微睡鳥の繭籠り
は寒くもないのに真っ白な顔色をして、体を両腕で抱き締めたまま俯いている。一言でも会話を試みた瞬間、吐き戻しそうになった。
エンジンの止まる音を聞いて家に着いたのかと顔を上げる。そこは、あまりにも見慣れ過ぎた従兄弟の家だった。そういえば、移動距離が長かったような気がすると、恐怖で時間感覚すら麻痺させた脳が思い至る。
「一人で、歩けます……から」
「なら歩いてご覧なさい」
今までの習慣が抜けないのか、それともを逃さない為なのか、助手席の扉を開けた続は冷たくそう言う。
その方が、としては、ほんの僅かだが気が楽だった。
鉛のような体を引きずって玄関ホールまで辿り着いたが、恐怖に侵された体力はそこで限界を告げる。靴を脱ごうと体を屈めた瞬間激しい目眩に平衡感覚が完全に消失してホールに倒れ込んだ。
耳につく自分の呼吸が恐慌に陥る一歩手前だと教える。か細く咽喉が空気を出し入れさせる音が脳の中に反響し、大きく息を吸い込んだつもりでも、酸素が頭にまで回らない。
「何を怖がっているんですか?」
いい加減焦れたのか、続が耳元で囁いて乱暴にの体を抱え上げて階段を上っていく。
開かれた扉から流れ込んだ香りに、続の部屋なんだなと漠然と感じ、ベッドに投げ出された体が他人のもののように感じた。
吐き気のする体を横にしたまま青年を見上げると、丁度後ろ手にドアの鍵を締めているところだった。微笑しているはずなのに、その目はどこまでも冷たい。
奥歯を食いしばっても歯が鳴り、震えは酷くなるばかりで、視線も逸らせない。舌が凍り碌に話す事も出来ないの頬を、続は、表面上は優しく撫でた。その指と手の平の感触だけで、命の危険を感じた肉体が冷たい汗で警告をする。
「昨日の質問は覚えていますか?」
何処までも丁寧な口調で、殺気がへと降り注ぐ。
紅竜王と打ち合いをした時の恐怖が蘇り、は涙を流して嫌がるが、続の殺気は増すばかりで事態は悪化の一途を辿っていた。
続が、紅竜王が怖い。二人共殺気立っている。おれを殺そうとしている。
その考えで頭が一杯で、胃の内容物を逆流させないようにするだけで、既にの許容量は限界に達していた。
「覚えていますか、と訊いているんですが」
続の指がついと咽喉を滑り、唇を辿る。
再びその手が咽喉にかかり、緩く締め付けるような仕草をみせた。
気管支が押し潰され少し息苦しくなったが、斬られない事に安堵してしまったは、せめて呼吸だけでもと思い、胸を上下させる。
けれど、その態度が続は気に入らず、殺気が膨れ上がった。途端にの表情が、続の見慣れたものへと変化する。ただ、それは従兄弟としてではなく、続の超常的な力を目の当たりにした敵対者が浮かべるものだったが。
「答えられないのなら、質問を変えましょう。何故、君はぼくに怯えているんですか」
「こ、わい、から」
ようやくまともに返って来た声も、返答としての出来は最悪で、続は感情を剥き出しにした声を出す。
「違うでしょう。ぼくは、理由を尋ねているんですよ」
「や。やだ、もう、触らないで」
「触るな? 命令出来る立場だと思っているんですか? それに、何故ぼくばかり拒絶するんですか、兄さんには、あんなに」
昨夜の光景を思い出した続はそこで言葉を切って、の首から手を退かす代わりに、ありったけの侮蔑を込めて、その言葉を口にした。
「君を、この場で殺してやりたい」
その言葉を告げられた瞬間、は目を見開く。
紅竜王が鳳凰へ告げたそれと全く同一のものだったと気付いたのは、口にした当人ではなく、悪夢と恐怖に縛り付けられていた方だった。
「やだ……嫌だ、おねがい、殺さないで」
「冗談ですよ。殺しはしません」
「嫌だ! 来ないで! 触らないで……こ、怖いの嫌だ、死にたくない、こわい」
「だから殺さないと言っているでしょう」
抵抗しようとする体をベッドに押し付けて、暴れようとした少年を腕一本で拘束する。
殺さないでと譫言のように繰り返し、身を捩って逃れようとするを見て、続は薄く笑う。しかし、その昏い笑みも直後に崩壊した。
「死にたくない、こんなの嫌だ、助けて。始」
目の前で主導権を握る続ではなく、兄を呼び捨てて助けを求めたに、緩んでいた殺気が一気に部屋の中に満ちる。
「……気が変わりました。理由を尋ねるのも、後回しにします」
質問の答えが得られない以上、今の続が欲したのはの一番大切な部分だった。
どんな形でもいい訳ではない。愛という感情を兄に奪われた以上、精神的外傷になるくらい痛め付けて、その他の感情を一片も残さず自分にしか向かないように奪いたい。兄に対する時に幸せを感じるなら、自分に対する時には最上級の恐怖を、そんな歪んだ考えが続を今の行動に駆り立てていた。
だが、恐怖の中で兄に希望を見出すのならば、話は別だった。
「や、やだ! なんで、やめて、続さん!」
「何故? そんな事も分からないんですか」
何をするのか、ではなく、何故と問うに苛立ちを抱えながら、続は引き裂きたい衝動を抑え淡々と制服のボタンに手を掛けていく。
顕になった白い肌の上には、幾つかの内出血の跡が見れた。どれも真新しく、よく見なければ分からない、隠しやすい場所に。
先程の言葉を冗談などにせず、本当にこのまま殺してしまった方が楽になるのにと考えた続は、けれど、総崩れしかけている最後の理性を働かせ、たとえ自分の物にする為であったとしても、を殺す事だけは絶対に許されないと踏み止まる。
続にとっての死は禁忌だった。逆に言えば、最早禁忌はそれのみだった。
「先に体に従っていただきましょう、心は後で構いません」
もっと早くこうすればよかったと続は口の中で呟き、兄の独占欲が赤く咲いた肌に唇を寄せると、それを消し去る為に白い歯を立てた。