曖昧トルマリン

graytourmaline

祈りて揺らぐ

 体が重い、少年が感じたのはそれだけだった。
 意識がはっきりせず、指一本動かすのも億劫で、狭い空間内に幾つか存在するガラスの窓に映っている薄く開かれた目が人気のない夜の街を眺めている。
 隣に座っていた男が何か言って髪に触れてきた。それだけで妙な気分になるが、それが何と言う気持ちなのかはよく分からない。思考が纏まらない、霧散している。声だけが音として耳に入ってきた。
「まさかこんな子供相手にあれだけの量を使う羽目になるとは思いませんでしたね」
「気が強いというのは調査通りだったな、だが、その甲斐あって楽しめた」
 髪を撫でていた手が頬に移り、顎へ。唇に生暖かい感覚が伝わる。
 歯列を抉じ開けられ舌先にぬるぬるした妙なものが触れて始めて、キスをされたことに気付いた。けれどそれが嫌ではなく、力を抜いて受け入れる。いや、そもそも嫌とはどんな感覚だっただろうか。
「ん……」
 息が苦しくなり顔を逸らすと男性の顔が視界に入った。
 その瞳に粘着質めいた何かを見て、体ごと反対側を向くと車のドアがある。
 胸の内側が酷く熱く感じ、鈍く痛む気がした。肋骨を折られた時の感覚に似ていたが、分厚い膜を隔てたような薄気味の悪いものではっきりとしない。
 左腕も何故か動かず、変な方向に曲がっているようだった。紫色に膨れ上がった不細工なそれを嘲笑うかのように唇を歪める。
 唾を飲むと糖蜜漬けの鉄錆の味がして、口端から血が流れている事を理解した。歯は折れていないが、口の中が切れて口内炎になっている。
 全身が悲鳴を上げたが、それでもゆっくりと上半身を起こし、ここはどこだろうと生気のない瞳が狭くて暗い空間を見渡した。見覚えはないが、車の中である事は間違いない。
 そうか、車の中か、とぼんやりと理解して、遮光フィルムの貼られた窓に額を寄せた。夜のガラス越しに、虚ろな顔と運転席の男と話している人間がはっきり見える。
(にげろ)
 誰かがそう囁きかけた気がして、ゆっくりと身を起こしても誰かいるはずもなく、前屈みになり、今の言葉の意味を反芻するが、その意図も意味も掴めない。
 顔を上げてもう一度外の景色を眺めるとネオンの色がはっきりと確認出来る。オレンジ色の線が目線のすぐ下にあって、方向指示器が左に点滅していた。そこで初めて、車が停止している事に気付いた。
(逃げ、ないと)
 さっきよりもはっきりとした声に、軽く頭を振る。
 視界の端の青い歩行者信号が点滅している。早くしないと逃げられなくなる、そう考えても体は思うように動かない。
(動けよ。動け)
 震える指先がドアに触れ、軽く小さな音を立ててロックが解除される。
 ドアが微かに開くと、外の空気が車の中に流れ込んできた。足を外に踏み出そうとした、途端に背後からの強い力が体を引っ張る。
「どこに行く気ですか?」
 背後では、男が、笑っていた。
 血の気が引く。初めてではない恐怖に、落ち着き始めていた脳内が完全に混乱した。
 肩を掴まれ、声を出そうにも喉が引きつって音が出ない。
 力の許す限り暴れ、目の前の男の顔を引っ掻いた感覚が手に伝わった。体温が失われていく気がして、震えが止まらない。ドアの縁にかけた手が冷たい。
 ふいにその冷たさがなくなる。代わりに上半身が冷くなった、着ていた上着がない。
(逃げないと、早く逃げないと!)
 半ば開いていた車のドアを勢いよく閉めると、鈍い音がした気がした。
 誰かの怒号を背後に聞いて、誰かに助けを求めようとする。走り出そうとした瞬間、さっきよりも強い力で腕を掴まれ、誰かに全身の自由を奪われた。
 抵抗しようにも、散々痛めつけられた体にはもう力が入らない。貧血と体力の限界が来て、膝から体が崩れ落ちる。
「……! だ……、か!?」
 朦朧としてくる頭の中に怒鳴り声のようなものが響いた。こんな事して、もしかしたら最悪殺されるのかなと、どこか他人事のような感覚で膝に力を入れ、誰ともわからない腕から逃げ出そうと必死に抵抗する。
 背後から聞こえる怒声に怯え、自分を抱える腕に爪を立てるが、おそらく男のものと思われるその腕は些細な抵抗をものともせず弱った体を強く、優しく抱き締めた。
 憤りの混ざった声を聴覚が捉え、頭上から低い、猛獣が唸るような声を聞く。何を言っているのか理解出来る程思考は回復していながったが、視界を塞ぐように今自分を抱き締めているのはあの男達の仲間ではないと知り、抵抗を止めた。
「恐かったな」
 どこか詫びるような口調の男の声に、訳もわからず涙ながらに被り振り、今まで詰まっていた息をゆっくりと長く吐き出す。後ろの方で誰かが喚いている声も聞こえたが、その音からすらも守るように自分を抱く男の腕に不思議と安心した。
 そうされると、心の緊張が急速に解ける。意識と視界は光を失い、広く温かい腕の中に自分の体を預け意識を手放した。
!」
 気絶した体を支え、を抱いていた男、始がその名前を呼ぶ。
 脈打つ心臓と呼吸から眠りに落ちただけと知り、従弟の顔を確認して安堵の息を吐くと、逃走の際に片方の眼球を潰された怒りと痛みで肩で息をしつつ、ナイフを取り出した男が走り寄ってきた。それに対して一切の慈悲など見せず、始は強烈な蹴りを繰り出す。
 アバラの骨が砕けた音が聞こえ、破裂した内臓から迫り上がった血を吐き出しながらアスファルトの上を男が跳ねた。その様子を運転席で見ていた別の男が車から降りてきて黒光りする凶器を始に向ける。
「その子を返して貰おう」
「それはこっちの台詞だ」
 互いに殺気だった短い会話をし、今度は男の方が無言で引き金を引く。
 サイレンサーの付いた銃は静かな音を立てて弾丸を発射したが、それよりも速く、始は男の背後に回りこんで足の骨を蹴り砕いた。
 声にならない悲鳴を上げその場に倒れ込もうとした男を片手で宙に吊り上げ、必要以上の力で車体に体を押し付ける。
「誰の指示だ」
「っ、言えない! 言えば殺される!」
「そうか」
 単調な返答と共に男の頭を掴んでいた手に力を込める。ガラスの砕ける音が辺りに響き、車体に血塗れで肩が潰れた上半身を突っ込んだまま沈黙した男の内ポケットから相手の身分を証明する物を見付けた。
 日本国内で名の知られた企業に所属している事を示すそれをポケットにしまい、代わりに同じ場所から携帯を取り出す。の家族も心配しているだろうが、それと比べ物にならない程、彼の身を案じている相手に連絡をつけた。
『……どうかしましたか、兄さん』
 最短コールで出た弟の声は自分以上に殺気立っていて、同時に言葉では表せない程の焦りも含まれている。分かり切っていた事ではあるが、始の腕の中の従兄弟であり恋人である存在が心配なのだろう。
を保護した」
『……』
「続?」
『……よかった』
 短い沈黙の後、小さく呟かれた声に、始も僅かに笑みを零して眠っている従兄弟を抱き直した。何をされたのか、服の上からでも分かるくらい傷付いている。
「相当手酷い扱いを受けたらしい……一応あちらさんの身元も判明した。おれはこれからいつもの病院へ向かう。お前も早く来い」
『いえ、あのピアノ講師だけは問い詰めます。君の話を聞いた限り、今日の事は偶然とは思えません。もしも彼が君をそんな目に遭わせたきっかけを作った人間だとしたら、その罪を償わせます』
「分かった。そうしたいのなら、好きなようにしろ」
『ええ、君の事、お願いします』
 向こうから切られた通話に軽く目を伏せて、細いの体を一度下ろすと自分の上着で包んで抱き直す。
 青白くも見えるその顔色を眺め、始は血塗れの男に背を向けて夜の闇を走り出した。