clutch
休日の朝早くに電話が鳴る事など滅多にない。まだ脳の半分しか起床していない終が首を傾げながらも受話器を取ると、聞き慣れた優しい女性の声がもう半分の脳を活性化させる。相手は従姉妹の茉理だった。
「おはよう茉理ちゃん。何かあったんだよな、こんな朝早く連絡するって」
『おはよう、その声は終君ね。大体正解かな、続さんに代わって貰えるかしら』
「続兄貴! 茉理ちゃんから!」
間違いなくこれは絡みだな、と直感で内容を悟った終は、食堂で朝食の準備をしている続を大声で呼び出し、静かになさいと小突かれながら電話を代わった。
「もしもし」
『おはよう続さん、今日予定空いてるわよね』
「ええ」
茉理にしては珍しく挨拶もそこそこに単刀直入に尋ねられ、余程の事がの身に起こったのかと続の目付きが鋭くなる。
後ろの方では蚊帳の外に置かれた兄弟達がそれぞれ歯を磨いたり顔を拭きながら、一体何事かと電話の内容に聞き耳を立てていた。そんな事をしなくても後で聞けばいいのだが、気になるのだから仕方ない。
『お願い、に会って、話を聞いてあげてくれないかしら』
「君に何かあったんですか?」
茉理が相手という事もあり、出来るだけ焦らず、声を荒げないように尋ねると、肯定の言葉が受話器から聞こえた。
『あの子、昨日の夕方から様子がおかしいの。人混みに酔ったって頑なに言ってたけど、一人で泣いていて。何があったのか続さんになら話せるみたいだから』
「分かりました、では10時頃にはそちらに」
『それは、少し早いわ。お昼過ぎに来てくれないかしら、午前中は父がいるから。母とは相談して、夜まで帰らないように取り計らったから』
「……そうですか。では、1時に」
茉理に打ち明けられず、自分には開示出来る、泣く程の悩みとは一体何だろうと思案しながら電話を切る。すると、見計らったように余が双子の弟ともいえる少年の身を心配して兄を無言でじっと見上げた。
実姉にも言えない事を、従兄に言えるだろうか。そして、知られたがるだろうかと続は数秒考え込んで、内容をやや曲解して説明する事にする。
「ぼくに話したい事があるそうです。昨日、久し振りに人混みで酷く酔ったらしいので、大方それだとは思いますが」
「そうなんだ」
命や健康に関わるような大事ではないと分かった余はほっと一息吐いて、少しだけ難しそうな表情に変えながら両腕を組んだ。
「茉理ちゃんが連絡するって事は、また倒れて吐いちゃったのかな」
「かもしれませんね。お昼過ぎに君に会いに行ってきます」
末弟を心配させないように軽く頭を撫でながら告げ、年少組はお見舞いの言葉をそれぞれ続に言い渡すと、茉理ちゃん今日はフリーだろうからデートに誘ったらと長兄を冷やかしながら食堂へと消えていった。
話題に乗り遅れ一人困惑する始を他所に食堂に向かって解散する年少組を見届けてから、続は声を立てずに笑い、共に残された兄を見上げる。
「の人酔いは治ったものだと思っていたんだが」
「余君曰く、全校集会の解散時ですら人酔いをする君、だそうです」
共和学院の中等科規模の集会で酔うと聞いた始は、この先、あの小動物じみた従弟はこの日本の都市部で生きていけるのかと不安を覚えた。
「がそれで、よくデートが成立するな」
何処へ行くにしても大変だろう、と心配性を垣間見せる兄に、弟はそうでもないですよと艶やかに笑う。
「酔わないんですよ」
「は?」
「だから、ぼくと一緒にいる時だけ、君は酔わないんです」
その笑顔は心から嬉しそうで、始は二の句が継げなくなった。
きっと、は弟に会う度にこの笑みを向けられていたのだろうと考えると、兄としてそれは少し寂しくもあり、同時に嬉しくもある。
「兄貴達! 先に食べちまうぞ!」
「ぼく達が栄養失調になったら、続兄さんの所為だって明日に言いつけるからね!」
腹を空かせ早く早くと鳴き喚く年少組に、年長組は顔を見合わせて笑い、ゆっくりとした足取りで食堂へ向かうのだった。