曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りて揺らぐ

 目の前で震える拳を握り俯いている女性は、母親の鳥羽冴子。
 その隣で、不安そうな顔をして見下ろしているのが、父親の鳥羽靖一郎。
 姉の鳥羽茉理は、血の気の引いた顔をしていて、従兄の竜堂続に支えられて立っているのがやっとだという印象を受ける。
 小さな病室にいる人間の状態を把握して、少年は折れている自分の腕を黙って眺めた。しかし、すぐに視線を上げる。こんな物をじっと見続けていても、骨折が治る訳でもない。
 見知らぬ女医が、見知らぬ血縁者達に自分の頭の事を説明している言葉を漠然と聞きながら、彼は右手に持っていた生徒手帳の写真と夕焼け色の窓に映った姿を見比べる。
 ありきたりな表現になってしまうが美少年だ。髪が少し長くなってやつれたような感じはあるが、この生徒手帳に張られた写真の人間は自分と同一人物で間違いないらしいと結論付けた。
 名前の欄に印刷された文字は鳥羽と読める。性別は男。共和学院中等科二年……そこまで読んで、はどうでもいい個人情報の載ったそれを閉じた。
 今の彼は所謂、記憶喪失になっている。
 丸一日かけた精密検査の結果、医者の診断を詳しく聞いても理解出来ないだろうと聞き流そうとしていたが、内容は案外分かりやすかった。分かりやすくなるよう、気を遣って貰ったのだろうというのは、分かった。
 要約すると、これまでの生活が思い出せない記憶障害というものらしい。
 架空の世界で馴染みの深い、症状で言うなら全生活史健忘、状態で表現するなら完全な記憶喪失というのは実はあまり例がないとかそんな事を聞いた覚えがある。
 どこで覚えたのかは、勿論覚えているはずがない。
 ただ、脳に外傷がない点から、おそらく過負荷が原因だと診断され、数日あるいは数週間、または数ヶ月で記憶は戻るだろうと、これもまた推測の域を出ないかなり曖昧な診断結果を目の前の女医から説明された。
……?」
「……あ、はい」
 肩に触れられて、ようやく自分の名前を呼ばれていた事に気づいたは、冷たい姉の手を感じながら僅かに身を引く。
「今日は、もう帰るけど、明日また来るから」
「はい」
「じゃあね? 温かくするのよ?」
 辛そうな表情をなんとか繕って隠そうとする茉理に、は視線を逸らすようにして頷き、帰り支度をする3人の背中を黙って眺める。
 姉と母、そして父、最後に医者が病室を出て行き、扉が閉まった。
「……竜堂、続、さん?」
 どうして1人だけここに残っているのだろうかという口調で、躊躇うように話しかけてきたに対し、続はゆっくりとした動作で近寄り、ベッド脇の椅子に無言で腰掛ける。
 帰る様子のない続の顔をも退屈そうに眺めていたが、それもさほど時間が経たないうちに飽きた。しかし、他にする事もない。
 外に出る事が出来れば幾分か気も紛れるのだろうが、この怪我では大丈夫と主張しても医者から即刻却下を言い渡される事は間違いない。どうもあの医者と鳥羽の家族や血縁者は異常なまでの心配性のようだというのが、今のの所感である。
 そんな事を考えていると、目の前に座っていた青年の腕が伸びてきて、頬に触れる。
「疲れてしまいましたか?」
「いいえ」
「そうですか」
「はい」
 単調な返事をするを穏やかに見える笑みで眺め、熱を持った続の指先が鼻梁を滑り、瞼を撫で、唇をなぞった。
 手入れの行き届いた手が目の前の存在を確かめるように、何度もの名前を呼びながら顔に触れて、やがて腕が背に回り、折れた骨に負担を与えないように抱き寄せられる。
「あの」
「……すみません」
「いえ」
 明らかに従兄弟同士では行わない行為をされ、は小さく呟くように続に声をかけた。
 続が腕の中の少年を見下ろすが、表情も気配も、特にこれといって嫌がった様子はなかった。しかし、当惑した様子も見て取れない。先程と何ら変化しない、どこか虚ろな瞳で続を眺めるは、暗くなった窓の外へと視線を移していった。
君」
 続がまた、名前を呼ぶ。
 しかし、その声は病室のドアをノックする音に消されてしまった。
「どうぞ」
 自分の名前を呼ばれた事にも気付けないのか、続を無視して外の景色を眺めたまま、どこか機械的に入室を促したの声にゆっくりと白い扉が開かれる。
 長身の男性が2人の少年を連れて入ってくると、ようやくそこでの視線は扉の方へ向く。見覚えのある青年の姿に小さく御辞儀をして、背後の2人の少年をそれぞれ眺めた。
、調子はどうだ?」
「普通です」
「そうか」
 穏やかな笑みを浮かべる大柄の青年、名前は竜堂始。彼の事は自分が意識を取り戻した時に傍にいた1人なので、ほんの少しだけ知っていた。
 それ以前の記憶は、他の肉親と同じように何もないが、少なくともが知る限り、今のところ、医者以外の知り合いで最も落ち着いた言動をする人間だった。
「続、叔母さんたちは?」
「つい先程帰られましたが、擦れ違いませんでしたか?」
「いや……」
 会っていない、と言う始に対し、続は不思議そうに首を傾げている。
 彼にとってはの家族が病室を出て行ったのは体感時間的に数分前らしいが、は今は完全に夜の顔をしている空がまだオレンジ色だった時に自分の肉親たちが病室を出た事をはっきりと覚えていた。
 口許に手を当てて考え込む仕草をした始は、それを言うべきか言わざるべきか悩んでいたの視線に気付くと曖昧な表情をして、自分の背後に隠れるようにしている2人の少年を紹介する。
「昨日話した、弟の終と余だ」
「どうも」
 結局、取り立てて言うべき程の事でもないと判断したは、気のない言葉と共に無傷の右手を差し出した。
 先に兄の終が、次に余が力なくその手を取り、ふと気付いた事を意味もなく口に出す。
「学校帰り?」
「え? あ……うん」
「そう、同い年で同じ学校なんだ」
 その言葉を言い切ると、始以外の従兄弟が一斉に反応しての方を見た。
 しかし、当の本人は余の手を離し眠そうな目をして窓の外を眺め、落ち着くように言う兄と自分に詰め寄ろうとする弟達の様子を、ガラスを使って間接的に眺めている。
、どうして分かったんだ?」
 背中から始に声をかけられ、視線を反対側へ移すの顔が縦に振られた。
 右手に持った生徒手帳を始に手渡し、静かになった3人とは目を合わせないように俯きながら、呟くようにして言葉を吐き出す。
「写真の制服と校章が、一緒だったので」
 少年の手の平がシーツを握り、どこにも視線をやることが出来ずに項垂れた。
 それを見た竜堂家の弟達は慌てて勘違いを謝罪し、は困ったような表情をする。謝罪されたい訳ではないと言おうとした口からは、後の事を考えて別の言葉が放たれる。
「先生は、時間はかかるけれど、少しずつ記憶は戻るだろうと仰っていたので……だから、そんなに心配しないでください」
「……本当?」
「ええ」
 今にも泣きそうな顔をしている同い年の従兄弟にそう言って、始から返された生徒手帳を受け取った。それに何か違和感を覚えるが、が口を開くよりも早く、従兄弟の長男が帰宅する事を告げる。
 背中を向ける兄に続き、下の2人の弟達も、来た時と比較すると幾分か安心したような顔をして、に一言ずつ挨拶を言って病室を去った。
君」
「……あ、はい。何でしょうか」
 名前を呼ばれ、眠そうな顔をまま返事をする記憶を失った恋人に、続は様々な感情が入り混じった表情で一言一言を噛み締めるように言う。
「無理を、しないでくださいね」
「はい」
 髪を梳かれながら首を傾げるは、少しの間だけ黙って、そして口を開いた。
「あの、無理って、どうやってするんですか?」
「……」
「続さん?」
「……いえ、なんでもありません」
「そうですか」
 無邪気に自分の知らない事を訊ねるその姿は、口調は違えども根底は間違いなくあので、続は今日初めて、きちんと彼を見ることが出来たような気がして笑いを堪える。
「おやすみなさい、君。明日また来ます」
「はい、おやすみなさい」
 小さな音を立てて閉まったドアを眺め、病室の周囲に人の気配がないのを知ると、夜を透かすガラスに自分の姿を確認して溜息を吐く。
「記憶喪失……ねえ」
 死んだ魚のような目をした見知らぬ少年の顔が聞き慣れぬ声で自分の言葉を吐き出し、もう一度大きな溜息を吐くと、は窓を厚地のカーテンで隠した。
 骨をこれ以上傷めないように気をつけながらベッドに寝転がり、右手に持ったままの生徒手帳を見つめる。先程の違和感は一体何だろうと眺めると、何のことはない、一枚の小さなメモが、折り畳んで挟まっていた。
 黒いボールペンのインクで書かれていたものは走り書きの文字と携帯電話の番号だった。
 恐らくあの従兄弟の電話番号なのだろうと知るが、それ以上は特に何の感想も抱けず、誰もいない病室の中で時計の秒針の音だけを聞く。
 胃の辺りが熱くなり、軽い吐き気を覚える。けれどそれを無視して天井を見上げながら、虚ろな目では呟いた。
「あの人たち、明日も来るのか」
 少年は右手に握られた小さなメモ用紙を憂鬱な表情でもう一度眺め、そして握り潰した。