微睡鳥の繭籠り
家に帰ろうとしていたのに、虚ろな頭での事ばかり考えていて、気が付いたら、従姉弟の家の方に足が向いていた。
あの時、擦れ違った人間は本当にだったのだろうか、ストレスが見せた幻覚ではないだろうかと、碌に働かない脳の中がそれで一杯になる。
あんな儚げな声で、今にも消えそうな声で。
一瞬の接触、その中で彼から汲み取った感情はあの鳳凰と全く同じもので。だとしたら、今頃はと、そこまで考え、自死という単語を脳裏から追い払い考えないようにする。
玄関のインターホンを押し軽く受け答えすると、数秒後に少し疲れたような表情で茉理がドアを開けてくれた。目の縁が、涙で滲んでいる。
「すみません、君、いますか?」
今更、何を言っているのだろうと自問する。
あれだけ傷付けておいて、感情に任せて抱いておいて。たとえ家にいたとしてもは続には会わないだろう。それでも。
「続、さん……そう、メール、見なかったのね。、いないの。帰って来なくて」
「いない?」
「昼間ふらっと出て行って、それっきり。連絡は……一応、付いたけど」
疲れているのではない、茉理の顔が、青い。
それは自分の所為以外、ありえない。
感情の浮かばない表情の下で、微かに、ほんの微かに、自分が笑った事を続は認識した。
茉理が何も言わないという事ははまだ昼間の事を誰にも打ち明けていないという事であり、そのと連絡が付いたという事は、まだ、生きている証だった。続にとっては、最早それだけで十分だった。そうやって生きて、何もかもを壊しながら壊れていけばいいと、笑ったのだ。
続の様子がおかしいと茉理は勘付いたようだが、が行方を眩ませた原因の一端である事までは気付かず、ふとした言葉が口を付く。
「ねえ、続さん。続さんは、の好きな食べ物、知ってる?」
一体何を言っているのかと脈絡のない質問に対する続の表情を見て、茉理は答えを察したのだろう。わたし、何も知らなかったと言葉を零した。
「今日の昼間にね、あの子に、好物を作って欲しいって頼まれたの。だけど、いざ作ろうとしたら、何が好きなのか知らなくて。続さん達の好きな料理なら、沢山知ってるのに」
食べ物だけではない。それどころか、好きな物も、嫌いな物も、得意な物や苦手な物ですら何一つ知らない事に気付いて、慌てて探しに出たけれどは見付からず、帰ってすら来ないと涙と共に言葉を零す。
しかし、続としてはそれが不思議でならなかった。
今更、何を言っているのだと。従兄弟である自分ですら気付いていた事なのだから、血の繋がっている茉理も分かっているだろうと思ったのに。
「君は、ここ数年の間、色々な物を隠していましたよね?」
「……そっか。じゃあ、わたしだけ、気付けなかったんだ」
だけ、という事は、いつかの時点で兄も気付き、茉理に伝えたのだろう。
最初はのそれをどうにかしたくて、纏わり付く鳳凰の影から引き離しをとして愛したかったはずなのに、何故、今はこうなっているのだろうと自問する。
そこまで考えて、続の思考が飛躍する。彼女は、始との関係を何処まで知っているのかという問いが心の中に浮かんだ。少なくとも、肉体関係を持っている事を知っているようには見えない。
それを言ったら、今の関係はどうなるのだろう。その想定をする前に、茉理が遠くの暗闇を見ながら何かを決意したような顔で、口を開いた。
「続さん、上がって。きっと始さんは反対するだろうけど、でも、どうしても続さんに見て貰いたい物があるの」
袖で涙を拭い顔を上げた茉理は、弟を心配する姉の顔で続を招いた。
「いえ、ぼくは」
「の部屋にあったの。多分、が続さんの告白に応えられなかった理由」
そう言われ、続の中で見て見ぬ振りをされてきた不安が急速に膨れ上がった。
が続を拒絶するのは、始を選んだからだと、先導する茉理の背を追いながら必死に言い聞かせるが、不安の膨張は収まらない。階段を登る毎に、絞首台に向かう死刑囚のような気持ちに近付いた。
茉理に案内され階段を上がりきり、光を押さえた廊下を歩んでいく。
半開きになった部屋のノブを握り、ゆっくりと開いていった。
重くないはずなのに、その扉を開ける音が何故か重かった。
「これが?」
目の前に映った光景に絶句する。
暖かさを感じさせない、ベッドとパソコンと本棚しかない、色のない部屋。光源は十分なのに暗く感じさせ、物はあるのに人の気配がなく、伽藍堂に見える。
「あの子、悪い夢を見るって言ってたの。それを、始さんに相談してたって」
「……兄さんに?」
泣きながら謝罪するの顔と、弱りきったを庇った始の殺気が、この部屋に巣食う悪夢と混ざり合い、氷塊となって続の背を滑り落ちる。
俯いて話す茉理の言葉をもう聞きたくないと思っても、腕が動かず耳が塞げない。
「笑いながら、冗談みたいに言ってたの。わたしが、女神様として出てくる、悪夢だって」
冗談なんかではなかった、何一つ笑えない、茉理の声と続の胸の内の声が重なる。
に似た鳳凰の声を間近で聞いてから、ずっと避けていた事実を、目の前に突き付けられた。が前世の事を知っているはずがない、なんて事はないと。
「そこのファイル、読んでみて。わたしは、下にいるから」
それだけ言うと、茉理は部屋の扉を閉める。
読まなくても知っている紙束を指され、続は咄嗟にどうするべきか分からなくなった。既に取り返しがつかない形で終わらせてしまった事を、もう一度突き付けられて。
これでは、避けようとしていた前世と全く同じではないかと、唇が震える。
一人で勝手に勘違いをして、感情のまま先走り、目の前の者を傷付けて、言葉と態度で蔑み、全てが手遅れになってから真実を知って。
そして、愛しいと、共に生きて行きたいと、守りたいと気付いてから、彼以外の他の全てを守るために彼を見殺し、転がった首と地に伏した体が消滅する様を見届け、誰にも気付かれないよう、粗末な墓を建てるのだ。
「……っ」
いつも、あの夢を見た後で感じた恐怖と後悔が押し寄せ、罪の意識が脳と臓腑を裏側から掻き毟った。
何故分からなかったのかと。何故、兄のように歩み寄れなかったのかと。何故、待つ事すら出来なかったのかと。どれだけ問いかけても今更遅かった。
退路を断ったのは、続自身だった。
「君」
名前を呼んでも、部屋の主から返事などない。
恐らく、一番古いであろうファイルを手に取り、ゆっくりとページを捲る。そこには拙い字と少ない漢字で、前世という名の悪夢が綴られていた。何年も前の日付の下、小学生の低学年で習う字ばかりで。
それに反して内容は幼さの欠片もなく、首を跳ねられた時の状況、そしてあの鳳凰の感情が、記されている。自身の気持ちは、一切文字として載っていない。殺す側の続ですら狂いそうになったそれだ、態々、書く必要すらなかったのだろう。
最後の行に綴られた、今よりずっと幼い頃の文字で視線が止まる。
「つづくおにいちゃん」と、たった、それだけ。
どんな思いで、どれだけ長い間、狂わないよう全部の感情を押し殺し、心に蓋をして、祈るような気持ちでいたのだろうか。
助けを求められずにいた鳳凰と、何等変わりのない今の。何も出来ずに、誰にも話せずに、誰かに縋る事も出来きずにいたのか。いや、きっとこれに気付いたであろう始には縋ったのかもしれない。だからこそ、あの時、始に助けを求めたのだと。
あの時、が続の目の前で何かを隠したと気付いた時に、正面から向かい合うべきだったのに。は心が弱い子供だと知っていて、何故そうしてやらなかったのか。
恐怖に晒されて立つ事すら出来なくなった時に、何故更に追い詰めたのか。殺すという言葉に過剰反応した姿に、何故疑問を持たなかったのか。言葉すらまともに話せず、ベッドの上で涙ながらに懇願していたのに、何故追い打ちを掛けたのか。
「何をやって。ぼくは」
守りたかったのではないのか。今度こそ、失わないように、傷付かないようにしてやりたかったのではないか。
彼が他者に心を開かず深い疑心を持っているとずっと前から知っていて、それを解いてやらなかったのは誰だ。
「取り返しの付かない事を」
自分で壊したくせに。自分のものにならないのならと、全部自分の手がやったくせに、他でもない自分自身がを殺そうとしているくせに、そう意識が叫ぶ中での携帯を呼び出してみる。
出るはずはないと分かっていても、それでも。
しかし意外にも、すぐに通話が可能な状態になった。
『もしもし、続さん?』
「君……!」
『良かった。メール、見てくれたよね』
普段とは違う、砕けて、はっきりした口調。明るいのに、感情が掴めない声。
無理矢理抱いた時には、あれだけ怯えていたのに。
『さっき、ごめんなさい。なんだか思わせぶりなやり方で。何度か電話してみたんだけど、出て貰えなかったから、でも、面と向かって、言えなかったんだ』
一方的に自分が話している事に気付いたのか、の言葉が途切れ、続の名前を呼び相手を確認する。
言葉にしなければならないのに、溢れてくる罪悪感に舌が凍る。
『続さん? どうしたの、何か、あったの?』
何かあったのは、自分が何かしたのはだろうという声すら出ない。
「君、君は、何故あんな」
『うん、興味だけでも持って貰えて、よかった。おれも丁度、その事を話したいなって思ってさ。メールの内容、今世とか鳳凰とか、そんなの書かれても続さんは意味分からないだろうから、ちゃんと、おれの口から説明しようって』
「……ています」
『え? ごめんなさい、よく聞こえなくて』
「君、今、何処にいるんですか?」
声だけでは、言葉だけでは伝えられない。こんな感情、それだけでは持て余してしまう。
許されなくても、それでの心が戻る訳ではないけれど、けれどもう失いたくない。自分に向けられなくていい、が兄と幸せになれるのなら、もう一度、幼い頃のあの笑顔が彼に戻るのなら。
溢れそうになる涙を堪え、続は俯き、祈るような気持ちで言葉にした。
「お願いします。どうか、何処にいるのか、教えてください。何も、酷い事は何もしませんから、だから教えてください」
『……』
「君」
『……続さん、もしかしなくても、おれの家にいますよね』
の口調が変化する。正確には、続に接していた時のものに戻る。
「ええ」
『部屋に入りましたか?』
「丁度、中にいます」
『そっか……じゃあ、どうしよう。ファイルも読みましたよね? 参ったな。説明する事、大半がなくなったんだけど。ええと、そういう事なんですけれど、それでも、おれは』
「君?」
『あ、まずい。隣にいます、来てください』
プツン、と音がした。
後に聞こえてきたのは、通話が途切れた音だけ。
「となり……隣? 学校にいるんですか?」
窓の外は既に闇に飲まれ、母校の姿は肉眼では見えない。
何故がそこにいるのかは、分からない。
けれど、今の続にとって、そんな事はどうでもよかった。