微睡鳥の繭籠り
気を失っていたのだろうか。慣れない事をした所為で、体が痛い。痛い? どうやら、まだ、生きているようだ。
そうだ、あの竜王は、連行と言っていた。殺されるのは、もう少しだけ先だろう。
「……あ」
声を出そうとしただけで、体が軋む。
もう翼を動かす気力もない。
「可愛い声で鳴きやがって。これが本当に竜の一族を虐殺した男か?」
「馬鹿いえ、鳳凰のくせに紅竜王様と互角に戦った化け物だぞ」
言うほど私は竜を殺してなどいない、そして、力は互角ではなかった。紅竜王は連行すると告げた、初めから殺すつもりなどなかったから、生き延びた。
私は誇りにかけ、負けると分かりきった戦いの中で、自らの役目を全うしただけだ。
「おい丁重に扱えよ。罪人だが表向きは賓客なんだ」
「その辺分かんねえよなあ……何で紅竜王様はその場で殺さなかったんだ?」
「何でもこの男、西王母様のお気に入りらしいぜ」
そんな事、知らない。
西王母、あの太真王夫人の母親、崑崙の女王か。噂でしか知らない仙女だ。そんな人物と顔を合わせた事なんて一度もない。声を聞いた事すらない。鳳凰の長ならまだしも、私は名も与えられていない端くれだ。
「ふうん、まだ未熟だが、確かに綺麗な顔してやがる」
「そういう意味のお気に入りじゃない」
「分かってる、冗談だ」
「どうだか」
未熟なのは、知っている。綺麗な顔を、しているのだろうか。
私が見た事のある自分の顔は、水面に歪んだものか排除者の瞳に映る醜いものくらいだ。ああ、けれど、夢の中の私の顔は、綺麗だと呼べるかもしれない。あの、南の竜王ほどの美貌ではないが。
「でも何でその西王母様のお気に入りが、あんな辺鄙な場所で魂を守ってたんだ?」
「さあな、お偉方の考える事は分からんよ」
柔らかい布の上に、体が下ろされた。
これは話に聞く絹というものなのか。肌触りが気持ちいい、また眠ってしまいそうだ。
「さ、おれたちの役目は終わり。ここからは保身に走った方が身の為だ」
誰かがそう言って、部屋の扉が閉まる。
今は何時だろう、というよりも、ここは何処だろう。
会話から推測するに、竜王の宮殿だろうか。
多分そうだ、そうなると地上の、崑崙の時間感覚では判らなくなってくる。こことあそこでは、流れる時間がまったく違うはずだ。いや、違うのは人界だけだっただろうか。それすら、私は知らない。知らなくても生きて行けた。
時間をかけて布を手繰り寄せて包まり、長い間微睡んでいると、外で、気配がした。
「……誰?」
横になったままではと、手足を突っ張ろうとしても起き上がる事は叶わず、辛うじて出せた掠れた声に反応して入ってきたのは、あの竜王だ。
南海紅竜王。
相変わらず美しい力を持っている秀麗な顔立ちの青年。
「あれだけの攻撃を受けて、よく生きていられましたね」
「貴方が手、加減したから……生きて、捕らえるよう」
「ええ、命じられました。中途半端に強いので殺さないよう苦労しましたよ」
「仲卿!」
叫んだのは、紅竜王とは違う、それでも美しい声と力だ。
「大哥」
「あまりこの子を苛めるな、ただでさえ力を使い果たして弱っているんだ」
「しかし大哥!」
「状況が変わったんだ。分かっているだろう」
大哥と呼ばれた青年が私を見た。身に纏う色は青。竜種の長の色、紅竜王の兄か。
ただ、何故そんなにも辛そうな目で私を見ているのかが分からない。私は彼にとって、そんなにも哀れな存在なのだろうか。
「わ、たし。は」
「無理をして喋らなくてもいい。今はゆっくり休んで傷を癒しなさい」
「私は、何時、処刑されるのですか」
出来る限り、早い方がいい。
もう、私に生きる意思などない。死を覚悟して、禁を犯し、竜に盾突いたのだ。
生きる意思のない者は、存在を消してしまえばいい。それが、自分でも。
「……君は、死にたいのかい?」
「捕えられ。勤めを、果たせない以上、生きる意思も意味も、ありません」
何故、この竜はこんなにも優しく私に話しかけるのだろう。
何故、この竜はこんなにも私を憎んでいるのだろう。ああ、それでも、こちらの目は、見覚えがある。私が退けてきた神や人と、同じ目だ。
「私は。貴方の大切な、誰かを、傷付けたのですか?」
「ええ」
「許せませんか?」
「ええ、この場で殺してやりたいくらいには」
この竜王は、この神は本気だ。
本気で、私が殺した人を愛していた。きっと、この感情は、友に近い者として。
友か? 友に対する感情を知らない私が、何故そう言い切れるのだろう。友どころか、誰も、何も、持ち得なかったというのに。
「ならば殺してくださいという顔をしていますね。望み通りそうしてあげましょうか?」
「仲卿! いい加減にしないか!」
何故、彼が私を庇い、怒るのだろう。そのような、気質なのだろうか。
王として生き辛そうな、優しい長だ。
「……すまない、あの中に親しい友がいたんだ」
憤慨して出て行ってしまった紅竜王を庇いながら、彼は言う。
「あ、なたは」
途端に、咳込んでしまった。
咽喉に違和感、それに口に広がる塩の味と口端を流れる鉄を含んだ液体に似た赤。ここまで、私の体は摩耗しているのか。
ならば、このまま死んでしまえばいいのに。
「咽喉が切てしまったね。後で薬湯を持ってこさせよう、しばらくは喋らない方がいい」
喋らなくても私の言わんとしている事が理解出来るのだろうか。竜が? 鳳凰を? 理解など、出来るはずがないのに。
大きな手が頭を撫でて、思考が中断する。
何故だか、泣きたくなるくらい、とても懐かしかった。
「私は……いや、号の方が分かりやすいか。東海青竜王に封じられている。伯卿と、字で呼んでくれ」
温かく力強いその瞳に、私の名前を尋ねられた気がした。
「すまない。君には、名前が無かったね」
どうして、それを知っているのだろうか。
青竜王は、私以上に私という存在を知っているのか。
「今は何も考えず体を休めるといい」
それだけ言って、青竜王は部屋を出て行ってしまった。
鍵も掛けずに。掛けなくても私が出ない事を知っているのか、それとも他に何か目的があるのか。いや、無さそうだ。
賓客というのは、どうも、嘘ではないらしい。状態は軟禁だろうか、それでもこれは罪人の扱いではない。
「……ねむりたい」
手の中を流れる絹が本当に気持ちいい。
このまま体を深くに静めて、また眠りたくなってしまう。
再び微睡み始めた意識を止める術などない。
死ぬ前の時間は惜しくない、やりたい事はすべてやった。というよりも、やりたい事がないので、悔いもない。
二、三疑問があるが、気に留める程の事でもない。
自分よりも他人の方が自分の事を知っているなんて、よくある事だ。きっと。
眠い。残り少ない時間は、あの夢の続きを見たい。苦く、幸せな夢を。
『なあ、聞いたか?』
『何を』
風に乗ってきた、顔も知らない男の声。
普通の神ならば、ただの風の音にしか聞こえないそれも、私にははっきりとしたものに聞こえた。そういえば、ここはあそこと違い、不快な雑音が多い。
受け答えしたのは、先程、私をここまで運んできた男の一人だ。
『さっきお前が運んでた鳳凰だよ』
『ああ、あの綺麗な顔した……で、そいつが?』
『なんでも俺達に怨恨があるって話だぜ、お前よく無事だったな』
恨み。
そんなもの、知らない。
『無事も何も、相手は正真正銘ただの大怪我した、少なくとも形は子供だったからなあ。はっきり言って紅竜王様と剣を交えて死ななかっただけでも信じられない奇跡というか』
『わっかんねえぞ、恨み持った奴は死にかけでも信じられない力出すって話だし』
『だから何なんだよ、その恨みってのは』
『それがな』
男は声を潜めた。
それでも、私には聞こえてしまう。聞いてしまう。
『あいつの居た集落、随分昔に酒に酔った竜種の末端の輩に潰されたらしい』
『本当か? そんな素振り見せなかったけど』
『噂程度だけど事実だと思うぜ、年寄りどもが挙動不審だったし……それを見て興味半分に問い詰めた奴が言ってたからな』
『んな事してると青竜王様が黙ってないぞ? あの鳳凰の事、気に掛けてたみたいだし』
『それがそもそも変なんだよ』
そうだ。確かに変だ。
紅竜王に出会った時から思っていたが、無名の鳳凰相手に何故竜王が出て来るのか。どうせ、死ぬのだから深く考えてはいなかったけれど。
『確かに、言われてみれば』
『だろ? 青竜王様って情に厚いというか、徳のある御方だから、そういう所凄く気にするお人柄じゃないか』
『紅竜王様は知っているのか? あの御方は敵に同情しないから』
『いや、知らないと思う』
その男は言い切った。
敵に情けをかけぬ紅竜王に同情される程、私は哀れなのか。
『紅竜王様だって、根は優しい方だからな』
『なに、紅竜王様に同情される程酷い目に遭ったのか? あの鳳凰』
『ああ。なんでも、竜に潰されたその集落の中で、年端も行かない子供と、やっと目も開いたくらいの赤ん坊が生き残ったんだとよ』
しばらくの沈黙、男が、どうやってと尋ねた。
『親が逃がした、ってわけでもなさそうだし』
『大人は全員殺されたらしい、しかも無抵抗で。大半の子供もそんな感じらしいかったんだけど、その子供は違った……抵抗して、逆に竜を殺したんだ』
『出来るのか!? ……っ、鳳凰の子供に、そんな事』
『出来るらしいぜ、相手が末端の竜だった事もあるけど鳳凰は潜在能力が並じゃない、それに生き残った内の片方は確か王族の遠縁らしくてな、霊力も桁違いにあったらしい。まあ、状況からしてお前が運んで来た方だろうけど。あいつらが根っからの不殺生主義じゃなかったら、天界の力関係も随分変わっていただろうよ』
違う。
鳳凰は主義で不殺生を掲げているのではない。不殺生を本能に組み込まれているのだ。誰に強要される事もなく、生き物を殺さない事が自然である事だと生まれた時から植え付けられている。そして、それに越したことはないと、鳳凰は誰もが思っているはずだ。
人が土を食わないように、鳥が水から生まれないように、花が空から降らないように、鳳凰は殺生をしない。それが当たり前なのだ。
何者の命も奪う事が出来ない。だから、普通の鳳凰は自らの死を選ぶだろう。
でも、私は?
私は、抗った。役目だとか誇りからだと思っていたが、本当は違うのだろうか?
『で、あいつはどっちの子供なんだ?』
『赤ん坊の方さ。竜を殺した方は罪人として、鳳凰の長の命で竜に差し出されて碌に申し開きの機会も与えられずに処刑された』
『酷い話だな』
その言葉に、吐き気がした。
こんな同情なんて、いらない。お前たちは竜であって、鳳凰ではない。
『酷い話だよ、何でも処刑はあいつの目の前で執行されたらしいし。もしかしたら、自分を守った子供の首が飛ぶところを見たのかもな』
それは、よくわからない。覚えていない。
でも、見たのかもしれない。だからこそ、あの最初の竜を殺した時、それほど辛いと思わなかったのかもしれない。あの時は、ただ、殺してしまったと漠然と思っただけだから。
一息ついて、男が言った。
『一人生き残ったあいつはたらい回し。行く所がなくて西王母様に拾われて、あそこで陰界との扉の番をしてたらしいが』
『その生き長らえた命も、もうすぐ終わりか。なんか因果を感じるよな、あいつも竜殺しで竜に処刑されるし。考えてみたら、可哀相な奴だな』
『まあな。話によると反魂する為にあそこに行った奴等に殺されそうになったから殺しただけらしい、殺されたやつの位だって、どれだけ甘く見積もっても中の下だ。おれたちにとっての正当防衛も、あいつには認められていないんだよな』
『殺すくらいなら死ね、か。おれ竜種に生まれついてよかったよ』
『まったくだ』
あとは、男たちの笑い声に、雑音。
急に世界が無になった。
けれど、それでも竜を憎いとは思わない。
幼い頃のそれは記憶にないし、殺される覚悟はないが死んでもいいとは思っている。きっと、遥か昔に竜殺しで殺されてしまった名も知らない鳳凰も、死に悔いはなかったはずだ。
むしろ、死にたいとさえ、思ったのかもしれない。
私は誇りのために、禁を犯して竜を殺した。本心は未だ見付けられないが、その言い訳が成り立つ。けれどその子供は、一瞬でも生きたいと思ってしまったのだろう、そして手が動いてしまった。
処刑されるまで、本能と罪の意識に苛まれて、要らぬ同情と中傷で心も体も傷だらけだったに違いない。
私は、どうなのだろう。
罪の意識はある、けれど、苛む程のものではない。
苛まれる前に、逃げているのかもしれない。夢の、あの心地いい空気の中に。
処刑される前に、もう一度、誰かに名前を呼んで欲しい。だから、夢を見よう。
夢さえ見れば、誰かが、幾らでも呼んでくれる事だろう。