微睡鳥の繭籠り
教師のプライベートな長話に付き合わされた委員会帰り、を溌溂とした声で呼び止めたのは、先程まで同じ室内に閉じ込められていた図書委員の先輩だった。
顔と役職は知っているが名前は覚えていない。確か3年生の副委員長だったはずだと考えながら笑顔を貼り付けると、拝むような仕草を返される。
「ごめんね、頼まれて欲しいんだ」
「今から書庫の整理なら貸出上限三割増で手を打ちますよ」
面倒事など背負いたくない、優等生の演技なんてしてもいいように使われて疲れるだけなのに、と内心の愚痴をひた隠し冗談に聞こえるように言うと、相手も目論見通りに取ったようで可愛らしいピンク色の封筒を渡された。
「じゃあ、そのノリでコレお願いしてもいい?」
俗に言っても言わなくても、ラブレターというものだ。
自身、こんなものは数える必要がないくらい貰った事がある。名前も知らない差出人がの都合も考えず日付と時間を指定して会って欲しいと書いていれば嫌々ながら律義にそれを守り、適度な対応をしてからやんわりと振って、友達からなら始められるから、などと微塵も思ってもいない月並みの台詞で締め括る。
勿論、実際に今日まで友人のままでいれる人間はいない。例外なく、廊下で擦れ違えば挨拶をする程度の仲ばかりだ、場合によってはそんな言葉など最初から真に受けていないのか別に恋人を作っている女子生徒もいた。
それでも相変わらずモテるが、が誰にも靡かないという事実が噂として流れているようで最近はそういうものは随分減って、おかげで気の楽な中学生活を送っていた。
しかし今回の物は、今までと少し違うようだった。
正確には、久し振りというべきか。
「鳥羽君って竜堂先輩と親戚で仲いいでしょ? どうしても渡して欲しいの!」
「ええと、続さんと終さんのどちらですか?」
「続先輩! ね、お願い。返事が貰えなくてもいいから」
接した感じからすると、彼女は口が軽く自己主張の強いタイプだろうと見当を付けた。ここで嫌だと拒否した場合、良くない噂が立つかもしれないと打算が脳裏を駆け巡る。
噂に根も葉もない尾ヒレは付き物だ。セッティングしろではなく手紙をただ渡すだけなので得策は頷く事なのだろうが、どうしたって腹が立つと溜息を押し殺す。
だって、続が好きなのだ。目の前の女子生徒が言う好きが足下にも及ばぬ程。
「うーん」
嫉妬心を隠す為に小首を傾げてみせ、普段だったら外面を維持する必要からもっと早く受け取るのにと考えながら、言い訳を並べて拒否を試みた。
「でも、そういうのは兄弟の余さんに頼んだ方が早く渡りますよ? おれ、今日は真っ直ぐ家に帰る予定で、次、続さんに何時会うかも決めてません」
「その余君がどこ探してもいないから」
相手が食い下がった上に拒否を重ねるのは愈々面倒臭い事になると諦め、表面上は戯けてただの意地悪に聞こえるよう釘を刺す。
「返事、貰えなくてもいいって伝えちゃいますからね?」
「え!? 貰えるのなら貰いたい!」
「あははは、冗談ですよ。続さんが女性に手紙書いている姿、見た事ありませんから、期待しなくても大丈夫です」
「鳥羽君って優等生だけどちょっと酷い所あるよね。元々返事貰えないのは分かってるけどさ、少しくらい期待させてくれてもいいのに」
非難する表情ではなく、どちらかというと冗談のように軽口を叩き、の内面に波風だけを立てた女子生徒は、三割増しを考えておくと言って去って行った。
手の中に残された手紙を見下ろしたは、この場で破り捨てて惨殺した残り滓をごみ箱に出家させたい欲求に駆られたが、その途中で誰かに見られるのはまずいと自重する。それが無事だったとしても、翌日その惨殺死体をごみ箱から発見した生徒から口伝いに彼女へ伝わってしまうかもしれない。それはもっとまずい。
焼却炉も同様で、向かう姿を目撃される可能性がある。
「素直に渡すしか、ないんですかねえ」
仕方がないので思ってもいない事を口にして、自分の心の内を誤魔化し、手紙をポケットの中にしまった。
何も、学校で処分する必要はない。家に帰って可燃ゴミの日にビニール袋に突っ込めば済む。性格が悪いと罵られようが、は続に見せる気なんて針の先程もなかった。
少女漫画ではないが、恋敵に見付かった手紙の末路なんて大体そんなものだと独り言ち。
「……なんだかなあ」
自分自身の変貌具合に呆れた声が漏れて出る。
始に本性を見せてからというもの、表情には見せないものの地になる時間が長くなってきていると彼は自覚していた。以前なら家の、自分の部屋の鍵を掛けるまでは一人になろうとも決してそれを崩さなかったというのに。
数秒の間、理由もなく天井を眺めたは鞄を担ぎ直し、廊下を歩き出す。
蛍光灯の灯る廊下に人気はなく、大半の部活動も既にチャイムの音に告げられた通り活動を終えている。薄暗い下駄箱で従兄弟の靴を確認すると当たり前だが先に帰ってしまったらしく、上履きだけが残されている。
久々の一人きりの帰宅だが、鳥羽家は徒歩圏内どころか共和学院の敷地内にあるので数分もすれば帰宅出来てしまう。両親は泊りがけの出張、姉はまだ大学だろう。家に帰っても誰もいないのだから、無意味に遠回りをして夕暮れから夜の空気の中を散歩しようかなとが家とは違う方向へ足を向けようとしたところで、頭の頂点より少し上の方から呼び止められた。
下校まで待っていた様子はなく偶然通りかかっただけのようだった。呼び止めてしまった声と振り向いた瞬間に見えた表情がそう物語っている。
「始さん。偶然ですね」
「ああ。その、今、帰りか?」
「委員会が長引いて。余さんなら、今日は先に帰りましたけれど」
余所行きの顔で何か用があったんじゃないのか、と尋ねると始は別に大した用ではない事を告げて逆にこれから時間があるかと訊いてきた。
「あまり遅くならないのなら、今からお付き合いしますよ? 12時までには家へ帰してくださいね、魔法が解けてしまうので」
茶化すように答えたに始は苦笑する。
それは結局、次第という事なのだろう。