微睡鳥の繭籠り
職務上そのような慣習だったので、体質になった。仕方ないといえば仕方がない。
まだ薄暗い部屋の中からでも判った、この屋敷は既に活気づいている。どこかで餌を貰っている小鳥たちの声が聞こえた気がした。竜王の宮殿にも鳥はいるのだろうか。
「あ……」
起こした体が軽い。
薬湯のお陰なのか、傷も全部塞がっていて、咽喉ももう痛くはなくなっていた。
ただ、気持ち悪い。
今まで噎せ返るような森と泥臭い中で毎日を過ごしてきた所為で、落ち着かない。絹の衣も香も綺麗ではあるけれど、こうして長く纏っていると逆にどこか不快に感じてしまう。
傍らに用意された袍には紫があしらってあって、眉を顰めた。
私にだって、それくらいの知識はある。噂が真実だとしても、王たる自覚などないというのに。服を着るなという嫌がらせのつもりなのだろうか。
「……きもちがわるい」
血の気が引き、指先が冷える。
ここの空気は、私に合わない。
時間が経つにつれ朝の喧騒は激しくなって、人の気配が増えてくる。それでも、こちらの方にその気配が来ないのは何故だろうか。
恐る恐る扉を押してみると、すぐに答えは出た。ここは、離れだ。
声を出そうとするとまた吐き気が込み上げてくる。嫌な外の空気を吸った所為なのか、体が震えて扉に手を突いたまま立ち上がれない。
視界が暗く、白っぽくなる。全身の血液が凍ってしまったみたいに、やけに心臓だけが高く鳴り響いていた。脂汗が首筋を伝い絹の肌着を濡らす。
「何をやっているんですか?!」
耳鳴りの中で、紅竜王の声が聞こえた。
簡単に担ぎ上げられて、また元居た場所に戻される。
横になると少しだけ気分が楽になった。
「何故誰も呼ばないんです?」
「誰も来ないから」
物心付いた頃は、あの場所が寂しくて仕方なくて、誰でもいいからと何度も願っても、口に出しても、誰も来なかった。
初めてあの地を荒らしに来た者たちを追い払った時だって。殺されそうになって、領域を侵されそうになって、誰かに助けを求めても誰も来なかった。
この身が病に侵されても、鳥たちが苦しみながら死を迎えようとしても、誰一人来なかったのに。そうして諦め、一人が当たり前になったのは、もう、随分前の事だ。
「……申し訳ありません。軽率な言葉でした」
「何故、貴方が謝るのですか?」
別に私は傷付いていない。それに、今まで誰も来なかったのは彼の所為ではない。
誰かに会いに行かない私が、寂しさを感じる私が。
「同じ竜だから、咎を感じているのですか。ただ、同じ竜というだけで、咎を感じているのですか?」
いや、そもそも咎とは何なのだろう。
私は枷になど嵌められてはいなかった。自由に動き回る翼もあった、飛び立とうと思えばいつでもそこから飛び立てたのだ。
ただ怖かった、あの場所から離れると最後の居場所を無くしてしまうようで。だから誰かを待ち続けていたのかもしれない。結局、誰も来なかったけれど。
「貴方は、自分自身の事を知っているのですか?」
「……貴方も、誰かに聞いたのですね」
この神は、優しい。私を運んだ誰かが言っていたように。
けれど、矢張りこんな優しさはいらない。獣の私には、神など必要ない。
これを受け入れれば、罪を犯したというのに生きたいと願ってしまうだろう。
「このまま死んでも、悔いはないのですか?」
その言葉に、私は笑っただけだった。
悔い、ならばある。私がいない間あの魂たちは無事かどうかが気がかりだ、役目たる私が存在しない事によって、彼等が汚されては堪らない。
「そういえば、朝早くから何の御用でしょうか。処刑する日時が決まったのですか?」
「いえ」
彼の言葉が濁る。
昨日までの彼なら、躊躇わず私の喉元に刃を向けただろうに。哀れみの情とは、なかなか厄介なものだ。
「……貴方が竜を殺したのは、扉の中の魂を守る為なんですよね」
「はい」
「最初に、竜種の女性を殺したのは……何故ですか? 殺されそうになったから、だけなのですか?」
ああ、この神は、どこまで知っているのだろう。
確かに私が最初に殺した女性の竜は強かったが、それでもいつも以上に無理をすれば退ける事が出来たはずだった。殺さなくても、私が加減さえ間違わなければ退去させる事が出来た相手だっただろう。
けれど私は、その賭けのような勝負に負けてしまった。正確に言うと、彼女の蘇らせようとした魂が怯え、彼女を殺してくれと叫び私の思考と手元を乱した。
「はい」
けれど、それを言葉にする必要などない。
叫んだのは、獣のように絶叫したのは、魂となった彼女の幼い子供。
あの子は、母親に殺されたのだ。苦痛に塗れた酷い虐待を受けて、死にたくても死ねなくて、やっと死ぬことが出来たという魂。
あの場所を訪れる者は二種類しかない。
長い間慕った者を蘇らせたいと強く願う者か、失った後にその大切さに気付きやってくる者。ほとんどの場合、前者は説得に応じるが、後者は受け入れず武力で押し通ろうとする。大切だと気付いたから、これからは上手くやれると思い込んでいるから。
彼女自身が殺したというのに。自分を殺した相手が改心もせずそう言ってきて、許せる者はこの世にどれくらいいると思っているのだろう。彼女は自分の子供がそれだと思っていたのだろうか。
「あの時は、上手く捌くことが出来ませんでした。それだけです」
魂が汚れ、鬼になる寸前の叫びに手元が狂い、掠り傷で済むはずだった彼女の体は肉と血管を断たれ致命傷を負った。
助ける術なんてなかった。ただ、死んでいく命を見届けるしか。
「その後に殺した竜種の指揮官がその女性の夫という事は?」
「存知上げています」
「皆殺しにする必要はあったのですか?」
「いいえ」
それは本当の事。
けれど私は領域を守る為殺すしかなかった。誰もが、死の間際まで剣を向けてきた。
逃げれば、自らの主君に切られる運命だったのだから、向かうしか無かったのだろう。
「……あの死体の中に、明らかに長槍ではない傷を背中に負って死んだ者がいました」
「然様ですか」
この竜王は、すべて知ったのか。子供が母親に殺された事も、その母を私が殺し、夫が復讐のため私を殺そうとした事も。
「それでも、私は竜を殺しました。西王母様の末子、太真王夫人をも傷付けた」
「彼女は傷ついていませんでした」
「体は辛うじて。けれど、心は?」
目の前で、竜を殺した。
返り血をのような霊力浴びながら、彼女を追い詰めたのだ。不安定な心の捌け口にでもするように。
どの道、理由のある、なしに関わらず、相手が誰であろうとも鳳凰の殺生は固く禁じられている。
「どのように申し開きをしても酌量はありません。たとえ、竜王様であろうとこの処刑を覆す事は出来ません。そうでしょう?」
扉に佇む青竜王に、そう言った。
「大哥……」
「すまない、君の言う通りだ。処刑は今日の夕刻に行われる」
「私如きにお手を煩わせる必要などないというのに」
彼はきっと、鳳凰の長に訴えたのだろう。
しかし戦神の竜と不殺を貫く鳳凰の意見は相容れない。この年若い王は、煙たがれるのを知って、それでも行ったというのか。優しいが、あまり、褒められたものではない。
「自分を卑下しなくてもいい。君は僅かでも、鳳凰の王の血を引く者なのだから」
「然様ですか」
あの時に聞いた言葉は真実だったのか、しかし、どうでもいい事実でもある。王族の傍系だからといって、何になるのだろう。権力を笠に着るなんて、獣に相応しくない。ああ、しかしそうなると長という立場は、何故存在するのだろう。彼等は鳳凰だが、獣ではないのだろうか。
まあ、最早、どうでもいい事だ。
あと数刻で、この命も消える。だから、私が王の血を引いていようが、構わない。王やら長やら、考えるだけ無駄だ。否、寧ろ引いているからこそ、今この瞬間だけは、獣ではない竜種の王たちを説得出来るか。
「ならば王族の末席を汚す者として、死ぬより他にありません。古き王が定めた法に、王の血を引く者が従わなければ示しが付きません」
「……貴方が生きて、新たな法を作るという道もあります」
何故唆すような事を平然と口にするのか。彼は私に、生きて欲しいのだろうか。
もう生きる意味を無くした私に。
「鳳凰が殺生を肯定し戦神となれば、三界の秩序と力関係が変わってしまいます。今の時代の鳳凰に、新しい法や掟など必要ありません」
多くの神は不変を厭う。
変化があるからこそ、それが楽しめるからこそ神でいられるのだ。けれど、鳳凰は違う、鳳凰は神でもあるが、竜とは違い、元は獣だ。
そして獣は、変化のない日常を好む。生き延びて、血を絶やさぬ事だけを考える。それが獣。私が死んでも、鳳凰はまだいる。
「本当にそれが必要な時期が来れば、統一された力が下克上を起こすでしょう。それが上手く行かなければ、その者たちは下の者たち訴えにより他の戦神に殺されるだけです」
獣の掟は絶対だ。破れば絶対的な死しかない。きっと青竜王の言葉も、鳳凰の心に届くことはなかっただろう。
刷り込みにも似たそれを確認すると、やはり私は神ではなく鳳凰だと認識する。
「何よりも、王の血を引く私が責務を果たせば、全ての事が収まります。違いますか」
「……強いんですね」
「貴方方が優し過ぎるだけですよ」
どうかこのまま死なせて下さい、そう口にして私は笑っていた。
押し殺した感情の中で彼等が本当に私に生きて欲しいと願っているのか、それとも本当は憎んでいるけれど同情しているのか。
二人の竜王の言葉と表情を信じられない程、何故か今の私の心は閉ざされていた。
きっと信じてしまったら、再び掟を破ってまで、生きたいと思ってしまうからだろう。