曖昧トルマリン

graytourmaline

clutch

 小雨が降り続ける空から放たれる薄暗い光が視界に入り、が眩しさに目を覚ましたのは午後を過ぎたばかりの時間だった。
 二度寝をしたにも関わらず体調が芳しくないのは昨日の所為だろうと微かに頭痛のする額を手で覆いながら起き上がり、耳を澄ませる。今日は母と姉が家にいるはずなのに、階下には人の気配がない。
 ダイニングまで下りて食事を摂る気にもなれず、三度寝をしようかと頭が枕に戻る。時計の秒針の音だけが虚しく部屋の中に響き、自分が本当に一人だという事を嫌でも感じさせられ吐き気が込み上げた。
「嫌な事、思い出した」
 鼻を啜り溢れた涙をパジャマの袖口で拭って夢の世界に逃げようとした矢先、玄関の扉が開く音を耳にする。家族とは様子が違う、まさか強盗かと不吉な考えが一瞬過ぎったが、それよりも大きな可能性に気付いた。
「続、兄さん?」
 耳を澄ましていると、躊躇せず階段を上ってくる音を微かに拾い上げ、はその足音の重さから彼だと確信する。途端に胸の疼きが激しくなり、吐き気が襲い掛かってきた。脂汗も浮かんでいて、張り付いてくるパジャマが気持ち悪い。会いたくないという心が体にまで表れていた。
 このまま時間が止まってくれればどれだけ気が楽になるだろうと馬鹿げた願いが思い浮かんだが、続の足音は少しずつ近付いて来て、止まらない。
「こんにちは。君、起きていますか」
 控え目に叩かれるドアと、起床を確かめる声。
 ここで狸寝入りしても続が帰ってくれる訳でもない。そう割り切って、彼は起きていますよと平静を装い返事をした。
 いつもより遠慮がちに聞こえる気がする続の声に、もう終わりなんだなと悟ってしまう。
 ドアノブが回って、扉が開く。その向こうには、続が1人で立っていた。
「茉理ちゃんから聞きましたが、大丈夫ですか?」
「……ええ、大丈夫です」
 いつも通り微笑して、いつも通りの口調で返すと続の形の良い眉が顰められた。姉は何を何処まで言ったのだろうと返答をした後で考えるが、その思考を遮るようにして続の手が頬に触れた。
 この手が昨日、自分ではない誰かに触れ、抱き締めていたのだと嫉妬が心を侵食するが、悲しみの呼び水になるばかりで怒りは一向に湧いてこない。涙を流さないくらいには、諦めきれているのだとは俯きながら自分の内面を手に取った。
「無理をしないでください。今だって、こんなに汗をかいて。顔色も」
「本当に、大丈夫ですから」
 やんわりとした口調で返すは袖で汗を拭い、立ちっ放しの続に椅子を勧めた。いつもは彼が勉強の為に使っている、続からしてみれば少々窮屈な椅子だ。
 低いそれに腰掛け、なんとなく机の上を眺めてみると一冊の本が目に入ったようで、嬉しそうに目を細める続に、の内側が悲しみに沈む。
「この本」
 この視線が、いつもは自分だけに向けられている目が、あの時は違う人間に向いていた。
 もうぼくは君のものではありませんよと告げられたようで、は溢れ出そうになる涙や嗚咽を必死に外に出さないよう押し込める。
「偶然、見付けたので」
「覚えていてくれたんですか」
「本当は明日、渡そうと思ったんですけど」
「手間が省けましたね」
「そうですね」
 白く美しい手が本を取り、おもむろに開いたページを指先で撫でてから、閉じて元の場所に戻した。
 続は座ったばかりの椅子から立ち上がり、半身を起こしているの隣へと移動して額に張り付いた髪を同じ指先で払う。そのまま目元を擦ると、薄皮を剥がしたような痛みにの表情が歪んだ。
君」
「はい」
「……泣いていたんですか、昨日」
 ああ、遂にかとは覚悟を決め、ゆっくりと首肯する。自分が泣いていたと姉から連絡を受けたからこそ続は直接会いに来たのだろうから、誤魔化しは無意味だと腹を括った。
 続になら話せると言ったのは自分だから、と。
「続兄さん」
 いつもと同じように笑えているだろうかと不安になった。
 多分、笑えているはずだ、続の表情はいつもと変わらないから。そう自分に言い聞かせながら、は決して視線を離さないよう気を付けながら、引き攣る喉を宥める。
 心の準備を終えたの違和感に、続も気付いた。そもそも、何故彼は二人きりなのに続を兄さんと呼んでいるのか。
君?」
「続兄さん。ぼく達、別れましょう」
 鷹揚とした、いつもと変わらない表情を作り上げては言った。