッキリかと思ったよ」
「少しすれば記憶が戻ると思ってたんだけど相変らずだし」
「というか、今までとのギャップに着いてくのがなあ」
「でも今の鳥羽君の方が好きだな」
「うんうん、想像通りの美少年だよね」
「まあ、それは否定しないけど」
「確かに今のは正統派美少年だ。前みたいに顔面詐欺してない」
「やっぱりそう思う?」
「いっそこのままでもいいかなとか思っちゃうよね」
「まだちょっと慣れねえけどな……確かに、慣れたらこっちの方がいいかもしんね」
「だよねー」
自分を中心に囲んでいるくせに会話をする気が皆無なクラスメート達に、は新聞を手に、窓の外に見える校庭をぼんやりと眺めた。
見覚えのない校門、見覚えのない校舎、見覚えのない教室に見覚えのないクラスメート。そんな中に彼が放り込まれて二週間が経過した。
周囲は好き勝手に言っているが、実は、記憶ならばそれなりに取り戻してきている。
姉の後ろにくっつき真似ばかりして笑われていた日常。初めてピアノのコンクールで入賞した時の両親の笑顔。余と共に卒園する日に6年間離ればなれになるのが嫌で親族全員の手を煩わせた些細な事件や、月に幾度も竜堂家に出入りして続に構われていた記憶、度を超えた悪戯をして大好きな祖父の司に叱られた日の記憶。啜り泣きが止まらず体調を崩した時にずっと抱き締めてくれた始の腕の温もりと、青い顔を覗かせる祖母の表情。夏休みに遊びに行ったプールで終の真似をしようとして溺れかけた記憶は出来れば思い出したくなかったと例の女医に言ったら笑われた。
血縁者を中心に一歩ずつ思い出しても、それでもまだ、は誰に対しても他人行儀の域を出ない。過去の溌剌とした自分と、今の鬱々とした自分が重なり合わないとまでは、女医に告げている。
しかも、中学校の記憶はまだ一切戻ってはいない。
その所為で復学初日は完全に珍獣扱いだった。ある程度は予想していたのでは全員無視を決め込もうとしたが、未だに教師にまで横目で自分を見てる事に気付き非常に腹を立てている。
人の上に立つべき教師がそんなだから生徒もこうなんだ、とは言えず、今日もホームルームが終わったというのに馴れ馴れしく自分の周囲にたむろする生徒に、は誰にも悟られないように溜息を吐いた。
暇なのに鬱陶しい。こんな日常ばかりでは、いい加減疲れも溜まってくる。
「あの、申し訳ないんですけれど」
「鳥羽君が、申し訳ない!?」
「似合わねえ! てめえら黙れくらい言えって!」
「てめえら黙れ」
「素直なも気持ち悪い!」
「ならどうしろと言うんですか」
頭が痛そうに周囲のクラスメートを眺めていたが、ポケットの中の携帯電話の激しい振動では全てを諦めたかのような表情をして通話に出る。
『君?』
「おれ以外に誰がいますか」
そう返せば、詰めていた息を吐き出すような声で、校門にいる事を告げられた。
の自宅は竜堂家とは違い、徒歩で学校に通える距離にある。だというのに、心配性な従兄弟と姉はその短い距離ですら彼を一人で歩かせることを厭った。
「今から行きます」
『ええ、慌てなくていいですから』
「はい」
半月前に当事者不在のまま決定した従兄弟達による送迎は、の父である靖一郎は全く会話に参加しなかったどころか、そもそも両親の姿すらその場にはなかったらしい。
父に決定権はないのかと尋ねたところ、下三人の従兄弟から面と向かってないと言われ、母親と姉である女性にその事を告げ口すると仕方がないわねと返された。
確かに忙しい身ではあるし、20代の始と比べても存在感というか、貫禄負けしている父ではあるが、それでも自分の父親ではないか、と今のは思う。彼の記憶の中の父は、多少臆病で気が弱いところもあるが、それでも真っすぐとあろうとする誠実な人間だった。
どうも、祖父が他界してから父は変わってしまったらしい。
「竜堂先輩から?」
「ええ。すみません、今日はもう帰らないと」
「先輩が来てるなら仕方ないな。おれ達だけで行くか」
「そうだな、骨折もまだ治ってないから無理させられないし」
「残念だけど、でも羨ましいなあ、先輩と並んで歩けるなんて」
「2人で並んで歩くからいいんじゃない? わたし絶対に隣歩きたくないもん」
「確かになあ。と竜堂先輩が揃うと、ちょっと近寄れない雰囲気になるわ」
「母方の従兄弟なんだっけ」
「というか、余もそうだし、高等科の竜堂先輩や竜堂先生も含めて全員、の家ってタイプ違うけど美形一族だよな。お前の姉貴もかなりレベル高いし」
「それ初耳、お姉さんもいるの? きっと美少女なんだろうなあ。鳥羽君のお母さんも背高くてインテリ系の美人だよね」
「学校作った前理事長が祖父なんだろ? 写真見たけど、あの人も結構ヤバいよな。眼帯付けて、時代劇とかで主役してそうなイケメン」
「伊達政宗かよ」
「いや、病院とかで貰う白いやつなんだけどさ。写真からでも圧が凄いんだって」
などお構いなしに好き勝手喋っている男女に適当な返事をしてから、既に荷物を詰め終わっていた鞄を持って教室を出る。
下駄箱で靴を替えるまでのこの短い距離が、が唯一自由になれる時間だった。
「ああ、憂鬱」
朝起きれば何時まで経っても心配そうな父と姉の顔、登校は同い年とすぐ上の従兄弟の2人と登校、学校では珍獣扱いで、下校はまた上から2番目の従兄弟と、家に帰ればあの父と姉で、部屋に1人でいるとそれはそれで塞ぎ込んでいるのではないかと勝手に心配される。
いい加減この生活に気が滅入ってきて女医にそれを漏らすと、ストレスで倒れかねないから落ち着くまでまた再入院しておくかと誘われた。しかし、それで事態が改善するとは思えないからと断った。
その後、主治医として彼女があまりに構うなと注意したらしいが、効果は薄い。彼女の言いつけを守ってくれているのは、常に理性的であろうとする姿勢を崩さない母と、理性的でなければならないと枷を嵌めている1番年上の従兄弟だった。
その母も従兄弟も、が1人で外出する事だけは非常に渋い顔をしていて、結局了承しなかったのだが。
自分の親族はここまで過保護ではなかったはずだ。少なくとも、今持っている記憶の範囲内では。未来の、ここでは過去だが、自分には何があったのだろうか。記憶喪失の原因はそれなのか。誰かにそう問いかけたかったが、なんとなく憚られる雰囲気だった。
「君、大丈夫ですか」
「……続さん、なんで校内にいるんですか」
「いつもより来るのが遅かったので」
下駄箱で靴を取り出そうとした所で背後から声をかけられ、平然とそう告げられる。
この人の言動の全てが気持ち悪い、という感情を素直に吐き出すべきかは迷った。
第一、遅いとは何だ、携帯越しに慌てなくていいと言ったのは続だというのに。
「すみません、クラスメートに捕まっていて」
「ああ、そうだったんですか」
後が面倒になりそうなので、は感情や文句を飲み込んで別の言葉を吐き出す。
持っていた鞄は何時ものように勝手に奪われ、かなりゆっくりとしたペースで続の隣を静かに歩くしかなくなった。
もっと早く歩けばいいのに、と以前言ったら、少しでも長く一緒にいたいという陳腐な言葉を返されて、鳥肌を収めようとしながら納得した事があった。
「そうだ、続さん」
「どうかしましたか?」
「この会社」
鞄にしまわず手に持っていた新聞を続に差し出せば、少しだけ驚いた顔をしてを見つめてくる。
「やっぱり、続さんがやったんですね」
「どうしてぼくだと分かったんですか」
「ここに何かあったら、続さんがやったと思うようにと、終さんに言われて」
一体どんな手段でこんな大企業のトップの首を挿げ替えたのか、少なくとも数年前の従兄弟はただの顔の綺麗な学生だったはずだ。
も別に好きでこの話題を振った訳ではない。
訳ではないのだが、あまり大きな権力を持った人間を近くに持つと自分まで巻き込まれそうだったので、その力の正体くらいは知っておかないと後々困る気がしたのだ。
「終君のお喋りにも困ったものですね、まあいいでしょう。別に大した事はしていませんから。ただちょっと、日本にいられなくなるように脅しただけですよ」
「……へえ」
経済新聞の一面を飾る事件も続の口から大した事ではないと知らされたは、それ以上何も言わず、別の話題を切り出そうかと思案する。
聞きたい事など特になかったが、強いて上げれば、目の前の従兄弟よりも女医の忠告を受けてからあまり顔を見せなくなった始の事が気になっていた。
始は心配性ではあるが、忠告を受ける前から理性で感情を捩じ伏せ、不器用ながらもを気遣い、続のように頻繁には会いに来ていない。
弟達が毎日心配そうな顔をしているのに、自分までそんな事をしていたらも気が滅入るだろう。というのが、余から伝え聞いた始の主張で、その気遣いは現状から考えると弟達に見習って欲しいくらい有難かった。
「着きましたよ」
「ありがとうございました」
「少し、顔色が優れませんね。明日は休日ですから、ゆっくり体を休ませてください」
「はい」
疲労の原因は続にあると気付いていないのかとも言えず、それ以上言葉を返すのが面倒になって、首を上下に緩く振って短く返事をする。
それに気を良くした綺麗な手が頬を撫でても無視と無反応を決め込んだ。ようやくだが珍獣扱いされた一週間が終わって、外に出してもらえず家の中をうろつくだけの休日が始まるのだ、これ以上消耗したくないというのがの願いだった。
せめてベッドの中で自由に出歩く夢を貪っていたい。あまりに長く貪っていると、心配した姉が布団をはがしにやってくるのでそれはそれで嫌だが、それでも平日よりはゆっくりと眠れるからとは自己暗示をかける。
「それじゃあ、君」
撫でられていた頬に、唐突に温かく柔らかい感触。
それが続の唇だと気付いた時には、彼は既にに背を向けて鳥羽家を後にしてた。
「気、持ち悪い。最悪。顔、拭いたい……濡れティッシュ、ああ、そんな物より除菌クリーナーあったかな。つーか、始さんの事、聞きそびれた」
現実から逃避を図りたいがそうも上手くいかず、未だギプスが外れず上手く顔を洗えないは、疲れ果てた表情で玄関の鍵をかけた。