微睡鳥の繭籠り
の姉、鳥羽茉理のものだ。
「変ですね。姉さん、今日は遅くなるって言ってたのに」
「予定が変わったんじゃない?」
「そうかもしれませんね」
大して気にしない様子で2人はただいまと同時に言いながら居間に顔を覗かせるが、そこに従姉妹であり姉である茉理の姿はなかった。よくよく鼻を利かせると、台所からいい香りが漂ってくる。
今日は早く上がれたのか、夕刊を広げている始は末弟にも従弟にも気付いた様子はなく、代わりに軽やかな足取りで階段から駆け下りてきた終が2人の背後から挨拶を返した。
「おかえり、余。それにも」
「ただいま終兄さん」
「お邪魔しています終さん。今日はご機嫌ですね。いい事でもあったんですか?」
質問した後で、今日で高等科の考査が全て終わった事を思い出したは、どのような手応えだったかと、いつも通り返されるはずの言葉を待つ。
「手応えありの文句なしだな、今回も赤点一歩手前で……!」
言い終わらせない内に、鈍い音が終の頭から発生した。
見てみると丁度その頭の頂点にと余の背後から伸びた腕が、特大の拳骨を食らわせている。竜堂家の三男坊にこんな事をする人物は、一人しかいない。
「始兄さん」
「始さん」
先程まで新聞を読んでいた始だったが、さすがに年少組の会話が耳に入り現実に戻されたのか、読みかけの新聞を片手に廊下に出て横着な弟を叱咤した。
「胸を張って威張るな。余やが真似をしたらどうするんだ」
「大丈夫だって、一朝一夕で身に付けられる技術じゃないからさ」
「あのなあ」
毎回の事なので既に怒る気もない、といった表情だったがそれでも一々教師根性が反応してしまう竜堂家の長男に末弟と従弟は笑い合う。
「終さんの言う通り、大丈夫ですよ。山を張るのは兎も角、毎回赤点の1点上なんて技術は真似したくても出来ませんから」
「ぼくも終兄さんみたいに器用じゃないから、普通に勉強する」
「な、始兄貴。大丈夫そうだろ?」
「何でお前が得意気なんだ」
「そうだ、でも聞いてよ兄さん。、考査の成績トップだったんだよ」
「えー、またかよ」
「そう嫌そうな顔をしないでください。これで相応の努力はしているんですよ?」
声を立てずに笑いながら軽口の押収をする年少組の姿を眺めていた始は、背後に2人分の気配を感じ振り向いて、不機嫌そうな顔をしている弟に苦笑した。
続からへの告白は、竜堂家の人間と茉理が知っている。そして、今も返事が貰えていない事も勿論。
「そんな怖い顔をしていると貰える返事も貰えなくなるぞ」
「分かっていますよ」
そう返事はするものの、声色は険があり眉間の皺は取れていない。
元々続は竜堂家全体から見た価値観を優先するので、家の方針に迎合するのならば個人的には物事全般にそれ程執着を見せない。家訓と続の気質が相俟って気に食わない物や嫌いな物は多いが、逆に好きだと断言できる物は片手で足りる程度なのだ。
しかし、だからなのか一度目を付けると歯止めが上手く効かず、強くそれにのみ固執する人間だという事も始と茉理は承知していた。
「でも、いつまでも答えを保留しておける程、気は長くないんです」
「そう言ってやるな。たまにはいいじゃないか、精々悩んでみろ」
「兄さん、他人事だと思って面白がっていませんか?」
普段、兄と茉理の仲をそれとなく揶揄している立場だからだろうか、敬愛している兄に諭されても続の言葉の険は取れない。
普段は対立しない長男次男のやり取りを見て、続の隣で茉理が笑う。
その茉理が弟の視線に気付いて微笑すると、も余と終に相手されながら同じような表情を浮かべた。その隣いた続にも笑みを向けるが、すぐに視線を逸らされてしまう。
茉理の手伝いでもするのだろうか、碌に挨拶もせずに食堂へと消えてしまった。
「虫の居所が悪いみたいですね」
「そんな他人事みたいに」
表情を変え、飄々と笑うに余が呆れたように声を掛ける。
茉理も困った様子で笑い、微妙な距離感の2人を一緒にさせない為なのか、テレビでも見ながら休んでいなさいと買い物袋を受け取って去ってしまった。
「、早く返事した方がいいぞ。続兄貴そのうちキレて何するか分かんないし」
「返事ですか。簡単に、出来れば困らないんですけど」
あまり困った様子もなく笑う従兄弟はテレビのチャンネルを変えながら、面白い番組でもやっていないかと探しているようだった。
ただ、その視線は画面を見ておらず、なにか思案しているような面持ちだったので終も余も何も言わずに、を置いて茉理の手伝いをする為に食堂へと向かう。
これ以上人数が増えても邪魔になるだけだろうと始だけはその場に残り、10歳年下の従兄弟の頭に手を置いて視線を向かせた。
「悩んでいるのか?」
「こう見えて、色々と難しいお年頃なんです」
掻き回されるように髪を撫でられ猫のように笑うに、始は難しい顔をして黙り込む。
「でも、おれってそんなに悩み事と縁がなさそうに見えますか」
「そういう訳じゃないんだが」
背格好の割に幼い円らな瞳を向けられ、始は首を横に振った。
はぐらかすような煮え切らない態度を受けてなのか、微かに少年は目が細めて、今までのどれにも似ない笑みを浮かべた。それを見た始の心の内が僅かに軋む。
「」
「なんですか?」
「……なんでもない」
「なんですかそれ」
テレビの電源を落としたは軽く伸びをしてから、変な始さんと言って居間を出た。
長い廊下で誰の目からも完全に死角となるとの目から感情が失せる。それでも笑顔を保ったままの顔は、能面のようにも見えた。