曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りて揺らぐ

 深夜の個人病院の窓に明かりが灯っていた。
 目の痛くなるような白い光を放つ蛍光灯の下で、診察室から壁一枚隔てただけの肌寒い廊下の壁に凭れかかった始は、深く頭を垂れてその体を半ばまで闇に埋もれさせている。
 少し前までは目の前の扉から微かな呻き声が聞こえたが、今は院内の全てがしんと静まり返っていた。
「……
 伝わるはずのない、もう何度呼んだかも分からない名前を口にして、その度に唇を噛む。
 抱えて走ったの体は慄然するほど軽く感じ、その感触は今でも腕に残っていた。左腕はあらぬ方向に曲がっていて、蒼白の顔で、まともに意識もないのに助けを求めて泣いていたその表情を思い出す。
 もっと早く助ける事は出来なかったのだろうか、何故を1人で外に行かせてしまったのだろうか、そんな言葉ばかりが浮かび、消える事なく重なっていった。
 以前は、どんなに嫌がっても決して1人で外を出歩かせたりなどしなかった。それは過保護を通り越して異常と呼べるものだったかもしれないが、そうしなければならない程、あの少年は頻繁に誘拐されていた。
 度重なるその中には、今回のような状態で発見された事もある。に関わる誘拐は総じて身代金目的ではない。だからその度に、彼は体も心も傷付いて帰って来る。
 助ける事が出来ない。癒す事も出来ない。何時まで経っても学習しない。いつも自分達は同じ過ちを繰り返し、時と共にもう大丈夫だと忘れ、その度に憤りと無力感に苛まれる。どんなに常人離れした力を持っていても、そんなものは役には立たないと思い知らされる。
 そんな思考を中断するように、視界の外で非常口の扉が音を立てて開いた。低く垂れ込める静寂を払うような足音が近付き、聞き慣れた弟の声が落ちてくる。
「兄さん、君の容態は」
「左腕と、肋骨を何本か折られていた。それと……」
「……分かりました」
 言い澱んだ始の言葉を汲み取り、続はそれ以上何も言わなかった。
 代わりに兄から差し出された一枚のカードを受け取り、不快そうに目を細める。世間では名の知れた企業のロゴマークと、警備員として証明された男の顔写真が印刷された身分証明書。始がを誘拐した男から奪った物だった。
と一緒にいた奴等が持っていた」
「例の講師も被害者面をして同じ企業から脅迫を受けたと言っていました。奥さんと娘さんの命を盾に取られていたともね」
「……それで、どうしたんだ」
「ひとまず事情を聞くだけ聞いてこちらに来ましたよ……今は君の方が心配です」
「そうか」
 兄の隣に静かに座った続は、その瞳に剣呑な光を宿したままカードを返し、両腕を組む。
 押し殺しきれない怒りが滲み、激昂する感情を制御しきれずに唇が震えていた。
「心当たりはあります」
「本当か?」
「ええ、ここの社長令嬢とは何度か会った事がありますから。君を迎えに行った先で」
 何度か声もかけられましたしね、と腕に爪を食い込ませながら言い放ち、見えない加害者に舌打ちする。何も出来ないだろうからと適当に相手などせずに、もっと徹底的に叩いておくべきだったと、今更ながらに後悔していた。
 苛立ちを募らせる弟に、始は少し落ち着けと声をかけ、腕の時計を一度だけ見る。秒針の微かな音だけが、しばらくの間、二人の間で流れていた。
「……錯乱していた」
 沈黙を破ったのは始だった。
を見付けた時、おれが誰なのかも分からなくなっていた」
「薬品を使われた形跡がある、原因は恐らくそれだな」
 診察室の引き戸が静かに開き、フレームのない軽く度の入った眼鏡をかけた女医が、始の独り言のような言葉に淡々とした口調で返す。
「容態は先程話した通りだ、命に別状はない」
 白衣のポケットに両手を突っ込み、辺りを一度見渡して自分達以外の人影は存在しない事を確認した。暗い表情をしている兄弟を見下ろしながら形の整った唇の端を歪める。
「冴子と靖一郎は出張のようだな。茉理は、1人では受け止めきれないと冴子から帰るまで言うなとでも口止めされたか」
「よく分かりますね」
「鳥羽家とはお前達以上に付き合いが長いんだ。仕事中でも真夜中でも、2人は必ず、強姦どころか掠り傷一つですっ飛んで来た、それでなくても、特に冴子は昔からの事を大分気にかけているからな」
「強姦って」
「性的暴行と言い換えてやろうか。当人に対してならまだしも、今更お前たちに表現を柔らかくして、事実を誤魔化すように言って、それで何になるというんだ」
 始と続の叔母であり、の母親である鳥羽冴子と縁の深い女医は、友人よりも半回りほど若く見える整った外見を曇らせて、うっすらと隈を作った目元を袖で擦った。
「……行くのか、行かんのか」
「え?」
「容態は落ち着いた。の傍にいるのか、いないのか、はっきりしろと言っているんだ」
 女医はそう言って、顎で白い扉を差す。
 弾かれたように顔を上げた続だが、しばらく躊躇した後で、浮かせた腰を椅子に落ち着かせ、の元へ行くのを拒んだ。
 あの時ああしていれば、きっとはこんな目に遭わなかった。始も感じたその罪悪感は、恋人である続にとって比較にならない程重く圧し掛かっている。
 この気持ちは初めてではない。に何かある度に、こうして何度も無力感に襲われて、どんな顔をして傍にいればいいのかすら見当が付かずに項垂れた。
 首を左右に振る続を見下ろした女医は、呆れたように深い溜息を吐き出して、鍵の開いている処置室を指差した。
「見当違いの罪悪感で傍にもいてやれない、しかも思考も表情も何もかもが患者に悪影響を与えるようなら、いっそもう今日は寝ろ。はこちらで看る」
「それは……」
「嫌なのか?」
「……はい」
 顔を上げられないほど落ち込んでいる青年達を前に、彼女はもう一度長く長く息を吐き出して、目の前でただ黙っているだけの2つの頭に拳を叩きつけた。
「!?」
「揃いも揃って状況把握の出来ん兄弟共だな」
 骨張った拳を擦りながら、驚いて顔を上げた2人の青年に苦々しく言い放つ。
があんな目に遭ったのはお前達の責任なのか? 悪いのは、罪があるのは今ここにいる人間なのか? 違うだろう、お前達は当たり前の生活を営んでいただけで、それを壊したのも、を傷付けたのも、全てあの子を誘拐した外道に責任がある。いいか、よく聞け、お前達は何も間違っていない。何一つ、だ」
 眼鏡を外し白衣の胸ポケットに入れると、先程よりも更に若く見えるその姿で彼女は目の前の年若い男性達を軽く睨み付けた。
「私の考えに反論したいのなら今ここで5秒以内にしろ。しないのならの所に行くか、始発まで仮眠を取るか、帰宅するかの3択だ」
 それ以外は認めない、という威圧しながら言われ、続はほんの数秒だけ考えた後でゆっくりと病室の方へ歩いて行く。ほとんど物音を立てずに病室へ入る弟の背中が視界から消えるまで見送り、始は詰まっていた気持ちを吐息に混ぜた。
「で?」
「で、と言われても、今の一連の会話と説教の直後でおれも行けと?」
「私は続だけではなくお前にも言ったんだが?」
「あの2人の邪魔をする程、おれも野暮な人間ではありません。叔母さん達に連絡も終えたので、後は続に任せます」
 疲労が滲んだ笑みを浮かべてそう言った始に、彼女は肩を竦めるような仕草をして再びポケットに両手を突っ込み、今まで続の座っていた場所に腰を下ろす。
が、外科でもないうちにあんな姿で担ぎ込まれる度に思う。先回で最後だと思っていたのに、とな」
「すみません」
「責めてなどいない、さっきも言っただろう」
 蛍光灯の灯る低い音と、待合室の時計の秒針が2人の耳に届いた。
 女医の瞳が、患者とその恋人のいる病室を長い間見つめ、そして口を開く。
「愚痴のついでに忠告しておくぞ。を支えるには、続はまだ若過ぎる」
「……知っています」
「違う、年齢的なものではない。精神面での事だ」
 始の考えを読んで返した女性は、目頭を解しながら白い光から守るように瞼を閉じる。
「続が未熟だと?」
「侮辱するつもりはない、私の見ている現実で、事実だ。私はあの男を間近で見ていて、成熟した大人だとは到底思えない」
「なら、おれが支えるまでです。続も、も……その為の家長ですから」
「家長、ね。その言葉、信じるぞ」
 低い、疑いを含んだ声でそう言い、目を開ける。
 微かに怒気を孕んだ視線が彼女を見下ろし、それと正面から向き合うように顔を上げようとした。けれど、それを妨害するような音が、背後から突如襲いかかる。
「先生! 君の意識が!」
「戻ったのか!?」
「喧しいな。落ち着け、騒音は患者の体に障る」
 僅かに皺になった白衣の襟を正し続の脇を通り抜けて病室へと入ると、ベッドの上でぼんやりと天井を見上げている少年が目に入った。
「ここ、は」
 虚ろな目が足音がする方向を僅かに見て、すぐに視線を元の天井へと戻す。
「病院です、それより君」
 枕元にまで来て呼びかけた続の声に反応し、の瞳がそちらに向くが、反応が薄い。
君?」
 もう一度呼びかけられ、今度は顔ごと声のした方へと向く。
 黒い瞳孔が焦点を合わせ、乾いた唇が微かに動いた。粘ついた舌が口の中で鈍く動き、ようやく声となるものを形勢する。
 しかしそれは、その場にいた誰もが望んでいない言葉だった。
「貴方達、誰?」