clutch
「ちょっと、人混みに酔って、あ……牛乳、忘れた」
「そんなのいいから。お風呂入れているから、先に入りなさい」
目に入った光景が忘れられず、雨に降られながら徒歩で帰ったを、茉理は驚きの表情で出迎えた。
投げられたバスタオルで肩から下を少しずつ拭いながら、濡鼠の弟をどうにかすべく慌ただしく駆け回る姉の姿を黙って見つめる。賑やかで暖かな家の中に入っても、日常に返って来たとは、残念ながら思えなかった。
「早く服脱いじゃいなさい、風邪引いちゃうわ」
玄関ホールで棒立ちしているに指示を出した後で茉理は何事かを言いたそうに眉を顰めたが、兎に角体を温める方が先だと優先順位を決めたのだろう。乾いたタオルや新聞紙を手に明るく振る舞いながら弟を脱衣所に押し込んだ。
服を脱ごうとした直前まで本を抱えたままだった事に気付かなかったは、腕のそれに八つ当たりはせずそっと棚に置く。丁度浴槽が満たされた事を告げる音が鳴り、浴室に入るなりシャワーに切り換えて、熱いお湯を頭から浴びた。途端に、誤魔化しきれなくなった涙が溢れてくる。
「、着替え用意したからね」
扉越しに掛けられた気遣うような声にも返事が出来ず、仕草だけで大きく頷いた。しばらく茉理の影は浴室のすぐ外から動かなかったが、やがて、再度声を掛けられる。
「姉さんは駄目?」
「……」
「お母さんも?」
「……うん」
「続さんになら、話せる?」
「……できる」
シャワーを止め、涙を堪えながら返答し、月曜日会うからと跡切れがちな声で意思表示をすると、の言い分に納得出来たのか、茉理はそこから静かに去った。
困らせるつもりはなかったのにと心の中で感謝と謝罪を行い、ゆっくりと浸かった浴槽の中で力を抜く。
「最初から嫌だったのかな」
恋人にならないかと誘いを掛けたのは続が先だが、惚れたのは、多分自分が先だとは遠い昔の記憶を掘り起こした。尊敬や憧れから始まり、好きだと自覚してからの態度は、あからさまだった。従弟としては嫌っていないから大人として少し付き合ってあげよう、そう考えての行動だったのかもしれないと、そこまで考えて、でも、だったらキスはしないだろうと自分の考えを否定した。
ならば、好きだったのは本当だったのだろう。ただよりも魅力的な女性が現れた、それだけだ。それだけだが、せめて、推察や自然消滅ではなく、正面から別れを切り出して欲しかったと再び涙を流す。
今になって思い返せば、昨日見た笑顔もどこか作ったような笑みだった気がするとは今更ながらに感じ取った。
待っているという言葉も、本当は言いたくなかったんだろうなと自嘲して湯気でいっぱいになった浴室の天井を見上げた。
「そうだよね、女の人の方がいいよね。男なんて、嫌だよね。歳下で、恋愛も全然慣れてないし、赤ちゃんの頃から知ってる従兄弟だから」
自分に言い聞かせるようにしてから、は自分の腕に爪を立てた。
「なんで、こんな風に生まれたんだろう」
姉のように女性に生まれていれば、続ともう少しだけ年齢が近ければ、他人の心情に敏ければ、ないものねだりをしながら嗚咽を漏らし、咳き込む。
どうやって従兄弟に戻ればいいのだろうと考え、何時ものように続兄さんと呼べばその内それが、自分の中の本物になるだろうかと目元を拭った。
恋心と共に言葉を吐いて、吐き出し尽くして、それで胸の中が空っぽになったらまた、また、どうするのだろう。また好きになってしまうのだろうか。
「だって、好きなんだ。続が、好き」
恋心が昏く歪んだ欲望になる未来しか見えず、けれど蓋をするしかないのだと幼い理性で総てを捻じ伏せる。本当に好きならば、その人の幸せを願うのが当然だろうと、良い子ちゃんの理屈で雁字搦めに縛り付けた。
続が好きだと、愛していると心から舌に漏れた分が浴室の中に散らばるのを聞きながら、の意識は今も雨が降る外へ向かう。
そうして、名前を呼んだ。
「続」
名前を呼ばれて、我に返る。
勿論それを表情に出す不手際は晒さない。いつの間にか先輩という敬称すら削られ呼ばれている事にも気付いていたが、敢えて口に出して指摘する事はなかった。
「ねえ。続、なに考えてるの?」
「君の事ですよ」
雲と雨粒が陽光を遮る暗い路地の中でも十分に美しく見える青年は眉一つ動かさずそう告げると、結局最後まで名前で呼ばれる事がなかった女子生徒は何故と食って掛かって来た。
「続の前にいるのは、わたしなのに」
「ええ、そうですね。卑怯な三流の策でぼくと歩く事になった貴女です」
あらかじめ決められていたかのようにその場で足を止めた続は、何気ない仕草で女子生徒の腕を振り解いた。我慢の限界である。元々続は、その優美な外見に反して気が短い、ここまでよく耐えたと続自身も思っている。
また何か文句でも言おうと口を開いた女子生徒の表情が固まった。
「自慢じゃありませんが、ぼくは家族の中で一番短気なんですよ」
口調は相変わらず丁寧で穏やかだったが、その双眸に宿した冷たい光が、女子生徒には怖かった。一介の大学生が持ち得るものではない。
狩人でも、獲物を見つけた獣でもない。それは矜持を傷つけられた王のものだったが、果たして、彼女にそれが理解出来ただろうか。
「それに、卑怯で姑息な手を使うのは大好きですが、されるのは不快なんです」
手加減をして軽く手の平を動かすと、簡単に女子生徒の体はバランスを崩し水溜りの中に転がる。歯も頬骨も無事で、精々、掠り傷数カ所に頬が腫れて鼻血が出た程度という、竜堂家の人間の気分を害した者にしては破格の待遇だった。
「貴女は君を傷付けようとした。そんな人と半日も一緒にいて、心中穏やかでいられるとお思いですか?」
「写真、写真のデータはいいの!?」
「ああ。やりたいのならどうぞ、お好きになさってください。近頃、学院長ご家族や親族の悪質なコラージュ写真が何処かから出回っているらしいと、噂を流しておきましたから」
「あ、あの子がどうなっても」
「どうもなりませんよ。貴女の趣味仲間とやらは、その所業に相応しい場所に居ます。そちらの手札は以上ですか」
表情と態度で肯定した女子生徒に、続は冷めた視線を突き立てる。
肩の骨を蹴り砕いてやろうかと思ったが、既にその必要はないらしい。国家権力に属する成人すら気に入らなければ排除する続に、小知恵が回る程度の未成年が太刀打ち出来るはずがなかった。
それでも、彼の怒りは治まらない。彼女は、文字通り竜の逆鱗に触れたのだ。
「彼に何をしようとしましたか?」
「や、やだ。ごめんなさい、ごめんなさい!」
「そうやって君が叫んでも、きっと嘲笑したんでしょうね。悪趣味だと思いますが、同じ目に遭ってみますか?」
そこまで続が言うと、濡れた音を立てて女の体が地に落ちた。
何もしていない、ただ恐怖に耐えかねて気絶しただけだ。
「聞こえないとは思いますが、言っておきます。貴女が無傷で帰れるのは、大怪我した貴女を見た君の反応を考えたからです、そうでなければ今頃、両腕を引き千切ってますよ」
崩れた女の体を一瞥して、続は踵を返した。
この地帯は決して安全とは言えない。誰にも手を出されなかったのは、この界隈には既に続の高い攻撃性が噂ではなく事実として広まっている故だった。抑止力である続が現場から離れた場合、運が良ければ彼女は無傷で帰れるが、可能性は限りなく低い。しかし、それくらいの報復はあってもいいと思った。
大きな通りに出て、雨はいっそう激しさを増し続の肩を叩く。
頭からずぶ濡れになった後で、傘をあの場所に置いてきてしまった事に気付いたが、元々あれは続のものではないし、取りに帰りたいなんて思わない。
「この程度で風邪はひきませんよね」
水を滴らせる前髪を指先で整えながら、ふと、昨日のの笑みが目に浮かぶ。
「早く会いたい」
続には、月曜の夕方が待ち遠しかった。