微睡鳥の繭籠り
「始兄さん! が、が」
「あ、茉理ちゃん! 始兄貴が帰って来た、今代わる!」
滅多な事では狼狽えない終が完全に落ち着きを無くし、受話器を握り締めたまま帰宅したばかりの長兄を見上げ、早くこちらに来るようにと急かす。
弟達の様子と、茉理からの電話。そしての事。
それだけで、始の不安を煽るのは簡単だった。
「もしもし、に何か」
『始さんと会わなかった?!』
「いや、朝に別れたきり」
『、昼頃に家を出たまま帰って来なくて、それでにも、続さんの携帯に連絡しても出なくて、もしかしてそっちに行っているかもと思ったんだけど、どうしよう、わたし、あの子の事』
「茉理ちゃん、落ち着いて。何があったんだい? 一から話してくれないか」
が行方を眩ませた、それがどんなに大変な事かは理解している。けれど、この従姉妹の慌てようを聞くとそれだけではない気がする、そう判断した始は自然と受話器を握る手に力を込めた。
「昼頃に出て行ったっていうのは」
「始兄さん。、今日は授業が始まる前に早退したんだ。真っ青な顔色だったから、続兄さんに頼んで来て貰って」
「続に?!」
声を荒げた長兄に年少組と電話の向こうの従姉妹は驚いたように肩を跳ねさせる。
「いや、すまない。それで、茉理ちゃんが帰った時には、続はいなかったんだね?」
『え、ええ。それでは、葉書を投函するから出て行って。でも、その時』
「茉理ちゃん?」
『ごめんなさい、それに、ありがとう、始さん。を支えてくれて、わたし、あの子が苦しんでる事に全然気付けなかった。あの子の事、何も知らなかった』
「……が、直接言ったのか。いや、言えたのか」
『違うの。帰って来ない事が心配で、電話にも出なくて、手掛かりがないか、あの子の部屋に入って』
あの無機質な、恐怖と悪夢が凝縮された部屋に入ったのか、とは始は責めなかった。鍵すらかけていなかったという事は、それは意図的なものだと、そう判断した。
は家を出る前に、茉理に対して何らかの形でそれとなく示唆したのだろう、前世の夢を、始にだけは打ち明けていると。
『これ以上、わたしが連絡しても、きっと出てくれない。始さんからなら、も応えてくれると思うから。せめて、無事かどうかだけでも知りたいの』
「分かった」
茉理からの電話を切りすぐにに連絡をつけようとしたが、始は一旦それを止め、の周囲で他に妙だと思える事はなかったかと尋ねた。
口では大丈夫と言っていても、の心は常に限界の一歩手前で踏みとどまっている状態に過ぎない。何も知らずに会いに行けば、途端に全てが溢れる。
余の言葉通りならば、は始と別れた後に続と接触して、その後に自宅へ帰っている。昨晩のあの様子から考えて、続がに何もしなかったとは考えられない。むしろ、何かされたからこそ、は茉理に抱え込んでいた物を気付かせたとしか、始は思えなかった。
まだ、続への、紅竜王への恐怖に支配されたままの状態で、一体何をされたのか。昨晩目にしたの怯えようを思い出した始は、ゆっくりと奥歯を噛みしめる。
『……そう、いえば。制服と一緒に、私服が干してあったわ。いつも始さんの方に泊まる時は、そっちで洗濯を済ませてるのに、少し、変よね』
少し所ではすまない言葉に、一瞬、始は茉理が何を言っているのか理解出来なかったが、それを声にする前に気付けた。茉理は昨夜、が竜堂家に宿泊しているものだと今も思っているのだ。
学校から鳥羽家へではない。は間違いなく続に連れられて、竜堂家へ来ている。そして着替えざるをえない何かをされている。
手元から一度離し、早急に手も打たなかった自分の失態だと悔やむが、既に全てが遅かった。始は学校にいる間は安全だと思っていたが、それを見越して、登校前に続が接触したのだろう。
終と余から、始が帰る前に続が一度帰宅してまた何処かに行ったと告げられた時点で釘を刺すべきだったと後悔しても遅い。そして、昨晩の事を誤魔化さず、極力続と会わせないよう言うべきだったのに。
「……ありがとう。と連絡が付いたら折返し電話するよ」
『始さん。あの、続さんには』
「まだ、それ以上は何もしないでくれ。先に見付け出したい」
『うん。そう、よね……ありがとう、始さん。の事、お願い』
「ああ。それじゃあ、一旦切るよ」
後手に回ってしまった現状、既に先を越されている可能性もあるが、それを茉理には言わず、受話器を置く。
振り返ると余が青い顔をして始を見上げていた。会話の詳細までは聞こえていないはずだが、大筋を悟り、自分の所為だと責めているのだろう。
「余は悪くない、を心配したからこそなんだろう?」
「も、始兄さんと同じ事言った。でも、ぼくが続兄さんに連絡をしたんだ。二人がこんな風になってるなんて思ってなくて」
「それに関しては、昨日の事を説明しなかったおれに責任がある。続を止められなかった事も含めてな。今からを探して来る。終、しばらく余の事を頼んだぞ」
指名されるまでもなく、終は余を庇い、支えるように隣に立ち、今は無人の居間の方を見る。そちらで待っているという意思表示だろう。
「分かってる。でも、後で全部説明してくれよ、始兄貴」
「片が付いたらな」
そうは言ったが、実際、どのように事態を収拾すべきか始には分からなかった。
ただ、少なくとも今は、続よりも先にを保護しなければならない。そう思い、携帯電話を片手に続の部屋へと足を運ぶ。帰宅するまで気付かなかった着信は、履歴を辿ると茉理と終と余、そして自宅からの呼び出しで埋まっていた。
しかし、帰宅途中でこれに気付いた所で何が変わっていたのだろうと逸れた意識を必要な部分に戻す。
服を変えなければならないような事、となると選択肢は限られる。最悪の事態を想像して部屋のドアを開け、そして、拍子抜けした。綺麗な、いつもと同じ弟の部屋だ。
息を吐こうとして、次に、茉理の言葉に違和感を覚える。
彼女は、の部屋のベッドの事には言及しなかった。今朝、始が起きた時には、昨晩の行為がシーツの至る所に色濃く残っていたにも関わらず、特に何の変哲もないと判断を下したのだ。
最悪の想像だったものがほぼ正しいと結論に達した始は携帯からの番号を探し出し、自室に入ってから電話をかける。万が一にでも、会話の内容を弟たちに聞かれないために鍵までかけた。
数回のコール音の後、音に満たない音がして、通話が可能になった。
ただ、向こうから一切返事はない。
自分を落ち着かせ、ゆっくりと声を出してみる。
「」
『……』
「。おれだ、始だ」
『はじ、め』
耳に届いたのは、気怠げで小さな、今にも掠れて消えそうな声色だったが、間違いなくの声だった。
ほっとして取り落としそうになった携帯をもう一度掴み、の言葉を待つ。
『……は? え、始? 嘘、今何時!? ご、ごめんなさい。寝てた』
しかし、次に放たれた想像とは異なるの反応と言葉に、始も思考が停止する。
「寝、ていた、のか」
『り、履歴見れない。今、かなり大事に、失踪扱いされてるよね。ただでさえあんな、姉さんとか、つ、続さんとか、どうしよう、絶対大丈夫じゃない。説明しないとだから、休憩したら、家に帰るつもりだったのに。始さんどっちの家にいるの? 皆いる?』
「、落ち着け。今、一人なんだな? 何処にいるんだ?」
『う、うん。一人で、学校の屋上に、その、侵入して』
「寝ていたのか」
『こ、こんな時間まで、寝る、つもりはなかった、んだけど』
「……ああ、そうだな。寝不足はおれが原因だ」
昨夜といい、今といい、乱高下する絶叫アトラクションに乗っている気分だと額に手を当て、けれど、居場所と無事を確認しただけで状況は何も変わっていないと、すぐに冷静になり現状を受け止める。
が、続に陵辱されたという想像は、まだ覆されていない。そして、前世の事を茉理に開示したというのは事実だ。
今だって、電話越しに平気な演技をしているだけかもしれない。そうでなくても、このまま家に連れて帰って来るのは、誰にとってもいい事ではない。
学校の屋上という事は、の自宅とは目と鼻の先だが、それは茉理に伏せて連絡し迎えに行こうとネクタイを外しながら部屋から出る。通話はまだ、繋がったままだ。
「今から迎えに行くから、そこを動くんじゃないぞ」
『うん、じゃあ、待ってる。あの、始、そこに余さん、いる?』
「……まだ碌に説明していない」
『説明が必要な段階なら、なおさら、代わって欲しい。多分、参ってると思うから。呑気に昼寝してましたって伝えれば、少しは楽になるよね』
当人も楽にならなければならないのに、とは思ったが、確かに余をあのままにして家を出る事は始も躊躇われた。
「何処にいるかは伏せてくれ」
『続さんもいるから?』
「いや、続はいない」
『……そうなの? そっか、いないんだ』
「?」
『分かった。始に言われた通り、大人しく待ってるから、余さんに代わって』
交換条件でもないのにそう告げるに思わず笑みを零し、居間に顔を出すと不安そうな年少組が同時に始の方を向いた。
「と連絡が付いた。余と話したいそうだ」
始の表情が先程よりも和らいでいるのを感じ取れない訳ではないのだが、それでも余は緊張した面持ちで携帯を受け取る。
そうして電話の向こうにいるの声に耳を傾けていると、余の表情に呆れとも困惑とも付かない感情が滲み始めた。それを見ていた終は、一体何があったのかと始を見上げる。
数十秒の短い時間でおおよそのやり取りが終わり、の方から切って構わないと言われたのだろう。折り畳んだ携帯を手渡しながら、なんとも言い難い表情で余が始を見上げた。そして、見上げられた始は静かに頷く。
「始兄貴、余、何があったんだ?」
「……、今までずっと寝てたって。外で」
「寝っ……嘘だろ?」
「おれの電話で起きたらしい」
「そういえば。早退する時も、寝不足って言ってた」
「そんなのアリかよお」
でもキレた続兄貴に監禁されてたとかじゃなくて本当に良かったと冗談めかした口調で終は言い、その後で顔色が戻り始めた弟の頭を撫でる。
「あー。安心したら一気に咽喉乾いた」
「僕持ってくるよ、冷たいお茶でいい?」
「ついでにお茶菓子があるといいなあ」
「まあ、それでも摘んでゆっくり待ってろ」
余がその場から遠ざかり、小さな背中が完全に見えなくなってから終は姿勢と表情を正して始を見上げた。
終は高校生らしい高校生で、常に溌剌としている闊達な少年だが頭の回転は早く物事を正確に判断出来る能力を持っている。それを始も理解していた。
だから、次の台詞に動じる事はなかった。
「何があったか知らないけどさ、が無事ってだけで、何も解決してないよな」
「そうだな」
「続兄貴の事、どうするつもりなんだ」
「がどうしたいかによる」
「策なしって事かよ」
終の言う通り、が見付かり連絡が出来た、ただそれだけだ。誰の感情も、取り巻く状況も、何一つ好転などしていない。
余も、完全に落ち着きを取り戻せばそれに気付くだろう。その不安がこれ以上拡大する前に解決の糸口を、始は探さなければならなかった。
「寝てたってのは」
「確証はないな。気休めの嘘かどうか、半々だ」
「……始兄貴ってさ、と、どういう関係?」
疑わしいという気持ちを隠そうともせず、当然のように、切り込まれる。
従兄弟同士、などと言い、はぐらかせば終が烈火の如く怒るのは目に見えていた。仕方なく、事実の一部を公開する。
悪夢のような前世も、優等生の裏で騙し隠していた本心も、爛れた体の関係も、全て伝えるのは、少なくともの同意が必要だろうから。
「相談に乗っていた。色々とな」
「続兄貴の事とか?」
「それもあるが、それ以外もある」
さしあたって、と始は呟くように言った。悩ませてしまうかもしれないが、きっと終ならば立ち直れるだろうという信頼がある。そして、これくらいならば、自分が言っても問題ないだろうと。
「次に余と遊びに行く時は、も誘ってやれ」
その一言で、どのような意図で何を言われたのか正確に理解したのだろう。
終はソファに突っ伏すように倒れ、クッションに埋もれながら、そうだった余と同い年でおれより年下じゃんと呻いた。
そこへ、2人分の麦茶と米菓を持って余が現れる。
「どうしたの?」
「なあ、余。が帰って来たらさ、今度、3人で遊びに行こうな」
「うん、行きたい!」
「じゃあ、おれはを迎えに行って来るから。大人しく待っているんだぞ」
これ以上は始に心配をかけまいと、努めて明るく振る舞おうとする弟達の気遣いを汲み取り、始は家を後にする。
茉理の番号に電話をかけながら、始はその長身を闇の中へ踊らせた。