微睡鳥の繭籠り
普段ならば給料分程度の愛想で対応していたが、今日は、腹の底の全てが表面に出てしまうほど気分が悪い、ついでに機嫌も。
酒に任せて嫌な事を忘れるような酔い方も出来ず、後始末もしないまま部屋に残してきたの事ばかりを考えて、更に苛々が募る。
同時に、本質を見抜けず振り回されていた自分自身にも失望していた。
も、続を引っ掛けようとするこの女と同じように、他の男と、よりにもよってあの兄と寝た体で自分と付き合うつもりだったのかと感じ、また不快な気分になる。
何故に選ばれた相手が、この世で唯一勝てないと思っている人間なのだろうか。
続にとって絶対的な存在である始に勝てる自信など、どこにもなかった。始に対するそれよりもが憎くなるのは、その感情が向けやすかったからだと自覚して、更に落ち込む。自分よりも弱者であるを嬲り者にして全ての感情の捌け口にした後悔が行き渡るも、瞬く間に憎悪へ飲み込まれる。
想いを告げたのは自分なのに、兄を頼り体を許したが憎い。
だから、あんな事をした。
これからも、きっとするだろう。が深く深く傷付いて、壊れてしまうまで。
「……」
一体どこから、歪んでしまったのだろうかと考えても、答えは見付からない。
「おい、今日はもう上がれ」
唐突に話しかけられて、続は一瞬素の表情に戻ってしまった。
いつのまにかカウンター越しに座っていた女性は消えていて、うちも客商売だからと愚痴るマスターの言葉を背中で聞きながら、意味もなく上がらせてもらう事にした。
「茉理ちゃんから?」
店の外に出て携帯を確認してみると、短時間に何度も従姉妹の茉理から着信があった。留守電にもメッセージが入り、続の無反応に焦れたのか、メールも何通か届いている。
どうせの事だろうと、すぐに見当が付いた。もしかしたら、既にあの行為が彼女に露見したのかもしれない。そうならば、こちらから連絡をしたくはない。する必要もないと、続はそれらを全て消去する。
そうして残った物に目を通すと、目を覚ましていたらしいからも昼過ぎにメールが一件だけ届いていた。その前に、時間を置いて何度か着信があったが、今更何を話すつもりなのだろうと思い、これも全て消去する。
始からは、昼頃に一度だけ、メールで連絡が入っていて、続もこれだけは目を通した。もう一度、3人で話し合うべきだという内容だったが、返信をする気にはなれない。ただ、分かったのは、は始に告げ口などしなかったという事だ。
を軽く脅しつけただけで圧し潰されそうな怒りを滲ませていたのだ、強姦されたと知れば話し合いなど悠長な選択をするはずがない。
常に泰然としているように思われがちだが、始は、続を育てた兄だ。優しく、甘いだけの男ではない。
「どうしましょうか」
このまま家に帰るべきか、それとも、何処かで適当に時間を潰すか。短い時間考えて、今日は帰ろうと続は家の方へ足を向けた。
もうどうでもいい。愛情など向ける必要はない。脅して屈服させ、手許で飼い馴らせばいいのだ。あんなを幸せには出来ないと悟った。そう自分に語りかける。
ふと、顔を上げると、前方を歩く人影の中にによく似た影を見たような気がした。
少しずつ続に近付いてくる影はとても儚げに見える。どれだけ距離を詰めても輪郭が何故か霞んで見えて、きっと背格好のよく似た他人だと続は結論付けた。もしも目の前から歩いて来る人間がならば、どんな状態でも気付くはずだからと。
「よりにもよって君を見間違いなんて」
自嘲して見せて、足を少し速める。
3歩、2歩、と距離が縮まり、隣を擦れ違った少年を気にしないように前を向いた。
「ありがとう、仲卿」
耳元で囁かれたその言葉に呆然と立ち尽くし、心臓が凍てつく。
数瞬の空白。我に帰り振り返った時には、その姿を雑踏の中で目当ての影を見付ける事が出来なくなっていた。
「……君?」
幻覚だったのか。幻聴だったのか。
幻覚だ、今のは、彼は、きっと自分の見せたあの鳳凰の幻だ。ではない、であるはずがない。で、あって欲しくない。
混乱する中で携帯を取り出し、先程のメールを確認しようとするが、既に消去してしまった事を思い出し、人混みの中で立ち竦む。仲卿と、前世の名を呼んだの声だけが、続の耳の中にいつまでも残っていた。
「君がこんな所にいるはずが、知っているはずない」
続は自分に言い聞かせるように呟き、体を無理やり自宅へと向けていく。
遠くから、その後ろ姿を、雑踏に紛れたひとつの影が見つめていた。
「ほら、やっぱり、届かない」
儚い笑みを残して、は黄昏を帯びてきた空を見上げ、また笑った。