曖昧トルマリン

graytourmaline

微睡鳥の繭籠り

 目前に、作られたばかりの死体の山がある。自分が作った事をすぐに思い出した。
 五彩の翼や細い体にまとわりついた血臭に意識を飛ばしていたのだろうかと、力の入らない体を無理やり動かす。平衡感覚が戻っていないのかその場で胃液を吐いた。
 長槍を杖にして、這う様に壁まで来ると、そこに背中を預ける。
「また、あの夢か」
 昔から、毎日のように見ている夢。裕福で幸せな家庭の末子として生まれた自分によく似た少年が見せる、もしもの夢。
 自分の知っている世界とは何一つ似ても似つかないのに、妙な現実感を持ったそれに惑わされる。巨大な烏の群れが目の前に降り立ち、赤い粒子にならなかった死肉を貪っていく様から目を逸らし、高い壁の上方を見上げた。
 そろそろ、扉を開かなければいけない時間だ。
 扉の鍵に触れる、そして、無音の、滝が逆流したような光景が広がる。
 日々、数え切れない程の魂がここに辿り着き、そして陰界に消えていく。
 自分の役目は、その魂たちを守る事。この世の鬼から、あの世の亡者から、そして、愛しき者を失い、その哀しさの反動故に黄泉帰りを行おうとしている神仙の手から。
 血液ではなく赤い粒子を流す体質の人界外で生を得た世界の者は、数年から数千年、待っていれば、陰界から魂魄が解き放たれ、再び肉体を得るのだという。なのに、何故彼等は返魂を行おうとするのか。
 自問したところで、答えなど出ようはずもない。
 最後の一筋が天に上るように地に下り、今日の職務に終わりを告げる。
 ただ、扉を開け、閉めるだけ。たったそれだけの職務を、あと幾度行えるのだろうか。鳳凰に連なる一族には絶対の、不殺の掟を犯し続けてしまった自分は、何時死んでも、殺されても、おかしくはない。
「私が悪いのだ」
 鳳凰らしい言葉が口から出た。
 けれどきっと、これは自分の本心だろう。
 どれほど理不尽な理由で殺されそうになっても、相手を殺してまで自分の身を守る事が許されないのは、おかしいのではないか。それが自分の意思ではなく、遠い祖が決めた事ならば、尚更。そう考えても、血と肉に刷り込まれた掟を裏切れない。
 相手を殺すぐらいなら殺されろと言われているようなものなのに。
 物心付く頃からここで、この役目を果たし続け、幾度となく死にかけた。殺したくはないが、死にたいわけでもなかった。寧ろ生きたかった、これもまた生物としての本能だった。
 だからその全てに従い、誰も助けてはくれないこの場所で、水と野草と自己の治癒力だけに頼り、生き長らえてきた。
「それももう、終わりですか」
 数夜前に最初の一人を殺してから、自分は生きる意思を失った。
 結局、どんなに思考して何故不殺などを守る必要があるのかと理性で抗おうと、一族の掟には逆らえない事を悟った。所詮自分は、雁字搦めに縛られた鳳凰なのだと。
 竜の、裁きを行う戦神の近付く気配がした。しかし、数が予想していた量ではない。
「……一匹だけ?」
 しかも弱々しい力しか持っていない、低位の、恐らくは三本爪の竜だ。
 散策か、それとも迷い込んできたのか、こんな、仙界の中でも陰界の狭間に位置する、辺境と呼ばれる場所を訪れるとは。
「違いますね、これは」
 その竜を遥かに凌ぐ見事な力が、もう一つ。
 それは竜というよりも、もっと自分に近い、鳥族のそれに似ていた。
「太真王夫人」
 泰山に住む鳥の女神にして崑崙を治める西王母の末娘、知っている事といえばそれくらいだ。何度かここを訪れた鳥たちによれば、水界の五本爪の竜と親しいと聞く。
 彼女が間に立ち、今更、和平交渉など行われるはずもない。鳳凰一族に定められた不殺の禁を破った者に待ち受けているのは理由を問わず死だ。ならば、鳥たちの異変に気付いてここまできたのだろうか。
 どのような理由があるにせよ、最早全てがどうでもよかった。
 眼前にまで迫った竜は緩やかに大地に体を下ろし、目の前の同胞たちの亡骸を見て一声吠えた。音と共に、最後の粒子が宙へ散り、魂達が扉に迎え入れられる。
 同胞、そうだ、同胞だ。嘆き悲しんでいる様子に、自分が殺した者たちは、竜種の出身であった事を思い出す。
「貴方が、やったのですか?」
 神仙の死に慣れていないのだろう、顔を青くしながらもまだ美しい女性が自分に尋ねた。
「はい、私が殺しました。動かないでください、危ないですよ」
 一歩踏み込もうとした様子と見て取り、利き手をは逆の腕で腰の短刀を抜き、一足飛びに距離を詰め、美しい喉元に突き付ける。
 勿論傷付ける気なんて毛頭ない。尤も、心の方までは保障出来ないけれど。
「貴方は、鳳凰ではないのですか?」
「鳳凰ですよ。五彩の翼も、生えているでしょう」
 綺麗な肌だった。
 できれば傷付けたくない程、美しい魂だった。けれど、短刀を引けない。今彼女を自分と同族と認識させては駄目だと、あの気が高ぶり始めた竜に崑崙の権力者を攻撃させる訳にはいかない。竜の目は既に殺気立ち理性は血に染められ、鳳凰も鳥の女神も何もなかった。
「鳳凰は」
「何者も殺してはならない。殺生は一族最大の禁忌にして裏切りだと、知っています」
 けれど仕方がなかった。
 だって、殺してしまったのだから。
 だって、殺してでも、その手を止めたかったから。死んだ者を黄泉から帰らせるくらいなら、生きた者を黄泉に送った方が、その方が幸せじゃないか。
 そう、思い込んだ。理性で脳に、そう思い込ませた。
「何故、殺したんですか?」
「殺されそうだったから」
 それだけではないが、そうでなければ殺すはずもない。この女神は、自分を何か別の狂人と勘違いしているのだろうか。もしもそうならば不名誉だ、けれど、訂正の必要などあるのだろうか。
 そもそも、自分の保持する名誉とは何だろうか、今に至るまでずっと、なにも持ち合わせてなどいないのに。自分は、伽藍堂だ。
 なんだ、訂正など、どこの誰にも必要とされていないではないかと、笑いながら懐かしくもない思い出に浸る。
 今までの相手も弱くはなかった。けれど、殺さずに済んだ。
 けれど、竜は強かった。あれは騒乱の中で生きる強力な戦神だ。力も、想いも、とても強くて、殺さなければ殺された。もし一族の掟に従い自分が死んだとしても、残された魂達が汚されてしまう。
 最初の一人を殺してから、生きる意思はなくなかったが、それでも役目を貫く誇りはあった。今思うと、もしかしたらそれは言い訳で、どうせ死は決定させてしまったからという開き直りであったのかもしれない。
「……ッ! 後ろ」
 声に導かれ、生暖かい血が翼を濡らした。
 利き手に持っていた長槍が三本爪の竜の口腔を貫いて、脳に達している。
 短刀を下げ槍を引き抜くと、更に赤が溢れて女神の服も赤く染まってしまった。数夜前に殺した女性の事を、思い出す。
「何故、教えたのですか?」
「……」
「この竜は、貴女を助けようとしていたのに」
 嘘だ。
 この竜は同胞たちの骸を嘆き、怒り狂い、自分を殺そうとしていた。それだけだ。復讐に塗れ、目の前の女神なんてどうでもよかったのだ。
「貴方は、一体何なのですか?」
「鳳凰だと、先程申し上げましたが」
 自分が口に出したことが、私に危険を知らせたことが信じられないのだろう。
 彼女は、白く、震えていた。
「ですので、鳳凰に干渉しないで下さい。私は竜とは違い、神でありますが神ではないのです。そして私自身は個であって、決して全ての鳳凰がこうであるわけではない」
 短刀の柄を振り上げて顎を打ち上げると、女神は気を失った。
 どうにも、彼女の言葉と表情は、それに乗せられた感情は脳に響く。鳥の女神だから、だろうか。いや、もっと違う。
「ああ、やっと到着ですか」
 先程の竜の慟哭を聞いたのだろうか。斥候、偵察、特使。結局、あの三本爪の竜はどれであったのだろう。
 大きな竜種の力の塊がこちらに迫っている。鳳凰たった一人に、大したことだ。
「……どこかで見たことがあると思ったら」
 気を失った女神を横にして、その顔を見る。
「似ているんですよ。夢の中の、私の姉に」
 そう、名前は確か。
「発見しました! 此方です!」
「太真王夫人!?」
「貴様! 太真王夫人に何をした!」
 まあ、名前など、どうでもいいのだ。終わりがやってきた方が遥かに大事なのだから。
 しかし、この地が騒がしく、そして更に血に染まることを扉の向こうの魂たちは許してくれるだろうか。ほとんど、空っぽになったばかりの、扉の先の魂達は。
 どのみちもう遅いが、心の中で許しを願ってみる。
「退きなさい」
 人垣の奥から裂くように響く、静かな、冷たく美しい男の声。
 聞き覚えがあると感じたのは、気のせいか。
「姓は敖、名は紹、字は仲卿。天界にあって南海紅竜王と号をえたり。鳳凰に定められし不殺の禁を破り、我が一族の者をこのような姿にしたのは汝か」
「如何にも」
 本来ならば、作法に則り名乗るべきなのだろう。
 けれど、私は自分の名前を知らない。名乗る程の者でもない、ではなく、私自身の名を知らないのだ。誰にも呼ばれることはなかった、不自由した事もなかった。
「我が一族の長の命により、これより汝を連行する」
「撥無致します。私には私の役目が御座います故」
 そうして、私は槍を構えた。
 無論目の前にいる五本爪の竜種の王に勝てる見込みなどまったくない。それでも、一族掟より自らの誇りを取ってしまった以上、途中で投げ出す訳にはいかなかった。
 でなければ、今まで私の奪った命も。ただの奪われ損になってしまう。
「鳳凰の端くれが竜王に勝てるとお思いですか」
 勝つ。勝つとは何だろう。
 ただ自分の誇りを貫きたいが為の我儘で、私は此処で槍を構えたのだ。
 悔いはある、けれどもう時間はない。
「参ります」
 返答はせず、そう言って、私は大地を蹴る。
 ふと、その瞬間誰かに呼ばれた気がした。
 竜王の顔が近付くにつれ、それは耳鳴りのように何度も繰り返し頭の中に響いてくる。どれだけ距離を詰めても輪郭すら捉えられないのに、秀麗で、今まで見てきた中で最も美しい顔立ちをした男だと分かっていた。
『……
 
……目、……して……』
 ああ、こんな時に、意識が飛ぶ。またあの夢を見るのか。
 、それが私の名前。誰にも呼ばれる事のなかった私に、与えられた名前。
 長槍と剣の噛み合う音がして、その切ない思考も一瞬で消えてしまった。
 一合目で力の差がはっきりと示された。穂が斬り飛ばされなかったことが奇跡のように思える。この竜王の手に掛かれば、本気でなくとも打ち合う間もなく自分の首が宙を飛んでいただろう。
「何故、汝は剣を振るうのか」
 鳳凰であるにも関わらずと、余裕のある声で、南の竜王が尋ねてきた。
 表情も、顔も、よく見えない。ただ、地上と天上の誰よりも美しい事だけは知っている。
「己の誇りと、奪ってしまった命の為に」
 私が微笑ったのを、彼は見たのだろうか。
 竜王は逆光の中でひどく驚いた顔をしていた。
 そして唇を動かし何かを叫ぶ。
「……君!」
「っ!? こ、」
 危うく驚いて紅竜王と叫びそうになった自分を抑え、は寝転んだまま部屋を見回してみた。藺草の香り、和室に布団、自由奔放と横書された額縁。何処を切り取っても、自分の部屋ではないと脳が判断を下した。
「ここ、って」
 寝ぼける暇もなく現実に引き戻された頭で、昨日はもう遅いからと従兄弟の家に泊まった事を思い出し、目の前にある続の顔に鼓動を早めながら布団から身を起こした。全身から汗が流れ落ちる。
 夢と現実の境がなくなり掛けていた事を自覚して、パジャマの袖で汗を拭いながら早鐘を打つ心臓をなんとか宥めていると、再度、続の顔が視界に入った。
「魘されていましたよ、怖い夢でも見たんですか?」
「え、あの……いえ……」
 顎に手を添えられ上を向かされて、強制的に続の顔を正面から見る形になったはどのように言い逃れようかと働かない頭で思案した。
 は、夢の話を他人には話さない。この従兄弟達ならば、もしかして受け入れてくれるかもしれないと何度となく思ったけれど、踏み出せずにいる。
 夢の中で、仲間ならまだしも、彼の立場はそうではなかった。
「大丈夫、です……少し、嫌な夢だっただけですから」
 無理に笑って見せても、続は納得してくれない。
「どんな?」
「その……」
「こらこら、続さん。朝からを苛めたら駄目よ?」
 音もなく扉が開き、ヒヨコマークの可愛らしいエプロンを着込んだ茉理が起き抜けの弟の傍まで歩み寄る。
「苛めていませんよ。むしろ、その反対です」
「あら、そうだったの?」
 続と茉理が笑い合い、も困惑した笑みを浮かべた。
 ついさっきまで夢の中で剣を向けていた相手が当然のように自分の隣にいる事が、針のような痛みを胸に与える。
「心配しないでください、続さん。夢見が悪かったくらいで」
「あんなに魘されていたのにですか」
「そんなに酷い夢だったの?」
 姉と従兄弟からそう言われ、どうしても夢の内容を話さなければ解放してくれそうにもなかったので、は挙動不審に視線を逸らしながらも、なんとか都合のいい嘘はないものかと古典映画や小説のパターンを思い出しながら切れ切れに口を開いた。
「両手に……チェーンソーを、持った大きな甲胄が。奇声を上げながら追いかけて来て」
 たったそれだけだが、一瞬、2人の表情が固まり、行動が静止する。
「悪夢でしたね、怖かったでしょう」
「大変な夢を見たのね。
 同情の含有率が著しく高い声に、は言い逃れが出来た事を知り安堵した。
「じゃあ、私まだ朝食の準備の途中だから行くけど。いい、? どんなに辛い夢でも所詮は夢なんだから後ろ向きになったら駄目よ?」
「え、あ。はい」
 それだけ言い残し食堂まで下りて行ってしまった茉理の後ろ姿を眺め終わってから、続に着替えるからと断りを入れ、はゆっくりと立ち上がった。
 支度を済せて食堂へと足を向けると、彼が一番最後だったようで、姉や従兄弟達が一斉に同情の視線を向ける。特に同い年の余などは食事の席でもずっとの事を心配し続けたくらいだ。
「大丈夫ですよ。おれの夢は、ただの夢ですから」
 心配そうに自分を見上げてきた余にそう言って、一向に湧かない食欲を隠しつつ朝食を口にする。
 それからは、また平穏な日々の始まりだった。
 食卓に会話と笑いが溢れ、他愛もない話題がテーブルの上を飛び交い、さして重要ではない、どうでもいいような事ばかり話し続けて、やがて時間が迫る。
 いつも通りの平和な日常。ただ、その中で一体誰が気付いていただろうか。
 始の表情だけは、明らかに周囲に合わせて作られていた事を。