祈りて揺らぐ
かなり深くまで沈むベッドから体を起こし、明かりのついていない部屋を見渡すが、ベッドに見合いそうな趣味のいい調度品もなく、人影も見当たらない。
奥に見える白い扉は電子ロックが掛かっているようで、ハッキングなどという高等技術を持ち合わせていないにはどうしようもなかった。
「……クソったれが」
当然の事だが、気を失う直前まで手にしていた携帯電話はその所在を眩ませている。あるのはベッド一式と扉だけ、武器になるような物も何もない。
壁一面に広がる窓を見下ろすと、都心の艶やかで毒々しいネオンの光が赤味を帯びた光に気圧されながらも輝いていた。
少なくとも、まだここは都心のホテルないしビルの中であろうとは推測し、更に数時間前の記憶との照合を終えると、思わず溜め息を吐く。
「拉致られるなんて結構なお久し振り具合だよなあ。何ヶ月振り何回目?」
ガラスに映った姿には特に異常らしい異常は見られない、むしろ完璧に整い過ぎているくらいだ。それだけ確認すると再びベッドの上に戻り、足を組むようにして座り込む。
ベッドから広がった香りに覚えがある、その匂いだけで犯人の目星は付いていた。ついでに目的もそれなりに把握していると思う。この部屋、この待遇からしても身の代金目的でないのは明らかだった。
ただ納得いかないのはこの状況。一体何を考えているのか見当が付かない。
ノックもなしに、ドアが開いた。
「これはこれは、お目覚めでしたか。ご気分はいかがですか?」
「アンタ達のおかげで最っ高に悪いよ」
男は礼儀が欠片も入っていないの返答にも微笑して返し、拉致した男が着ていたような安っぽいスーツなどではなく、明らかにオーダーメイドで仕立てられたそれで音もなく近寄ってくる。
こんな所で狼狽えても仕方がないので、少年も素知らぬ顔で歩み寄ってくる男性をまじまじと観賞する事にした。数秒経って結論、自身や従兄弟には適わないが父親よりはよっぽど美形。
身のこなしはあの恋人基準で考えてもある程度優美の部類で、格闘術を心得ているのか護身術を嗜んでいるから見て隙はないように思える。年齢は一回り以上違うが、美形、男前辺りの単語で表現しても一般的には差し支えないだろう。
だからといって、の好みの範疇かと訊かれれば即、首を横に振るような男だったのも確かなのだが。
「あちらで主人がお待ち申し上げております」
「生憎だけど、おれには好き好んで野郎にエスコートされる趣味はねえんだよ。その薄汚い蝿の手と狗の笑い方、さっさと引っ込めろ」
常人ならば何らかの反応を示しそうなの言葉にも、目の前の男は相変わらず事務的に笑っていた。
ただ、その瞳がどこか獲物を狙う爬虫類じみていて、は更に気分を害されたように軽く眉を顰め、立ち上がる。
「あんたマゾ? しかもゲイでおまけにペドの三重苦?」
背筋を這い上がる悪寒を隠して憎まれ口を叩くと、それを見抜いたのか最初から気に留めるような言葉でなかったのか、男は眉ひとつ動かさず無言で扉を開いた。
中途半端にエスコートされる結果となってしまったは、他に選択肢もないので出来る限り男を見ないようにしながら、ホテルならばスイート以上と断言できる部屋へと足を踏み入れる。
入り口と思われる位置には誰もいない。多分部屋の外に1人ないしは2人くらい黒服のSPらしき男が控えているのだろうと予想した。部屋の所有者である少女の両隣に、を拉致した後で身なりを整えたらしい秘書風の男と、正装をして気味悪く笑っている同い年くらいの少年が1人。
視界に入る人間の姿は硝子に映った自分以外に計4名。後ろの男も含めれば5名。いずれも容姿は美形。
高級そうとしか表現出来ないテーブルの上には紅茶が2人分、片方のカップ前に、よりも少し年上の少女が座っていた。
「ご無沙汰しております、鳥羽……君だったかしら?」
「どーもオヒサシブリ、コンクールの時以来だからそんな経ってませんけど。それで、でっかい会社を経営してる人のお嬢様が、たかが私立の学院長の息子に何の御用ですかね?」
「驚かないのね」
「大体予想は付いてたからさ。ついでに拉致も慣れてるっぽいし?」
冗談めかして言ったが、にとって誘拐は日常茶飯事だった。
初めて拉致を経験したのは幼稚園の頃。小学校に通うようになってからは、その容姿があまりにも変質者の標的となっていたので、立て続けに起こる誘拐や誘拐未遂を心配した両親や祖父母が知り合いの経営する全寮制の学校への転校を考えた程だ。
あの剛毅な祖父が心配するのだから相当のものだったのだろうと今更ながらに思うが、確かにには従兄弟たちのように常人離れした能力はない。自主的に護身術を学んでいるのは過剰な自意識ではなく、どちらかというと必然に近かった。
ピアニストがそれはどうかと何も知らない周囲には言われるが、彼にとっての優先事項はとにかく自らの命だと言い張っている。従兄弟たちは殺しても死にそうにないけれど、自分は絶対に死ぬから大事なのは自分の命と言い切った時は苦笑されたものだ。
「調査通り、少し品に問題がある子なのね。顔とピアノの腕は、素晴らしいのだけれど」
「否定はしねえわ。だっておれ、厚化粧と勉強の他にも全般的に努力しないと誰からも見向きもされないアンタと違って、その2つだけでこの世に生きてる価値があり余る存在だからさ。その程度の顔ならそこらにゴロゴロしてるだろうけど、おれみたいになってくると世界的にも希少価値高いよね」
かなり投げやりで反感を買う理論と口調だが、勿論本心で思っている訳ではない。
しかし、それを敢えて口にする程、彼はお人好しでもなかった。
「で、さっきも訊いたけどおれに何の用? つーか、何がしたいの? そっちは暇みたいだけどさ、おれ予定が立て込んで忙しいんだけど」
「あら、レストランなら心配には及びません。どうぞおかけになって」
怒りに震えている唇で自分が優位に立ったように笑った女にはかなり呆れた表情をあからさまに作っただけで終わる。
つまり、あの講師は買収された訳だ。
「そーですか。そりゃよかった」
無事に脱出したら真っ先に殴り込んで家庭崩壊させる決意を胸に秘め、は乱暴に一人用のソファに腰掛けて足を組んだ。
「でもアンタに拉致られる前に続と会う約束も入れたんだよね、今頃、心配して探してくれてるかもなあ」
「……っ、たとえそうだとしても、あの人が私達を見付けられる可能性はありません。ここは上から下まで全部、パパのビル」
「低能呼ばわりされたおれですら父さん呼びなのに、パパって言い方がいかにも馬鹿の自己紹介っぽーい。いいトコのお嬢さんならお父様呼びじゃねえの? 優越感に浸っちゃって普段の口調出ちゃった感じ? 前から思ってたけどさ、その丁寧っぽく聞こえるお嬢様口調も板に付いてないから作ってるよね。もしかして、一人称自分の名前にしてるタイプの勘違い系アホの子ちゃん? ワタシちゃんとかワタシさんとか言っちゃう痛い子? それで良く見られてるって本気で考えてんのなら、他人様の判断力舐め過ぎじゃね」
「うるさいわね!」
「うーわ、マジかよ。ブサイクなのは顔だけで勘弁して欲しいのに頭の中もとか終わってんな、おれ、大抵の事が許される顔面偏差値最高峰でよかったわ」
安っぽい挑発に乗ってくれるのは相手が安っぽい三下だから、と凶悪で華美な笑みを浮かべながら割と惚けたことしか考えていないは、頬杖を付きながら侮蔑を込めた視線で相手を見下ろした。
「率直な感想を言うと、アンタ程度の女じゃ続と釣り合わないね。たかが中坊のおれに煽られて怒鳴り散らすだけの無能に靡くのは、アンタの父親の持つ金と権力にタカる蛆みたいな男ぐらいだろ」
「黙りなさいよ!」
手入れされた綺麗な手が大理石のテーブルを叩く。
どうやら図星らしいと考えながら、手だけは間違いなくピアニストのそれで、実力は嘘ではなかったなとはつまらなそうに分析した。
「失礼、これ以上の主人への無礼はご遠慮願います」
背後から冷たい感覚と、首筋に針を突き付けられたような感覚。
はそれがナイフの切っ先だと理解するのに一瞬とかからなかった。
「こういうの出すのなら丁寧に口で警告する必要なくね?」
降参とでも言うように両手を上に軽く挙げると、例のあの男は、あの笑いのままを見下ろし、ゆっくりとナイフを下げる。
その仕草もは鼻で笑い飛ばし、けれど本格的にどのようにして逃げるかを模索し始めた。勿論、表面には一切出さずに。
「アンタの秘書、それともそのパパとかいう男のか? 結構いい度胸と性格してるじゃん、ついでに顔も良いのはそういう趣味?」
再びナイフを突き付けられるが、決して狼狽したような仕草はせず、それどころかソファに更に深く座っては指を組む。
「殺す気もないのに無駄な事ばっかしてんじゃねえよ」
「……」
「本気で続を手に入れたいのなら、こんな芝居じみた脅しなんて意味ないんだよ。おれを殺すしか、いや、殺しても、続はおれ以外の誰にも興味抱かねえか。信用出来ないなら試してみる? 一回きりの手札だからオススメしないけど。でも、続は絶対に、おれの墓の前で絶望して泣きながら後を追ってくれるだろうよ」
それが演技と看破出来なかったのか、少女は少し青褪めてを凝視する。
それ以外の男3人は何一つ表情を崩す事なくその場に立っていたが。どうやら人としての出来は最悪だが、後ろ暗い行為に手を染めている会社の一社員としては普通らしいと腐った評価を下した。
「今時って程、今時でもないだろうけどさ、三下どころかガキだって簡単に人間殺す世の中だってのに、全く何を考えているんだか。おれの死で雁字搦めになった続を惚れさせる自信があるのなら殺してみろよ、アンタにそれが出来ればの話だけど」
ことさら挑発するのは、相手が明らかにそれが出来ないと踏んでの事だった。
そうでなければ常人のが自分自身を追い詰めるような事などしない。尤も、この少女の部下達は涼しい顔をして人間一人を消しそうだったが。
「わ、わたしは、そこまで」
「んな事分かってるっつーの。邪魔なら消すって思考の持ち主なら誘拐なんてせずに予告なく殺すだろーが、だから訊いてんだろ。おれを拉致った理由は何ですかって。それともただ単に殺せないなんて今時ダッサイ軟弱な理由?」
舌を縺れさせている少女に、は三度目の同じ質問をする。
しかし言葉で返答はせず、代わりに今まで背後に佇んでいた男が、横からA4サイズの書類をの前に差し出した。
「率直で胸糞悪い返答ありがとよ。回りくどくないだけ腹が立つほど清々しい」
難しい事が書いてあったが、直訳するとこの女はを所有物にしたいのだという。
「続を恋人にしておれがペットね。目利きは確かだな、素敵なご趣味をお持ちのようで」
書類を机に戻しながらはそれまでの笑みとは違い、とても穏やかな笑い方をして優美に足を組み替えた。
誰もが見惚れるようなその笑みで、少年はゆっくりと言葉を吐き出した。
「身の程を弁えろ、下種」
「……身の程はどっち」
「口を閉じろ、ドブ臭えんだよ、クソ売女。雌豚の下僕なんざ金積まれたって願い下げだ。家畜の分際で人間様と交尾しようなんて笑えねえよ、豚は豚同士で目合って腹ン中で仔豚孕んでろ」
熱い液体が顔半分にかかる。
視界に映るのは醜く歪んだ少女の顔と、相変わらず笑っている少年の顔。男の姿を探そうと目配りをすると、今度は頬を平手で叩かれた。
「そうやって怒るって事は自分が豚だってそれなりに理解してる訳だ?」
「女性と年上に対する礼儀ってものを教えて上げるわ」
もう一度、今度は反対の頬を叩かれての口の中が切れ血の味が広がる。従兄弟達と違いヤワな体だな、と冷静に思った。
「この子もね、生意気な子だったの。でも顔は可愛いから躾直した後で私が飼ってあげてるの、ただの貧乏な学生だったけど今は私の屋敷で何不自由なく幸せに暮らしてるわ」
相変わらず笑っている少年の指に触れ、少女はそこから立ち上がる。
「ここにいる2人は説得のプロよ。すぐに気が変わるわ」
「気が狂う、の間違いだろ」
「口が減らないのね。でも拷問じみた野蛮な行為は嫌いだから安心しなさい、あくまで話し合いを尊重するわ」
「拉致した男をペットにしたり、紅茶を投げ付けて平手で殴るのは野蛮じゃねえって神経がイカれてるな。それで淑女気取りかよ、ああ、豚社会なりの淑女って事か」
言った瞬間、少女は拳を握ったが精一杯の表情で自分が優位に立っている事を誇示した。
逆上させたのはマズかったかなと考えたが、あのまま冷静に事を運べるほどは大人でもなかった。また、どちらにしても、その説得とやらを受ける羽目になっただろう。
「何とでも言いなさい。どうせ逃げられないまま、私の物になるんだから」
「妄言も大概にしとけよ、豚面。家畜に飼われる身なんざ御免だね」
「好きに言ってなさい」
その言葉を最後に、少女は少年を連れて部屋から出て行った。
予想通り、扉の影からは黒いスーツのSPの後ろ姿が見える。あそこを逃走経路に使うのは無理そうだとは現時点での脱出を諦めた。
「で。ちょっとばかし訊いておきたいんだけど、アンタらの説得という行為には本当に平和的で肉体に負担はないの?」
「すぐに分かりますよ」
ナイフを持った男はそう言っての下半身に触れ、もう一人の男は明らかに怪しいケースを取り出し、更に怪しいアンプルをテーブルの上に乗せる。
ブラインドが自動で降り始めた部屋の中、思わず溜め息を吐いてしまう展開に、は落ち着いて一つだけ忠告してやった。
「先に言っておくけど、おれ、かなり高いよ?」
「ええ、見れば分かりますよ」
ナイフがゆっくりと服を切り裂き、露になった白い肌の上を男の手が這う。
その手を勢いよく弾きながらは男のネクタイを乱暴に掴んで顔を引き寄せると、妖しい笑いを浮かべ睨み付けた。
「何も分かってねえな、おれの料金は後払い。で、それはアンタらの未来全部」
冗談だろうと笑う変質者の目を真正面から見返しながら、は更に息が掛かるほど近くに男の顔を寄せ宣告する。
「精々後悔しろよ、おれでもアレは止める事出来ないから」
「本当に口の減らない坊やですね、けれど……そういう所も可愛げがありますよ」
キスをしてきた男に噛み付いて口の端から血を流す姿を眺めながら、過去にあった嫌な思い出を幾つか振り返った。
幼い頃に性的な暴行をしてきた輩が、その度にあの年長の従兄弟達に半殺しにされた記憶が呼び起こされ、愉快になる。
「最悪死ぬよ、アンタたち」
取り押さえられ、血液中に侵入した薬品に抗うようにして、は最後にそう呟いた。