曖昧トルマリン

graytourmaline

微睡鳥の繭籠り

 の気配が急に変化し、始は戸惑った。
 時折夢の内容を思い出すようにする仕草ではなく何かを警戒するようなそれに、寄り添いながら頭を撫でていた手が止まる。
「どうしたんだ」
「姉さん、帰って来たみたい。続きはまた、ね」
「今度は誰も邪魔の入らない所でな」
 腕を突っ張るようにして始から離れた従兄弟に、始も苦笑しながら冗談めかして言う。
 話す前より随分すっきりした顔をしていたも、茉理がダイニングに顔を出す直前には普段の自分に切り換えて、穏やかな弟そのものの態度で迎え入れていた。思わず始が舌を巻いてしまう程の見事な演技振りで、それなのに直前まで普通のを見てしまった所為か目の前の姉弟の、微笑ましいはずの応酬が滑稽に映る。
「それで、2人きりで何を話してたのかしら?」
「男同士の秘密です」
「あら酷い、お姉さんにも教えてくれないんだ」
 は冗談めかした口調で全てを隠し、置きっ放しだった食器を片付け、始の方に行く茉理を横目で眺めつつ洗い物に手を付けた。
 型通りの挨拶を済せると、茉理はお茶を入れる為に人数分のグラスを用意する。冷たい麦茶と始が持って来たお茶菓子を出して、は、今度は茉理の隣に座った。
「始さんがうちに来るなんて久し振りね」
「昼食を抜こうとしてた時に、からお呼びがかかったんだ」
「偉いぞ。始さんの健康管理にもちゃんと気を使って」
 クリームの入ったどら焼きを割りながら笑う姉に、も少年らしい表情で笑い返す。これは演技ではなく、本心からの笑顔だ。
 一度違和感に気付いてしまえば、のそれはとても分かりやすいと始は知った。もっと早く気付くことが出来ていればという後悔は、どうしても出せず咽喉で止まってしまう。それとなく告げるには始は不器用過ぎ、確実に何かあったと判るような台詞を、茉理の前ではまだ告げられなかった。
「そういう姉さんは何処に出掛けていたんですか」
「私? 私は続さんとデート」
「あれ、始さんという人がありながら二股ですか?」
 微笑を浮かべ、からかうように言葉を口にした従兄弟を見て、始が一瞬だけ表情を強張らせる。幸い茉理に気付かれずに済んだが、内心では苦い表情を浮かべていた。
 誉められたと思えば、悪気なく落とされる。何気ない一言で乱高下する心をひた隠し平常心を保っているように見せかけるそれが、にとっての日常なのだと認知させられた。そして、落とされた話題が話題なだけに、きっと心中は穏やかではないのだろう、それでも表情の一切を崩さないの姿が痛々しく目を伏せる。
「違うわよ、相談されただけ。続さん困ってたわ、が返事を引き延ばすから」
「うん、でも……もう少し考えさせて欲しいんです」
 戸惑いの表情を見せるに、茉理は確かに2人の問題ではあるけれどと言葉を濁す。
「そんなに焦る必要もないだろう」
も始さんも悠長ね。ちょっと続さんに同情しちゃう」
 軽く肩を竦めると茉理はお代わりの麦茶を注いだ。
 その隙に始はを盗み見たが、特に何の変化も見られず苦笑を浮かべているだけで、これが先程まで自分と話していた少年と同じ人物とは思えないと眉根が寄る。
 とても見ていられない。けれど、これ以上この場に留まってもを慰める事など出来ないと目を閉じ、ゆっくりと椅子を引いた。
「ごちそうさま。それじゃあ、おれはそろそろ帰るよ」
「え、もう?」
「家に書き置きをしてなかったからね。不機嫌な続が家にいるのなら、終と余が帰って来る前に帰らないと」
「ああ、確かにそうかもしれないわね」
 茉理は笑ったが、事態を改善出来ない故の適当な言い訳をは見抜いたのだろう。
 今迄と変わらない態度で緩く笑い、お裾分けの野菜を渡すついでに玄関まで送ると言いながら席を立つと、始も茉理に挨拶をして小さな背中に続いた。
「そんなに見てられない?」
 角を曲がった先の廊下で、ダイニングに残った茉理には聞こえないようにが囁いた。
「出来れば慣れ欲しいな、始さんが挙動不審だとおれが疑われるからさ」
「精一杯努力するよ」
「うん。でも、胃に穴が開いて倒れない程度にね」
 振り向かず、背中を少し丸めて笑った少年に始も笑って返した。
 が表に出す一つ一つの言動が、始の独占欲を刺激し、ゆっくりと満たす。たとえ恋愛対象ではなくても自分にだけこの姿を晒してくれる優越感に浸っていると、あの歪んだ視線が喜びを含んだ状態で始に注がれた。
「同族なんだね」
「何がだ?」
「おれがこの姿晒してから、嬉しそう。始さんも独占欲強いでしょ」
「どうにも、そうらしいな」
 言いながらは手にしていた重い袋を押し付けて、靴を履き玄関に立った始を上目遣いで見つめる。若干腰を屈めている所があざといなと思う一方で、色気は全く感じられないその仕草に、まだ少年なのだなと安堵と罪悪感を同時に覚えた。
「ね、始さん。2人きりの時だけ、始って呼びたい」
 ドアを開ける音に阻まれそうになったそれを拾った始は、少し考える振りをしてからを手招きする。
 サンダルに履き替えるという素でも律儀な面を見せつつ始の前に立った少年の顎に手を添えて了承のキスをした。ただ唇を合わせるだけのそれだったが、顔を引いてを見てみると驚いた表情をしていた。この顔も久し振りに見るなと、今迄気付けなかったそれに胸を痛めながらも、悟られないよう親指で柔らかな頬をなぞり誤魔化す。
「返事は分かっただろう?」
「分かり過ぎだけど。酷いなあ、ファーストキスは続さんにあげようと思ってたのに」
 意外にロマンチストな一面を見せつつ、まあ一番目も二番目も本人に言わなければ大して変わらないけどねと言って背伸びをしながら始の唇にキスを返す。
「でも、キスって気持ちいいんだね。唇を合わせるだけなのに」
「誘っているのか?」
「家族がいる自分の家の玄関で? 違うよ、ただの、素直な感想」
 矢張り誘っているように聞こえる文句を吐き出したに何か言うべきかと考えたが、結局、さよならも何も言わずに扉を閉めり事を選択した。
 外は来た時と変わらない快晴だったが、始の目には、その青が普段と少しだけ違っているように映った。