微睡鳥の繭籠り
あの鳳凰は、あの少年は、一体何だというのか。
彼は、私の友を殺してなどいなかった。殺された大半の竜種は背中からの刀傷で致死しており、友もまたそうであった事実に目の前が暗くなる。
あの鳳凰の獲物は長槍だった、短刀も手にしていたようだが刃渡りが傷と一致しない。死体の傷は明らかに長剣のものだった。
勿論、彼に殺されたものもいる。明らかに槍と思われる傷で、死んでいたものもいた。しかし打ち合ったにしては傷が不自然な上、数の割合が少な過ぎる。槍で死んだ竜は二割は越すが三割には届かない。
物証から導き出される結論は、予想していたものとは違っている。
太真王夫人にしても、竜に連れられ偶然あそこを通り掛かっただけで手出しは一切されてないと主張していた。彼は、なぜ何も言わない。被る必要のない罪まで、何故被る。
「それにこれは」
彼の出生と、死んだ竜種の調査報告書。
今回の件の原因を作り出し、反魂を行おうとした竜種の女は、虐待し、自分で殺した子供を蘇らせようとしていたというのか。一体、何の為に?
罪深いのは彼ではない。私たち竜だ。
彼は、彼の言葉通り、誇りにかけてあの魂を守っただけなのに。
それを聞き入れようとしなかったあの時は、大哥の命令を無視してでも彼をあの場で殺そうと思っていた。それなのに殺せなかったのは、彼の言葉が、痛かったからだ。
たった一人きりで、誇りだけを頼りに生き抜いてきた目だった。多くに囲まれた自分には到底出来ない、信念に従った生き方を貫いてきた目。なのに、どこか死んでもいいという暗い影があったから。
悔いていたのだ、殺した事を。
自分の殺していない者たちまで自分の所為で殺してしまったという負い目を、彼は感じている。そんな事を感じる必要はないのに、それを言う者すら彼の周囲にはいない。
すべての感情が合わさって、あんな態度しか取れなかった。この事実を知るまでは、胸の内に渦巻く靄のような感情は怒りだと信じていた。
「……」
何故彼が死ななけれないけない。
何故彼だけが処刑されなければならない。
彼をあの境遇に送ったのも、今回の事も、咎があるとすれば竜種だというのに。
「これが、鳳凰という存在なのですか」
既に処刑の日時は鳳凰の族長から言い渡されている。それでも、この事実を先に知った兄は昨日の晩に水晶宮を飛び出して取り消しを求めに行った。
自らの子孫すら、掟を破れば殺すというのか。たとえ、それが正当防衛だとしても。
それは、政治的には正しい。けれど、そこには情など欠片も感じられない。
「私は、何ということを」
感情に任せ剣を振るわず、言葉で語りかけるべきだったのだ。悔いても、取り返しはつかない。しかし、このままで済ませていいわけはない。
ひやりと、冷たい風が流れてきた。
薄暗い明かりが差していて、既に朝だという事を今知った。
彼が処刑されるのは、今日の夕刻。時間など、あるはずがない。
外の空気を肌で感じると、何故か、胸騒ぎがした。
急いで部屋を出て冷たい空気を裂くようにして、彼が軟禁されている離れに急ぐ。廊下を通らず庭を横切り、彼を見つけた。
扉の柱に寄り掛かり、大きな翼を力なく垂れさせて座り込んでいる。
薄い肌着のままの姿で、遠目でも理解出来る程顔の色が白かった。
名前を呼びたかったけれど、呼ぶべき名前を彼は持っていない。それがもどかしくて、急いで駆け寄って冷えた肩を抱いた。
「何やっているんですか?!」
真っ青になっている鳳凰を抱えて、急いで横に寝かせる。
自分が今どんな状況におかれているのか理解していないのか、瞳は少し空ろで、しばらく後に私をじっと見た。
「何故誰も呼ばないんです?」
怒鳴っても、彼は驚いた様子もなく普通に言ってのけた。
「誰も来ないから」
至極当然のように放たれた言葉に絶句する。そうだ、彼はそうだったのだ。
助けすら求められなかった環境。誰かにも、何かにも縋る事の出来ない痛みや悲しみを抱え込んで、吐き出せずにいるまま、このまま、彼は死んでしまうのだろうか。
「……申し訳ありません。軽率な言葉でした」
「何故、貴方が謝るのですか?」
反射的に謝ってしまったことに、彼は不思議そうに、暗く笑う。
「同じ竜だから、咎を感じているのですか。ただ、同じ竜というだけで、咎を感じているのですか?」
それは、自分と竜の過去の因縁。
自らの集落を壊され、同胞を目の前で殺されたというのに、それを知っているのにこの少年は私たち竜に罪の意識を抱える必要はなく水に流せと言うのか。
確かに罪の意識を抱えるべきは私ではないのかもしれない。それでも、私がその感情を抱いてしまうのは罰すべき事ではないだろう。
「貴方は、自分自身の事を知っているのですか?」
彼は知るはずがない、そう思っていた。
何せ、まだ赤子の頃の事だ。覚えていたのか……それとも、
「……貴方も、誰かに聞いたのですね」
ああ、やはり噂で聞いてしまったのか。箝口令など、矢張り役に立たない。
だから、この鳳凰は、許してしまうのか。すべての罪を自分の所為にして、何も変らず元通りのままだという偽りに加担するつもりなのか。
「このまま死んでも、悔いはないのですか?」
何を聞いているのだろうと思われたかもしれない。
けれど、彼はまだ死ぬべき存在ではない。彼のような存在が、死んでいいはずない。
なのに彼は笑うのだ。悔いはないと笑い、言うのだ。
「そういえば、朝早くから何の御用でしょうか。処刑する日時が決まったのですか?」
死にたい訳ではないだろうに、何故そこまで死に急ぐのか。
「いえ」
言葉が、濁ってしまう。
本当は既に決まっているのに。隠した所で彼の命が長らえるわけではないのに、なのに私は言えない。認めたくないから、言いたくないのだ。
「……貴方が竜を殺したのは、魂を守る為なんですよね」
わざとらしい、馬鹿みたいな話題転換だった。
それでも、なりふりを構っていられないのも確かだった。
気を抜けば、泣いてしまいそうなくらい。
「はい」
今更、なのだろう。
彼ははっきりとそう口にした。
「最初に、竜種の女性を殺したのは……何故ですか? 殺されそうになったから、だけなのですか?」
事実は知った。けれど、真実を知りたい。
彼の力なら、あの殺さなくても退ける事が出来たのではないか。殺してしまったのには、譲れない何かがあったのではないか。
死した子供は虐待死したのだ、母親に殺されたのだ。そしてその母親が再び、反魂を行おうとしたならば寧ろ、何もなかったとは考えられない。
「はい」
口調ははっきりしていたが、嘘を吐いた瞳だった。やはり、そうなのだろうか。
彼が彼女を殺さなければ、きっと今頃、一人の子供が生き返ったのだろう。
それが、幸せかどうかはともかく。
「あの時は、上手く捌くことが出来ませんでした。それだけです」
思い出すように、遠い目をする。
報告書に載っていた最初の死体、粒子にすら成れず放置された腐敗した女性の死体。その体の傷跡は狙ったものではなく、明らかに手元が狂って出来た傷が致命傷だった。
随分苦しんで死んだのだろう。けれど、同情の余地などない。
「その後に殺した竜種の指揮官がその女性の夫という事は?」
「存知上げています」
淡々と彼は答えた。
「皆殺しにする必要はあったのですか?」
「いいえ」
まるで、自分がそうしたような口振り。
何故言わない。自分が殺した相手は、あの中の半分にも満たないと。
何故訴えずに屈辱的な死を受け入れようとする。
理由を理解して尚、そう叫びたかった。
「……あの死体の中に、明らかに長槍ではない傷を背中に負って死んだ者がいました」
「然様ですか」
事実を伝えると、彼は少し驚いた表情をして諦めたように苦笑する。言外に含ませたものを悟ったのだろう。
「それでも、私は竜を殺しました。西王母様の末子、太真王夫人をも傷付けた」
違う、彼はなにもしてない。
「彼女は傷ついていませんでした」
「体は辛うじて。けれど、心は?」
そこまでは、分からなかった。彼女は気丈だ、一見そうは見えなかったが、傷付いていないとは断言できない。
けれど、彼だって傷付いたはずだ。いや、彼の方が傷付いているはずだ。
自分で理解していないだけで、本当に傷だらけなのは彼の方なのに。
「どのように申し開きをしても酌量はありません。たとえ、竜王様であろうとこの処刑を覆す事は出来ません。そうでしょう?」
私の沈黙を肯定と取ってしまったのだろうか。
否定しようと口を開き掛けた途端、彼の視線は扉の方に向いた。
「大哥……」
駄目だったのか。
表情が、暗い。
「すまない、君の言う通りだ。処刑は今日の夕刻に行われる」
話した方が楽だと思ったのだろう。
大哥は辛そうにそう告げて、けれど彼は困ったように笑い、私と……兄を見た。
「私如きにお手を煩わせる必要などないというのに」
まさか、この少年は自分がどのような立場の存在であるかを知らないのだろうか。
最も古い血を継ぐ一族の末端だと、いうのに。
それを知らずに、あの結論を許容したのか。
「自分を卑下しなくてもいい。君は僅かでも、鳳凰の王の血を引く者なのだから」
「然様ですか」
だからどうしたと言うような、まるで他人事のような口振り。
けれど、瞳には不吉な光が点った。
「ならば王族の末席を汚す者として、死ぬより他にありません。古き王が定めた法に、王の血を引く者が従わなければ示しが付きません」
正気なのか。否、それしか生き方を知らないのだろう。なんという、少年なのか。
偽りだらけの罪だけを背負い、他者のすべてを許すなど。
「……貴方が生きて、新たな法を作るという道もあります」
こんな甘言になど乗るはずもないのに、言葉を絞り出す。
兄が驚いた表情を私に向けたが、すぐに黙ってしまった。
今、私はどのような表情をしているのだろう。
「鳳凰が殺生を肯定し戦神となれば、三界の秩序と力関係が変わってしまいます。今の時代の鳳凰に、新しい法や掟など必要ありません」
彼は自分の同族ですら、見た記憶がないに違いないのに、それでもそんな事をいうのか。
「本当にそれが必要な時期が来れば、統一された力が下克上を起こすでしょう。それが上手く行かなければ、その者たちは下の者たち訴えにより他の戦神に殺されるだけです」
これが、鳳凰なのかと慄然した。
彼が竜ではない事は理解しているつもりだ、けれど説得して、出来る事ならば……生きる意思を持ってほしかった。これがただの自己満足だということくらい分かっている。それでも、私は彼と一緒に、生きたいと思ってしまった。
けれど、とても、揺るがない。彼の意志は揺るぎそうもない。
「何よりも、王の血を引く私が責務を果たせば、全ての事が収まります。違いますか」
彼は強く、賢い。
あの場で、ただ孤独の中で生きてきた子供なのに、権謀を知っている。
彼の罪を我々が認めなければ、太真王夫人の弁護を無視しなければ、即ち、三本爪の竜が崑崙の姫に牙を向けたとなってしまう。
竜種と崑崙の関係を良好のまま保つには、外敵に要らぬ弱点を晒さない為には、竜が彼女を護る為に血に狂った鳳凰を襲撃したという筋書きを変えてはならない。兄も、鳳凰の長にその札を出されたのだろう、窘められたと言った方がいいのかもしれない。利があるのは竜種の側、損を被るのは鳳凰だろう、と。
名もない鳳凰と、竜種と崑崙の全て。どちらを取らなければならないかなど、皆理解している。いや、目の前のこの子供こそが、誰よりも理解し、受け入れていた。
必死に出した私の言葉は、震えていなかっただろうか。
「……強いんですね」
「貴方方が優し過ぎるだけですよ」
どうかこのまま死なせてください、そう口にして彼は笑っていた。
けれど、その奥にあったのは私たちへの疑心。
誰も信じない、自らの掟だけを忠実に守り他を信じる事を拒絶する目。事切れる直前に、他者を信じろなどとは、私も言えなかった。
一人になりたいという言葉に従って、離れの扉を閉めた。途端に、表情の作れない顔の上を滴が幾筋か伝っていく。
ただひたすら、涙だけが伝って行った。
何故、彼なのだろう。何故、彼だけが死ななければいけないのだろうか。
これはあまりにも、理不尽な死だ。
「……っ」
冷たく伝ったものに、続は目を覚ました。
朝の光が目に痛い。
「……また、あの夢ですか」
兄にさえ言っていない、時折見る前世の夢に、震えるような吐息が溢れた。
死に急ぐ鳳凰を救えなかった、生きる理由を与えられなかった、最後まで何も言葉をかけられなかった、命よりも秩序を優先させなければならなかった、忌ま忌ましい夢を疎みながら涙の跡を拭う。
過ちを繰り返したくない。
今度こそ幸せにしたい。
守るべき存在は、近くにいる。
締め付けられるような胸の内からの痛みを逃すように拳を握っても、何にもならない。
愛していると告白をしてもの反応は鈍い。好意は間違いなく抱かれているのに何かに怯えている事は、続にもすぐに分かった。けれど、その何かが分からなかった。
吐き出してくれないのは、まだ信頼されていない証なのだろう。かといって無理に踏み込んでは、を壊してしまう。どうやったら、に信じて貰えるだろうか。どうすればは本当の姿を、自分に晒してくれるだろうか。
そんな考えばかりが、続の中で渦を巻いていた。
「君はまだ、あの時と同じ瞳を、誰も信じてはいない目をしている事に気付いていないんでしょうね」
この手で守りたい存在。なのに、心を許される前に離れていきそうな少年だった。
本当なら、あの瞬間。告白をした瞬間に抱き締めたかった。抱き締めて、自分だけは信じて欲しいと続は言いたかった。
けれどは、全てに対し一線を引いて拒絶ばかりする。一体何を理由に拒絶をしているのか、それすら分からない自分には彼を守る資格はないのだろうかと続の心を軋ませる。
夢の中で告げられる死への深い願望と彼の首が転がる瞬間を見せ付けられる度に、狂気に近付いている事を続は辛うじて自覚していた。もう二度と彼を失いたくない。日に日にその欲求だけが募り、いつか歯止めがきかなくなりそうだった。それこそ、他の人間に走ろうものなら彼を傷付けても奪い取り、力づくで自分の側に居させる選択肢が自然と脳裏に浮かぶくらいに。
幼い頃に向けられた笑顔も、暖かさも、もう忘れてしまった。
早く抱き締めて、その存在をすべてから庇いたい。前世のように、守れぬまま、気持ちを告げれぬまま終わらせる気もない。
もう二度と、愛しい者を意味もなく死なせたくはなかった。
けれど、どうしたら認めてくれるのかが分からず、答えのない問いばかりが生まれては、続の頭に残る。
返事がない不安。示されない信頼と愛情。待っても待っても、出口は見えるはずもない事くらい分かっている。けれど、今は進めなかった。それでもを、待っていなくてはいけないような気がしたから。
「……」
こんな日は、気が滅入ると溜息を吐く。
この夢を見た日は必ず、と嫌な事ばかり起こるからだった。