曖昧トルマリン

graytourmaline

微睡鳥の繭籠り

 玄関ホールに人の気配がして、階段を数段下りた瞬間、続は元来た部屋への道を後戻りしたくなる衝動に駆られた。
 今日は、が家に来る日ではなかったはずだ。なのに、何故彼は竜堂家にいるのだろうかと、思考が停止する。
「続さん。お久し振りです」
「ええ。と言っても、一週間も経っていませんが」
 結構な距離のある空間を挟み、互いにぎこちなく笑い合うと、始が困ったような表情を浮かべて用のスリッパを取り出す。
 はっとしたように続は階段を下り、に何故家に来たかと尋ねると、家には誰もいないからということらしい。
 多分、叔父夫婦がいないのを見計らって茉理が色々と画策したのだろうが、よりにもよって今日でなくてもいいと続は内心舌打ちをした。
 験が悪いのだ。昔からあの夢を見た日は、決まってとの間に悪い事が起きる。
「じゃあおれ、夕飯の支度しますから。まだ、何も食べていませんよね」
 小首を傾げるような仕草で笑ったに続は半ば以上強引に笑って、いつもすみませんと言った。その変化に従兄弟が気付かないはずもないのに、彼は何事もなかったかのように頷いてキッチンの方へ歩いて行く。
 代わりに普段と違う続に疑問を抱いて話しかけてきたのは兄の方で、リビングのソファに座りながら単刀直入に何かあったのかと尋ねてきた。
「いえ、大した事ではないので」
「……そうか」
 それを見た始は、今は二人を一緒にしておいてはいけない気がした。
 先に前世の事を話したい、それを話さない限り前へ進めない、食事の後に打ち明けたいから同席して欲しいとに頼まれ快諾したものの、このままそうしてしまえば良くない事が起きると勘が告げる。
 今のは不安定で自分自身に自信を持てずにいる、そして何故か今は続もと距離を置こうとしていた。
「あまり無理するなよ?」
「大丈夫ですよ。自分の健康管理くらい出来ますから」
 笑おうとする続を見て、無理だと心の中でに謝罪した。
 今日は、この二人を長い間引き合わせない方がいいと悟ったのだ。理屈も何もないが、始は続ともとも生まれた頃からの付き合いで、こと続に関しては育ての親と揶揄されるくらいには深い関係を築いていると、少なくとも本人はそう自負している。
 従兄弟と弟を不幸にしてまで手に入れたいとは思っていない、始はに恋心を抱いているが執着はしていない。好きだけれど執着までに及ばないからこそ、の相談に乗る事が出来ている。
 逆に、続はに執着している。その対象があのなのかも判らないし、告白をする前までは恋愛感情を持ち合わせたそれかどうか判らなかったが、幼い頃から彼にとっての最優先事項はだった。勿論、家訓やそういうものとは違う意味で。
「だといいんだが……顔色良くないぞ、お前」
「そうですか? きっと夢見が悪かったからでしょう」
 けれど今になって振り返ってみると、続はどこかに対して、そうしなければならないという負い目を感じているような気がした。
「兄さんこそ難しい顔をして、何か考え事ですか?」
「……こんな事聞くのはどうかと思うんだが、なんで続はが好きなんだ?」
「え、何故って」
 まさか兄の口から思いもよらない質問が切り出され、一瞬素になってしまったがすぐに続は形のいい眉を軽く動かして自分の気持ちを整理してみる。
 最初は、とにかく守りたかった。
 続があの夢を見始めたのは数年前から。あの頃のはまだランドセルに背負われていたような子供で、今よりももっと幼くて、どちらかというと格好いいよりも可愛らしいという印象の強い少年だった。それでも、続は夢の中の鳳凰がだと確信したのだ。
 余を羨ましそうに眺めながら、家に帰っても誰もいないと口にした少年を孤独の中に置き去りにしたくないと思い、ならば誰かが帰ってくるまで竜堂家で待てばいいと真っ先に言い、祖父母に取り次いだのも続だった。小さくて柔らかな手が続の服の裾を掴み、はにかみながら、ありがとうと言われた事は今でも覚えている。
 多分、その時からだろう、続がに恋愛感情の欠片を抱き始めたのは。
 出来る限り、あの鳳凰とは異なる環境で過ごせるよう動いて来たつもりだった。なのに、何時からかは普通に笑わなくなった気がして、あの爛漫さが鳴りを潜め夢の中の鳳凰へと徐々に似て来ている気がして、これ以上距離が離れたらまた失ってしまうのかと恐れて、繋ぎ止めるような気持ちで内に潜ませていた愛を告白をした。
 もちろんいい加減な気持ちなどない、寧ろ続のに対する感情はそれよりも上にある。
 を通して前世の鳳凰を見ているのではない。それはあくまできっかけで、愛しているは、今の人間としてのだ。
 しかし、それでも前世の夢を見る度に現世の恋心に狂気が一滴ずつ加えられていった。続自身、は自分のものでなければならないという歪んだ価値観を自覚しており、自分の内にあるものが純粋で綺麗な形を保っているとは思っていない。
 そこまで自分の内面に触れた続は、大部分を隠す事にした。この感情を、恋愛に対して真摯過ぎる兄に晒すのは、幾ら続でも躊躇われた。
「理由は沢山ありますけれど、やっぱり、ぼくの隣で笑っていて欲しいからですね。でも、なんで兄さんがそんな事を聞くんですか?」
「いや、少し……考えたい事があって」
「茉理ちゃんとの関係を築くには、ぼくらは手本にはなりませんよ」
「そういう訳じゃないんだが」
「では取り敢えず、そういう事にしておきましょうか」
「本当なんだがなあ」
 少し気まずい沈黙が二人の兄弟の間を流れ、しばらくして続がソファから立ち上がった。
「少し、君を見てきます」
「邪魔をしに行ってもいつもみたいに追い返されるぞ。それに、もまだ悩んでいるようだから、そっとしておいてやれ」
「心配しなくても大丈夫ですよ、無理に返事を貰おうとは思っていませんから。ただ、様子を見てくるだけです。そんなに信用ありませんか」
「信用がない訳じゃないんだが」
「なら、いいじゃないですか。怒られたら素直に戻ってきますよ」
 真剣に悩んでいるようだから返事を待つ間は出来る限り距離を置いていた事もあり、本当に久しぶりのような気がして、近くで顔が見たくなったから。続の理由はそれだけだった。
 ただ、その悩み方が少しだけ不可解でもあった。遠慮がちな態度の裏で続に対して恐怖を抱いているような、それだけが気掛かりで。
 それを指摘したら、はどうするのだろう。そっとしておくべきなのだろうか。それとも、指摘をして理由を聞けば自分の前でだけはあの強情な仮面を外してくれるようになるのだろうか。
 せめて、自分とだけは向き合って欲しいと続は微かな祈りと共に食堂へ近付く。
「……君?」
 しかし、その場所からは、何の音もしない。
 誰もいないような、とても料理をしているようには思えない静けさに胸騒ぎがした。
君。どうかしま……」
 食堂に踏み込むと、冷蔵庫の前でぼんやりと佇む少年を見付け、動悸に襲われる。
 思案に耽ると表現するよりは、虚無を眺めたまま意識を沈ませている。俯いたそこから見えた表情は微笑ってはいないものの続にとっては不吉な、前世の鳳凰とまったく同じ類いのものだった。
 役目に重きを置き、誇りを持って戦った彼ではなく、生きる意思を手放した彼。何も彼もを諦めて受け入れてしまった少年のそれに、背中に汗が流れる。
 続の気配にも、声にすら気付いていない。
 思考にどっぷりと浸かり瞬きすらしないを見ていると、彼の周囲の時間だけが遅く流れているとしか思えなかった。
「……君」
 気配を殺さず近付き、囁きながら肩に触れると、彼は小動物のように全身を跳ねさせ胸を抑えながら振り返った。
 振り返る瞬間に見せた表情は随分と子供っぽくて、けれど完全に振り向いた時には、どこか、何かが続の目には違って映る。
「つ、続さん!?」
「立ったまま眠っているのかと思いましたよ、疲れているんですか?」
「え……あ! すみません大丈夫です、すぐ、支度しますから」
 時計を振り返り慌てて冷蔵庫を開こうとするをやんわりと止めて、体調は悪くないのかと続は尋ねた。
 そうじゃない事くらい、理解していても。
「無理をしてはいけませんよ、体調が優れないのなら出前を取りますから」
「いえ、大丈夫です」
 そう言って笑うの表情が、続の神経に直に触れた。
 夢の中の、鳳凰と同じ笑みにしか見えず、何故今日はこんなにと続は声に出さず自らの内へ問いかける。当然、返事などない。
 笑顔を視界に入れないように目線を下げると、制服の腕のボタンを外して腕まくりをするの制服のポケットに目が行った。
 メモ、ではない。明らかにそれは手紙と呼べるものだ。
「ラブレターですか、それ」
「……っ!?」
 続の小さな指摘に、は先程よりも大きな反応を示し、一瞬狼狽えた。
 常人なら見逃していたかもしれないそれも、続にはよく見て取れる。表情を取り繕う寸前のなにか、大きな隠し事のある表情だった。
「すみません」
「何で君が謝るんですか?」
 まさか、何処の誰とも知れない相手に、この返事をもうしたというのか。そう口を付く前に、それならば手紙は開封されているはずだと辛うじて理性が留める。
 取り出した手紙に読まれた形跡はない。よく見てみると差し出された手紙の宛名が彼でない事に気付き、続は自分の早とちりも含めて思わず苦笑してしまった。
「断り切れなかったんですね」
「ごめんなさい。強く、拒否出来なくて」
「分かっていますよ、君は優しい子ですからね」
 続のその言葉に、は酷く傷付いたような表情をする。
 いや、目に見えてそんな表情はしなかった。むしろ彼は続の言葉に安心して苦笑に似た笑みを浮かべていた。それなのに、なぜか今日はの裏に隠れる表情がよく見える。夢の所為で、の行動に敏感になっているのだろうかと続は自問する。
 けれど、今はそれよりも考えるべき事があった。何故彼は、こんな表情を浮かべたのか。
 あの顔は、隠し事をしているものだった。それも、とても大きな。自分が関わっていて、自分には言えないような事。
 ここで訊くべきではない、けれど、ここで訊くしかないと続は覚悟を決める。
「別に手紙の事は怒っていませんよ、名前も知らない相手を断る事には慣れていますし。どの道、ぼくは君一筋ですから」
「続、さん?」
 退路を断つように少年の背中を冷蔵庫に押しつけ、微笑したまま責めるような視線で彼を見下ろす。疑問の表情を浮かべていただったが良くない空気を悟ったのだろう、胸の前で拳を握り、心理的に距離を取ろうとしていた。
「それよりも、ぼくに何か隠していませんか?」
 続の視線を正面から受けたは、内心青褪めた。
 全てを言うしかないのだろうか、元々、今日、言うつもりではあった。他人からの手紙を受け取って、渡したというのに、そんな自分を優しいと言ってくれた続。本当は、醜い独占欲と嫉妬に塗れていて、続に指摘されなければ捨てる気だったのに。幻滅される。嫌われてしまう。だからこそ言えなかった。
 この瞬間まで、彼はそう思っていた。
 けれど、違った。
 続の目を見て、は己の根底にある最悪の感情に気付かされてしまった。
 呼吸は荒くなり脳の全てをそれに占領される。耳を塞ぎたいのに腕が動かず、最早、続の言葉しか耳に入らない。最悪だ。自分はとんだ嘘吐きだと続から顔を逸らし、口元をやっと動かす事の出来た手で覆う。そうしなければ、吐き戻してしまいそうだった。
「そう。もっと、大事な事を隠していませんか?」
 そうして震えるを見下ろし、続は眉根を寄せた。
 後ろめたい事があるという証拠を晒され、苛立ったのだ。
「何で黙っているんですか? ね、君」
「……はな、して。おねがい」
君が何を隠しているのか話してさえくれれば、すぐに離しますよ」
「そ、れは」
「出来ないんですか?」
 そこまで言えない秘密なのだろうかとの肩を掴んだ手に力が籠もる。
 続を傷付けるから遠慮しているという仕草ではない。明らかに、自分を守る為の沈黙に続は抗えなかった。
 を守りたいのではなかったのか。そう自問しても、罪悪の念は嫉妬に勝てない。こんなにも想っているのに言えない事なのか、一体何を隠しているのか。一度火がついたら、止める事なんて不可能だった。
「ぼくの他に、好きな人でもいるんですか?」
「違う! おれは……おれ、は」
 思ってもいない事を口にして、否定させる。
 こんな方法は、を傷付けるだけでしかないのに。信じて欲しいと願っていたのに、自分からそれを放棄するなんて。そう頭で思っても、自制心と忍耐は擦り切れ、嫉妬に狂った心が止まらない。
「何故、言葉に詰まるんですか? やっぱり、嘘なんですか」
「ちがう」
「違うのなら、ぼくの目を見て言ってください。何を隠しているのかを」
 続の指が歯を鳴らすの顎を持ち、強引に視線を合わせると恐怖に晒された人間の目とかちあった。
 強張り震える目元からついに涙が一筋流れる。何故怯えるのか、怖がるのか。こんなに、狂う寸前まで愛しているのに。殺気じみたものを浮かべている続の表情が、不快そうに歪められた。
君。君は、何をしたいんですか? 思わせぶりな態度でいつまでも引き伸ばして、ぼくが嫌いなら、はっきりと、そう言ってください」
「ごめ、んなさ……い。続さん、ごめんなさい」
!? 続! なにやってるんだ!?」
 入り口の方から怒鳴り声が聞こえ、の肩が跳ねた。
 声の主は続が帰って来ない不安から行動した始だったが、食堂に入るなり目にした光景に怒りと共に後悔が湧き上がった。続の盾になるようにの体を抱いたが、震える唇と舌からの言葉は止まらなかった。
「ごめんなさい……続さん、ごめんなさい……」
、もういい。落ち着け」
 始は同じ言葉しか繰り返さない従兄弟の小さな体を更に抱き締めて、弟を睨み付ける。その兄が見せる、生まれて初めての感情に、続は全てを悟った。
 ああ、だから。
 続の形のいい口許がその形に動いて、表情を隠すように手が顔の下半分を覆った。髪の隙間から覗く茶色の瞳が微笑いながら凄まじい殺気を放っている。
「少し、頭を冷やしてきます」
 はっきりとした口調には、嘲笑と侮蔑と怨恨がそれぞれ均等に含まれていた。
「……続」
「なんですか?」
「何故を傷付けた」
「彼が勝手に傷付いたんですよ」
 長兄の押し潰されそうな視線を流し、の爪が始のシャツに食い込んでいる様子を冷めた視線で眺めながらそれ以上なにも言わずに食堂を出て行く。
 扉が乱暴に閉まる音にが怯えたように体を竦ませ呟き続けた。
、もういいんだ。謝らなくていい」
 顔を上げさせて言い聞かせても、彼の視線は始を捉えない。
 どんなに強く名前を呼び、目の前にいる存在が続ではないと言っても、は自分の言葉でそれを遮って聞こうとしなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、おれっ……!」
 息を飲むようにして、の言葉が止まる。
 噛まれるかもしれなかったという不安は、後から少しだけ浮かんだ。始は深くキスをして舌を絡め、これ以上密着できないというくらい体を抱き寄せる。
 シャツを掴んでいた手の力が緩まったのを確認すると、重ね合わせた唇をゆっくりと離して、深呼吸をさせてから目の前の人間を確認させる。
「は、じめ?」
「ああ、そうだ」
「始。はじめ、おれ」
「今はまだ思い出さなくていい。何も考えるな」
 まだ震えている体を抱き上げるが、体温を感じない。続の殺気に当てられた直後に何も考えるななど、無理な注文である事は始自身、分かっていた。
「今日は家に帰ろう。部屋まで連れて行ってやるから、な?」
 年端も行かない幼子に言い聞かせるように始は言い、腕の中の少年は大人しくその言葉に頷くだけだった。