祈りて揺らぐ
姉に案内され通された二階の自室に対し、が抱いた最初の感想はそんなものだった。
本日付けで退院出来たので、形式上は一応帰宅という言葉が当てはまるのだろう。しかし、未だ家族の記憶が戻らないにとって、その部屋はあくまで他人の部屋であり、自分自身の部屋という感覚が持てないでいた。
「とは言っても……何時までもここに突っ立ってるのも、ね」
うんざりとした様子でもう一度その部屋を見渡し、重苦しい溜息を吐いて右腕に荷物を抱えて、まるで職員室に呼び出された生徒のような面持ちで部屋の中へ入っていく。
フローリングの床を足で探りながらどうにかしてベッドまで行き着くと、抱えていた段ボール箱をその上に放り出して、窓を開けた。
埃っぽかった部屋の空気が入れ替えられ、同時に床に散っていた紙が宙に浮く。そのまま外から進入してきた風に攫われ、部屋の外に出て行ってしまった。
「……別に良いか」
「良くありません。第一、君は何をしているんですか」
紙が飛ばされた方向から聞こえた声が足音と共に近付き、重そうな荷物が入った段ボール箱を軽々と抱えている続が目の前で立ち止まる。
本来この家にいるはずの、唯一まともに動ける男手であった父親にどうしても外せない用が出来た為、荷物運びの為だけに姉が急遽彼を呼び、この青年も青年で二つ返事でそれを了承したらしい。父親の仕事が学校の理事長ならば、それも仕方ないだろうとも人選に関しては仕方がないと受け入れた。
「何って、自分の荷物運び入れているだけですけど」
「そんな事はぼくがやりますから、病人は大人しくしてなさい」
「でも」
「言い訳は聞きません。退院出来ただけで、まだ骨折も治っていないでしょう」
反論をする前に優しいが強引な口調でそう言われてしまい、は不満そうな顔をして自分を見下ろす人間を睨んだ。
それにすら、恐らくだが、嬉しそうな顔をされるのを見て、の表情が薄ら寒いものを見るようものに変化し、思わず視線を逸らしてベッドへと向かってしまう。
「ついでに部屋の掃除もしましょうか?」
「好きなようにしてください」
「……」
「何か?」
「いえ、以前の君は、誰かに部屋を片付けられるの酷くを嫌っていたので」
そんな事を言われても困る、と考えたものの流石に直球で返すことは出来ず、は聞こえなかったふりをしてベッドの上に乗った段ボールの中を漁り何枚かのCDを取り出した。
入院していた時とは違い、ケースと内容が一致するよう整理されたそれは、とても見やすいものとなっている。彼自身は一切手を付けておらず、目の前で部屋の掃除を始めた続の手によって整えられたものだ。
ベッドの上に胡坐をかいて、片付けている端から汚していくように空のケースを適当な場所に置いた。床に落ちていた本を拾い上げながら横目で見ていた続から注意が飛ぶが、はその声を耳にしていない風に振る舞い、好き勝手に曲を流し始める。
聞き覚えのある、跳ねるようなピアノの音色に首を傾げると、適当に本棚の中へ本を突っ込んでいる続の手も止まり、懐かしいものを聞いた表情でを見た。
「ロンドブリランテですか」
「詳しいんですね」
「いえ、君がぼくの着信音に使っていたので知っていただけですよ」
「それは」
言いかけて、は少し斜めの方向を見下ろしてから言葉を続ける。
「変わった人だったんですね。この曲を設定するなんて」
「まあ、確かに君は普通と括るにはちょっと違う変な子ではありましたけれど、でもぼくは君のそういう所も含めて全てが好きなんですよ」
「……記憶のないおれに現在進行形で言われても、ただの惚気にしか聞こえないのですが」
「惚気ていますよ。ぼくは君しか眼中にないので」
「そういうものですか」
「ええ、そういうものなんです」
艶やかな笑みを浮かべた続はまた本を詰める作業を再開して、はその様子を複雑な感情を持ったまま黙って眺めていた。
しかしそれも少しの間だけの事で、一曲分の時間が過ぎる頃には落ち着きがななり、ベッドの周囲に何か面白いものが落ちてはいないか探し始める。
「そういえば君。この間整理した時にもガーシュインのCDだけが見当たらなかったんですが、何処にあるか知りませんか」
「コレの事ですか?」
先日、続が見舞いに来た際に発見されなかったCDを床の上から拾い上げ、機械の中で流れていたウェーバーの曲とそれを交換した。
数秒の沈黙の後、同じ冒頭を繰り返すクラリネットの音と読み込みを失敗しているコンポの音が入り混じった奇妙な曲が2人の耳に入り、更に数秒の後、何かを諦めたような表情をしたが停止のボタンを静かに押す。
「壊れてますね」
どこか他人事のようにそう呟きながら、壊れたCDを同じ作曲家のケースに収めて、目に付いた適当な場所に置いた。
そんな事をしているから壊れるんです、という言葉は無視して再びウェーバーの曲を聞き始めるに、続は溜息を吐きながら目の前の本棚に視線を戻す。
本の整理、と呼ぶよりも本棚に詰め込む作業が終わったのか、今度はCDを回収してケースと中が一致するか確認し始める続を胡坐をかきながら眺めていると、何か思い当たったようにその顔をじっと眺め、おもむろに口を開いた。
「続さん、以前のおれと貴方は恋人同士だったんですよね」
「どうしたんです、藪から棒に」
ひびの入ったケースを確認していた手が止まり、今だってそうだろうと訂正出来ないまま記憶喪失の恋人を見た。
「もしも今のおれが、貴方以外の人間を好きになってしまったら、どうしますか?」
突然の言葉に驚いた顔をしたものの、すぐに結論が出たのか、続は手持ちのCDを棚の中に詰め込んで悠然とした表情を浮かべを見つめる。
「その可能性については、心配していません」
「何故ですか?」
「きっと君は、ぼく以外の人間に恋なんて出来ませんから」
極上の笑みでそう告げられるも、はそれ程感銘を受けなかったのか、肩を竦めるような仕草をしてベッドの上に寝転がった。
「信じられませんか?」
「させないって言われるよりは、幾分かマシですが」
「勿論させるつもりもありません」
「そうですか」
こんな男にどうやったら惚れる事が出来るんだ、記憶のあった頃の自分に問いかけてみるが、当然返答などあるはずがない。
考えながら無駄に時間を浪費していると、階下から姉が呼ぶ声が聞こえた気がしては流れっ放しだった音を止めた。気は進まないが、行かなければ色々面倒なので仕方なくベッドから離れる。
続は黙ったまま、あからさまに嫌そうな表情をしているを見送り、その姿が完全に見えなくなると疲れた顔をして軽い溜息を吐いた。
すぐに戻ってくるだろう恋人の事を考えながら、壊れたCDのケースを手に取る。
「本当に、ぼく以外の誰かに恋なんてしないでくださいね」
その手が微かに震えている事に気付き、もう一度、今度は深い溜息を吐き出した。