微睡鳥の繭籠り
雨が降る気配もないので閉めないでおこうとは自宅のソファに横たわったまま目を閉じ、体の疲れを癒やす。
結局、あれからしばらくしても、続は帰って来なかった。
仕方がないので、痛みを無視してシャワーを浴び、痕跡が残らないように続の部屋を片付け、胃液と精液とよくわからない体液が混ざって乾き無残な姿となっていたシーツも、コインランドリーの力を借りて元に戻して来た。
それから、共和学院に隣接する自宅へと帰り、こちらも中々に酷い状態になっていたベッドのシーツも同様に。制服と、補導回避のために着込んだ竜堂家に置いてある私服も、あの恐怖が染み付いているような妄想に囚われ、洗濯にかけた。
いつもは帰宅すると自室に直行して引き篭もる。けれど、今日はそうしたくなかった。
あの前世を一纏めに括ったような部屋の中で、夢で見た内容を、とても書き留める気にはなれない。当然、記憶媒体に打ち込む事も止めた。
体が痛いな、と薄暗いリビングの中で器用に寝返りを打つ。
そろそろ姉が帰宅する時間だとわかっていたが、それでもそこから動く気にはなれなかった。分かっていたからこそ、なのかもしれないとは自分の考えを訂正する。
薄いタオルケットで体を包み、先程見た夢と感情を擦り合わせ、微睡みながら、これからどうしようかと考えた。
始と青竜王、続と紅竜王、二人への恐怖は既にない。青竜王は鳳凰を抱くような男ではなく、紅竜王は鳳凰を強姦するような男ではない。そして、鳳凰もまたではないと理性と感情が一致した。
つまり、夢は所詮、夢に過ぎず、前世は所詮、前世に過ぎなかった。始を好きになれない理由は、始が好きになれないからであり、続を好きな理由は続が好きだから、という身も蓋もない答えには行き着いた。
そして、始はが好きで、を奪うつもりでいる。ここまではいい。
「続さんが、よくわかんない」
続は、に不信感を募らせ見限ったはずである。自分よりも始を選んだに失望し、怒り、暴力で感情を爆発させた。恐怖で麻痺していたとはいえ、苛立たせた彼から酷い事をされる想像は出来ていた。
覚悟は出来ていなかったけれど、それはまた別の問題だと横に置く。
言葉や物理で暴力を振るわれるのなら、理解出来る。続なら、場合によっては社会的抹殺すら躊躇せず行うだろう、何せ、学校理事で教育者と中学生の組み合わせだ。今回は、その相手方が始だったからこの手は使わなかったのかもしれないが。
「なんで性暴力なんだろ」
無理矢理抱いて、強姦して、それでをどうするつもりだったのだろうか。続がそのような性癖だというのなら分からないでもないが、朧気な記憶を掘り起こしても答えが見つけられず、はますます混乱した。
心を、欲しがってた気がする。追い詰められていた時の記憶なので定かではないが、記憶に留めている限りの続の言葉を一つ一つ思い出しながらは意図を想像する。
自分ならば、真っ先に相手の罪悪感を刺激するが、それで心は手に入らない。愛情は始に与えたと思われている、それを上回る感情といえば憎悪だが、そんなものが萎えるくらいに犯されている時は恐怖していた。
それこそ、紅竜王へのそれが掻き消されるくらいに。
「……ああ、そうか。恐怖か。というか続さん、まだ、おれの事、好きでいてくれるんだ」
姿を目にした途端、相手の事で脳が一杯になるのは、何も愛情と憎悪だけではないとは身を以て知っている。
それで全てが狂ったのが、つい昨日の事なのだから。
「いやだな。続さんの事、怖がりたくないのに。やっと、違うってわかったのに。おれも、続さんの事、好きなのに」
けれど、言っても仕方がない事くらいも理解していた。
あの鳳凰は、声さえ届けば、どうにかなると思っていたようだけれど。そう唾棄する。
「あいつは、最期まで鳳凰だった」
おれは人間だ、そう呟き大きく息を吐くと同時に、玄関の扉が開かれる音がした。そのまま蓑虫状態でリビングで待機していると、茉理の白い手が明かりを点け、同時に恐怖で跳ね上がった。
怖くもなるだろう。何もないと思っていた薄暗いリビングのソファの上に、タオルケットの塊が蠢いていたのだから。
「!?」
「お帰りなさい、姉さん」
慌てて駆け寄られ、額や首筋に触れられる。
その声や、白く柔らかな手には、あまり恐怖を抱かなかった。
怖い事は怖いが、始や続ほどの恐怖は感じない。太真王夫人は二人の竜王と違い、直接処刑に関わっていないからだろう。
「ごめんなさい、驚かせて」
「ううん。そんな事より、動けないくらい辛いの? お医者様には診ていただいた?」
学校はどうした、何故ベッドに行かないのか、連絡の一つもして欲しかった、ではなく、顔も見ない内に体調不良だと看過して、未だ診て貰っていないのなら一緒に病院に行こうと心配してくれる弟思いの優しい姉が、は好きだった。
これが母ならば、一人でかかりつけ医の所まで行けるかとまず尋ねる。父はきっと、体調不良にすら気付かない。
「顔色が悪いからと、帰らされました。どこも悪くありませんし、無理をしているつもりはなかったんですが、まだ酷いですかね」
「病院には行ってないのね。そうね、でも、声が枯れていて、隈がうっすらある気がするけど、顔色は大丈夫そうよ。熱もないみたいだけど、風邪のひき始めかしら、ベッドには行けそう? お粥作って持っていってあげるから」
こうなってしまった以上、あの部屋に茉理を入れるつもりではいた。
けれど、出来る事ならばそれは続の後がいいと勝手に決め、食欲がないからと断る。当然のように体調不良を心配されたので、適当な嘘を吐く。
「最近、夢見が、よくなかったので」
「そういえば、前に向こうに泊まった時も」
パニックホラー系の夢を見たと誤魔化した日の事を言っているのか、茉理は少し考えるような仕草をした後で、明るい表情で両手を合わせた。
「悪夢を人に話すと見なくなるって俗説、と私で試してみる価値はあると思うわ」
「その俗説はもう、始さんと挑戦している最中なので」
「そうなの? じゃあ、もしかして、この間言っていた内緒話って」
「はい、実は」
笑顔で嘘に嘘を重ねるが、真実も同時に入り込ませる。
既に巨大な真実を嘘で塗り固めて隠しているので、バレた所で大した問題にはならないだろうとは素知らぬふりをした。
「そっか、なんだかちょっと悔しいな。の姉弟は私なのに、始さんが頼られて」
「少し、話し難い夢だったんです。姉さんが女神様になっていたり」
「……悪夢の話よね?」
「あ」
「こら、。どういう事か説明して貰うわよ」
思わず口を滑らせた体で大きな真実を混ぜ、姉の追求を躱す弟の表情を浮かべる。茉理も茉理で、仲のいい姉弟のコミュニケーション程度の態度で接してくるので、誤魔化す演技も簡単に通せた。
それでなくとも、は長年、彼女を騙して来たのだから、容易い事だった。
「これでも早退を促された病人なので、どうかお手柔らかに」
「今すぐ中等科まで走って授業に戻れるくらい元気な病人ね」
呆れたように茉理が言った直後、近隣の校舎から発せられたチャイムが二人の耳にまで届いた。壁の時計を確認すると、昼の休憩時間が終わった事を知らせるものだった。
「戻りますか? 食欲ないのは本当で、実はまだ、ご飯食べてないんですけど」
「冗談よ。消化にいいもの作ってあげるから、少し待ってて」
「……今日だけ、我儘言ってもいいですか。食後に、おれの好物食べたいです」
「珍しいわね、がそんな事言うなんて。わかったわ、病人だものね、ちょっと時間がかかるかもしれないけど、特別にデザートも作ってあげる。その代わり、ちゃんとご飯も食べるのよ?」
多分、今のは無意識に従兄弟と同じように対応したのだろう。
こんな姉さんは嫌い、でも、おれを弟として扱ってくれるから太真王夫人ではない、と胸の内で呟き、は子供の顔で笑みを深めた。
「やった、嬉しいな……そうだ、忘れてた。姉さん、葉書出しに行きたいのでちょっと出掛けます、すぐ帰って来ますから」
「寄り道しちゃ駄目よ。一応病人なんですからね」
はあい、と年少組を真似て間延びした返事をしてから、はタオルケットを脱ぎ捨てて堂々と家を出る。今後の為に、財布と携帯電話だけは持って。
「多分、部屋に入られるだろうなあ。シーツは洗ったから、鍵こじ開けられても、その辺りはバレないと……あれ、かけてないや。服も……まあ、いいや」
校庭を走る同窓の生徒を横目に、は無駄に青い空を見上げながらぼんやりと呟いた。
「長い付き合いだから。先に、未練だけは、取り除いてやらないとなあ」