微睡鳥の繭籠り
夢も見ずに眠れたのは久し振りだと、は心地良いその中でもう少しゆっくりしようと思い掛け布を掴んで寝返りを打とうとした。
「……?」
動かないシーツと、いつもと違う枕。
「ああ、そうか」
近くにあった従兄弟の寝顔と腕枕。
こうして見てみると、普段は頑固そうな顔をしているけれど年齢より少し子供っぽく見える。彫りも深くて美しい顔に、長い睫、均整の取れた長身。とどめに、耳元に囁かれるあの声。何時しか当初の目的は流され、与えられた快楽に抗えず欲しいと強請り続けた昨晩の行為を思い出して、は酩酊したような息を吐き出した。
「今……5時半か、少し早く起き過ぎたかな。いや、そうでもないか」
「ん」
眠っていてまで眉間に皺を寄せ、夢を見ているのか目の前の表情が変化する。
「楽しそう」
他人の寝顔なんて、久しく見ていない。
は始の眉間をつつき、その度に深くなっては元に戻る皺に楽しそうな声を上げて更に細い指先で鼻梁をなぞってみた。
「ぅん、ん」
くすぐったいのか、もぞもぞと腕が動いて顔を擦ると従兄弟のぼんやりとした瞳がをしっかりと捕らえ、何の躊躇もなく口を開いた。
「なんで、がここにいるんだ」
「夢だよ。おれを抱いた夢、見たよね?」
「なんだ夢か」
「気持ち良かった?」
「ああ」
目の焦点が定まっていないのにはっきりとした口調でそれだけ言うと、始は寝返りを打ってまた寝てしまった。
始の頭はまだ寝ているようで、は可笑しくて声を噛み殺す。
普段はしっかり者の家長をこなす従兄弟の以外な一面を観察するのが面白いとは笑い声を抑えるように口元を覆う、我慢をしないと腹が捩れる程大声で笑い出してしまいそうで、直後、彼はベッドの中で奇妙な事に気付いた。
「あ、れ。怖く、ない?」
は始に一晩だけと言ったが、本当は、恐怖の克服を、そんな短時間でするつもりなどなかった。それをどうにか脳に焼き付けて、少しずつ、一人で解決するつもりだったのに。
なのに、この距離で始を見ても、は一切の恐怖を感じなかった。青竜王はあの鳳凰に寝顔を晒した事などなかったからかとも思ったが、そうではないと確信出来る何かを自分の内側に感じられる。
始の顔すら見られないのではないかと危惧したが、思っていたよりもの脳は雑に作られていたようで、恐怖も、そして羞恥すらも湧き上がらない。その事実を確認しながら、あまり痛みのない下肢をゆっくりと動かしてベッドの中から抜け出した。
始に抱えられ浴室まで案内した記憶まではある。パジャマが見付からなかったのか、適当に着せられた服に苦笑しながら、放り出されたままのグラスを手に階段を下りていく。
洗面所で顔を洗い、皺のないシャツに腕を通して新しいズボンに履き替えて、いつも通りエプロンを着用してダイニングキッチンへ直行した。
昨日の夜から何も食べておらず、慣れない、というよりも初めての過度な運動をした為なのか少しは物を食べる気になっている胃に、どんな時でも腹は減るんだよなと竜堂家の人間のような事を口にして冷蔵庫を開ける。
「終さんと余さんには連絡、するように頼んだ気がする。どのみち、この時間に電話はかけられないけど」
ふと、続はあの後どうしたのだろうと考えが過ぎった。
あの時は、恐怖で脳が一杯で、自分の心を告げられなかった。
一晩経って気持ちの整理を付けてみると、後悔の二文字しか浮かんでこない。これから、どんな顔をして続に会えばいいのかもは分からなくなっていた。
間違いなく、続には見下げ果てられ、愛想も尽かされた。
今から前世の話などしても、相手になどされないだろう。二度と話し掛けるな、自分の視界に入るな、同じ空間にすら存在して欲しくないと唾棄されるのが、関の山だと予想していた。けれど、彼からの告白だけは、きっとこうだろうと決め付けて終わらせるのは駄目だという事くらいは、分かっていた。
恐怖が消えたのは、始に対してだけだ。続と紅竜王への恐怖は区別が付けられず未だにの中で燻っている。そして、姉に対しても、また。
「」
頭上から降ってきた声に、はっと振り返り安心する。
「おはよ、始」
「おはよう」
枕が合わなかったのか寝癖だらけの頭をして、欠伸を噛み殺しながら挨拶をする始には苦笑しながら、朝食作るからその間に顔洗えと命令形で指図して追い払った。
「皆の分も作るから、一度帰って。この時間で車なら間に合うよね」
「昨日の今日で、その扱いは酷くないか?」
「昨日の事は、うん。凄く、感謝してる。きちんと、お礼言いたい。でも、今は時間がないからそれとこれとは話が別。その服で教壇立って欲しくない、うちには始のサイズの服なんて一着もないから」
だから帰って着替えて出勤しろと指図される。昨夜の情事で中々酷い状態になった服を窓ガラスで確認して、始は笑った。
確かにこんなみっともない格好で教壇に立つのは始も嫌だし、立たれる生徒はもっと嫌だろう。靴下を三折りとか、そんな下らない事に縛られる人間ではないが、授業をするにしてもそれなりの格好はある。
指示された通り始が顔を洗って、頑固な寝癖が直らなかった頭で戻ってくるとが時計を気にしながらフライパンを振っていた。
「ご飯少なかったから混ぜご飯で嵩増しするね。三人分のお弁当箱なんて持ってないから、全員タッパーだけど」
「いや、うちは最悪、トーストかシリアルで済ませるから」
「おれ、朝はご飯かお粥がいい、譲歩してお餅。おかず多めに作るからそれで誤魔化して。ソーセージと炒り卵と、後は彩りも全部適当だけど。汁物はインスタントでいいか、竜堂家にない、うん、確かなかった気がするから、これも持って帰って」
これが、本当になのだろうか、と始の脳裏に疑問は浮かばなかった。
恐怖は昨夜の時点で克服したまま、戻る事はなかったらしい。だからきっとこれが、本当のなのだろうと納得する。
問題は。
「」
「なあに」
「まだ、続の事は好きなのか?」
セロリと肉を炒めていた手が止まって、怖いけど、と呟き、視線を合わせないまま首が縦に振られる。まあ、そうだろうなと半ば以上予想していた始は静かに移動するとの隣に立ち、髪を撫でた。
一晩始に抱かれたくらいで続への気持ちを切り捨てられるような潔い人間だったら、はきっとここまで溜め込まず、追い詰められる事もなかった。声を掛け、肌に触れても怯えられる事がなくなっただけ、今は良しとしようと前向きに考える。
「始は」
柔らかな顎を掬いながら腰を屈め、ゆっくりとキスをしても、は始を拒まない。それどころか、唇を離す時にかち合った視線がキスでは物足りないと訴えていた。教えた快楽への欲求が、完全に恐怖のそれを上回っている。
耐性のない脳へ植え付けられた性的欲求に抗えないと、も自覚しているらしい。始が青竜王ではないと刷り込む為という理由は粉微塵になって消え失せ、ただの建前と化し、気持ち良い事の為だけに抱かれたいと、声に出さずとも色香だけで雄弁に物語っていた。
「昨日、言った通りだ」
「……だよね。でも、そんなに焦らなくても、続さんはおれを受け入れないよ」
「黙って距離を置くのなら、それでいいんだ。ただ、続は敵対相手に攻撃的だから、ある程度納得出来る落とし所が必要になると思ってな」
口実さえあれば、いや、そんなものすらなくても、続は自分が気に入らない相手に容赦などしない。今までその性質が親しい身内に向く事がなかった所為で、今後の身に何が起こるのか、始ですら見当が付けられない。
「一応、勝手をするなと釘は刺しておくが」
「始が、続さんと、言い争うの?」
「口論するつもりはない。関係を整理するために話し合いの場を設けて、続がを過剰に攻撃しないように間に立つだけだ。も、このままでいたくないんだろう?」
「うん……うん。ありがとう、それと、ごめんなさい。こんな役回りばっかり」
「謝るな。おれとしても、今の関係には区切りを付けてもらった方がありがたいんだ」
と続の双方が互いへの執着心を収めれば、の心を奪う事など造作もないと言う始に、当人はコンロの火を切りながら苦笑するに留まった。
既に始の手で体が快楽に浸かった事を自覚しているは否定をしなかった。しかし、もう一度キスしようと伸ばされた腕からはするりと逃げ、おかずが入った容器を保冷剤と共に包み込んだ。
その量は、明らかにが朝に食べる為に確保された分よりも多い。
「ついでの方が量が多いのは変じゃないか?」
「大食漢共の為に腕奮ってやってるんだから、文句言わない」
結局キスはしないまま、お互いに笑いながらそれぞれ準備をして、6時を回った頃には既に双方共が支度を終えていた。
始に朝食として適当に作ったおかずを人数分渡すと、は欠食児童の為にもさっさと帰るとの言葉と共に小煩い始を追い出す。
ただ、本当に一人で朝食を取るのか、一緒じゃなくていいのかと繰り返された言葉は、とても嬉しかった。
正直に言えば、はずっと始に側にいて欲しかった。けれど、始にやらなければならない事があるように、にも、始末しなければならないものが家中に散らばっていた。
「辛くなったらいつでも呼ぶんだぞ?」
「そしたら、どんな時でもおれの所に来てくれる?」
「……最大限努力はする」
絶対に来てくれると無責任に言わない始の優しさに、は来てくれるまで絶対待ってると笑って、彼の車を家から送り出した。
「さて、と。洗濯でもしますか」
ベッドの上だけ酷く汚れてしまった自分の部屋がなぜか可笑しくて、玄関の時計で今の時刻を確認してみる。鳥羽家は学院長公舎として共和学院の隣に建っているから、まだ、学校へ行くのには随分余裕がある。
従兄弟達も、きっとこれなら遅刻は免れるだろう。勿論、朝食を食べたらもう行くだけの準備が整っている場合ではあるが。そんな事を考えながら洗濯機を回すと、現在時刻に不釣り合いな音がの聴覚を揺さぶった。
「こんな時間に電話?」
終か余からだろうかと思案し、けれどそれなら携帯に掛ければいいのだから違うとすぐさま否定する。ならば出張中の両親のどちらかだろうと結論付け、は受話器を取って普段の声で応対に出た。
「お待たせいたしました、鳥羽でございます」
『……』
「もしもし?」
間違い電話だろうかとが受話器から耳を離した時、聞き慣れた声がそこから流れる。
『……君、ぼくです』
「っ、続さん」
『朝早くから、すみません。どうしても、君と話しがしたくて』
「おれ、と……ですか? でも、こんな時間に」
『分かっています。ですから、今日の放課後、会いましょう』
短い沈黙。受話器を握った力が、強くなった。
始の忠告よりも、続の行動の方が早かった。
ここで始の名を出せば間違いなく酷くなる、自分だけではなく、最悪、始と続が争う事になる。それは比喩ではなく、竜堂家が崩壊する事に他ならない。
は覚悟を決めざるを得なかった。
「今日の、放課後なら」
『何か予定でも?』
「っ、いいえ。あ、ありません。わかり、ました」
今度は、続が沈黙した。
『……想像していたよりも、潔いですね。ああ、兄さんに告げ口する算段でもつけていたんですか?』
「そんな」
『もし、そうでなくても』
電話の向こうで続が蔑むように冷たく微笑った、あの時の紅竜王のように。
それだけで、恐怖で息が出来なくなる。
『今のぼくを怒らせるのは賢明な判断ではありませんよ、君』
「……はい」
『校門の前で待っていますから。逃げないでくださいね』
逃げられると思っているのか、という口調で電話は一方的に切られた。
汗で滑ったそれが、力の抜けた手からズルリと落ち、ぶら下がる。
「続、さん……始」
忘れかけていた恐怖に、再び体が震える。
はぐらかし、偽ることは、きっともう出来ない。
「ああ、これが夢の続きなのか」
その細やかな呟きは、朝の光に溶けて消えた。