祈りて揺らぐ
回復の兆候は見られるが微々たるもので、親類の顔と名前が一致し、引っ越す前の自宅の外観や通っていた幼稚園の風景等の、かなりどうでもいい部類に入るものが少しばかり戻った程度である。
今日も今日とてカウンセリングを行ったが、特にこれといった記憶は思い出せない。本来そちらの分野ではない女医は大人特有のはっきりとしない笑みを浮かべながら、ゆっくりでいいとだけ言って病室を出て行った。
「ゆっくり、ね……別に焦ってもいないのに」
体力的にも精神的にもそれなりに安定し、退院日も決まったは、そう呟きながら散らかった病室を眺める。
一番最初に目が行くのは、今時家電量販店でもお目にかからないテープデッキで、記憶を失う以前の彼、というのか自分が、ピアノの練習用に使っていたそうだ。
愛着も思い出もないが、それでも本人だからなのだろうか、妙にそれを気に入ったは以前の自分の私物が入っている段ボールから幾つかテープを漁って、そのうちの一本を再生させ残りを枕元に投げる。
音質は悪いがテンポの良いピアノの音色が耳に入り、リズムを取りながら他に暇を潰すものはないかと、また病室の中を見渡した。
昨夜引っ張り出したままの楽譜が視界に入り、それを拾い上げると先程の段ボールに放り込む。その他にも色々な物がベッドや枕元に留まらず床の上にまで転がっていて、中には間違って踏みつけたら確実に破損するであろうCDやDVDなどもあったが、これ以上の片付けは面倒なので放置しておいた。
代わりにベッドの上に置いてあった夕刊を広げ、ある記事が目に付いたのか、使い古された携帯の電源を入れる。通話もメールも出来ず、既にアドレス帳くらいの使い道しかないこの携帯を渡された時は流石にも首を傾げたが、普段使っていた携帯は現在行方不明で、何か思い出せるならと一つ前に使っていたものが渡されたらしい。
その後、両親ではなく続が退院したらまた新しいものに契約し直そうと言ったが、特に必要性を感じなかったが断ったのは一昨日の出来事だった。しかしあの様子では、きっと勝手に契約されるのだろう。
「というか、あの人って」
液晶画面と新聞記事を見比べながら呟いているとノックの後に聞き慣れてしまった男の声がして、は諦めに似た表情をする。扉の向こうに届くか届かないかの小さな返事をしたが、声はしっかり聞き取られていたようで、すぐに病室のドアが開いた。
「こんにちは。君、変わりありませんか?」
「ええ、おかげ様で」
大学生である事を存分に利用して、毎日どころか24時間しないうちに見舞いに来る従兄弟に対し、は最近、というよりも記憶を無くしてから、気が進まず素っ気ない返答をするようになっていた。
一応恋人同士だったとは周囲の人間から聞いてはいるが、今のにとっては全て他人事でしかない。たとえ、相手がどんなに美人で、気立てが良さそうで、誰もが憧れる王子様的人間であってもだ。
大体男同士という時点で既に彼の中で続の存在はただの従兄弟同士、あるいは他人でしかなく、恋愛対象になど現時点では成り得ない。なったらなったで、正直自分の性癖に辟易するだろう。
「珍しいですね、君がジャズを聞くなんて」
「そうなんですか」
デッキから流れるスタンダード・ナンバーに気付き、話しかけてきた続の言葉を彼は適当な返事で流した。正確には以前のが弾いた曲をそのまま再生しているのだが、訂正が非常に面倒に感じたのでそのまま話を続けさせる。
「クラシックばかり弾いていましたよ、好き勝手に」
「そうですか」
「それよりも君、この部屋は昨日片付けたばかりでしたよね?」
「片付けた後、また引っ張り出しましたので」
本やCDが規則性を無視してそこかしこに放置されている事を指摘しているのか、続の言葉にぼんやりとした口調でが答える。
仕方なさそうな、それでも怒っている様子は見受けられず、続は片付けていくものを一々眺めてはコメントを残していった。
「ダニエル・キイスなんて読むんですか?」
「暇なので」
「ガーシュインのCDの中身が見当たりませんね」
「エステンのケースの中に入ってます」
「そのエステンの中身はウェーバーになっていますよ。それと、英語と数学の問題集の解答欄が埋まっているんですが勉強していたんですか?」
「いけませんか」
「いえ……一度CDの中を確認しなければいけないようですね」
「そうですね」
ベッドの上で膝を抱えサテン・ドールを聴いているに対し続は微笑を浮かべ、ページが黄ばんだ萩原朔太郎の詩集を段ボールの中にしまう。
最後に二冊の問題集だけは筆記用具が散乱しているテーブルの上に置いて、それなりに片付いた部屋を確認した後で、リズムに合わせて揺れる丸まった背中の隣に座った。
「ピアノが好きな所は変わらないんですね」
「……将来の夢はピアニスト、だったんですか?」
「いえ、確かにピアノの腕は良かったみたいですけれど、君の夢は母校で教職に就く事でしたよ。お祖父さんが教育者だったので、憧れていたそうです」
「お祖父さん、いるんですか?」
デッキから目を離さずに訊ねて来たに、続は少し驚いたような表情をして、すぐ納得した。彼は、記憶がないのだ。
「今はもう、亡くなっています」
「そうですか」
感情の揺らぎを見せない瞳はゆっくりと動くテープを見つめ、唇が寂しそうな声を紡ぐ。
「君?」
「なんでもありません」
続の問いかけに沈んだ声で応えながら、は抱えていた膝を崩して場にそぐわない軽快な曲を止めた。
枕元に散らばったテープの中から別のテープを手に取り、それを入れ替え再生させると、空白の音の後に部屋の中にシンプルで柔らかいピアノの音が繋がっていく。
それに納得したのか、デッキを凝視していたの目が僅かに細められた。右手の指先が音を拾ってはシーツの上を滑り、曲の主旋律を口ずさむ横顔を続は黙って眺めている。
機械から外されない瞳、ピアノの音を拾う耳、流れてくる曲を追う唇、少年にそうしろと指図する脳も、それに従う肉体も、普段なら恋人に向けられてきたの全てが今となっては影も形もない。
視線は滅多に合わず、声を掛ければ遠慮がちに返事をされ、手を伸ばすと怯えるように身を竦ませる。から切り出される会話は以前に比べて格段に少なくなった。こちらから話しかけたとしても応酬は長く続かない。
理解はしていた。には何の非もない事は、続も分かっている。
「そうだ、続さん。今日の夕刊、読みましたか」
「いえ、読んでいませんけれど……なにかあったんですか?」
何の脈絡もなく話しかけられ、続は多少驚きながらも平静を装って返答をした。
はというとデッキから視線を外し、綺麗に折り畳まれていた夕刊を続に手渡すと、おもむろに携帯を取り出す。
「都内在住のピアノ講師が亡くなったそうです」
「ピアノ講師が?」
「一家心中と」
ピンク色の蛍光マーカーで印が付けられていた小さな記事を確認し、続の表情が一瞬で変わる。
そこに載っていた名前は、を裏切り、記憶喪失の切っ掛けを作った、彼のレッスンを担当していた男と、その家族の名前だった。
「君、何でこの人の名前を……!?」
「携帯のアドレス帳に同姓同名の方がいて、カテゴリーが先生で登録されていたので。前のおれはピアノを弾いていたそうですから、もしかしたらと思ったので」
液晶画面に映った文字を無表情で見つめる、何も覚えていないに、続はかけるべき言葉が見つからずその新聞記事を眺めている。
「そんな、こんな事……」
例えようのない虚無感を感じ、続はその新聞記事を握り潰した。
本来なら、報復するのはと続にあったはずである。けれど、の記憶喪失でそれどころではなくなり、対応が大幅に遅れていた所に第三者、恐らく例の企業が口封じに出た。
本当に罪悪感に耐え切れず一家心中を図った可能性もないわけではない。しかし、裏で糸を引いている企業が企業である為、続はこの記事を頭から信じる気にはなれなかった。
第一、続は実際にこの家族に一度会っている。
を売り、妻と娘を選んだこの男の行動を擁護する気など微塵もないが、それでもその最悪な取捨選択を選ばなければならなかった中で決断した妻や娘まで道連れにして死を選ぶだろうか。
世間体を気にする家庭ではあったが、今回のの拉致監禁、そして性的暴行等は一切メディアに取り上げられていない。きっとそれも同じ企業が何かしら圧力をかけたのだろう。
「嫌な方向に風向きが変わりそうですね」
零れてきた言葉を拾い、不思議そうに首を傾げたは、続の顔を静かに見上げた。
「君は心配しなくてもいいんですよ。今は自分の体の回復に努めてください」
続は優しい笑みを浮かべ、気遣いの言葉をかけながらの髪を梳く。
何も覚えていないは、そんな続から表情を隠すようにして舌を止めたまま頷き、携帯のアドレス帳に載っていた男の情報を躊躇う事なく削除した。