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「姉さん、出かけるんですか?」
「でも中止、屋外だから。こそ支度して、何かあるの?」
両親は相変わらず働き詰めな為、共に生活力のある姉弟で昼食を取った後の事だ。薄手の上着を羽織り、玄関の方へ歩いて行く弟は大した用ではないけれどと前置きしながら軽く首を横に振って、古書店に行ってきますと行き先を告げる。
「行ってらっしゃい。遅くなるようだったら連絡してね」
「はい。夕飯は向こうで適当に食べてきますから、帰るついでに牛乳も買って来た方がいいですよね」
「じゃあ、お願いしようかな」
姉弟と呼ぶよりは家族同士の会話をしながらは携帯と財布をポケットに入れ、傘を差して雨の中を歩き始めた。
休日だけあり駅まで続く道にはカップルや友達同士の群れが溢れていて、それでも今日は雨なので楽な方だと自分に言い聞かせる。晴天の時は散歩も兼ねてと言い訳しながら古書店まで徒歩で向かい、偶に始と鉢合わせになるのだが、今日はどうだろうと考えながら電車に揺られた。
いきつけの古書店に顔を出すと、始の姿はなかったが、顔馴染みの壮年の店主が笑ってを出迎えた。
鳥羽君がいない間は寂しかったよ、若い子がいてくれるのは華やいでいいね、と気難しい人間が多い古書店の経営者にしては親愛の情を全面に出してくれる店主の言葉に笑みで返事をして、奥の棚へと足を運ぶ。
有線の放送を聞き流しながら気になったタイトルを手にとっては斜め読み、数十冊目の本に手を出そうとして、体が空腹を訴えた。
腕の時計を見ると店に来てから結構時間が経っている。書痴である始程の速度で本を読めないは、次の本は無理だと今手にしている本を抱えた。足も少し痛くなって、そろそろ座りたいなと体の方も主張している。
店の外の雨は止む気配がなく、仕方なさそうに棚と棚の間の細い通路を歩いて行く。レジに出した本は、今正に自分が読もうとしていた本以外にもう一冊、いつか、続が読んでみたいと言っていた本だった。
明後日持って行ってみよう。もしかしたら、もう読みたくなくなっているかもしれない。それならそれで、自分が読むからいいと、恋人の姿を思い描きながら傘を開き、紙袋に入ったハードカバーを見下ろした。
「……あれ」
パラパラと傘に弾かれる雨音にすら消されそうな呟き。
大きな道路を挟んだ向こうに、見慣れた影があった。
「続、女の人と一緒にいた?」
声に出したくないのに、声が響いて、視覚と聴覚でその事実を確認してしまう。
自分が見間違えるはずがない。それでも、今のは違っていて欲しかった。瞬時にの脳内に駆け巡った感情に背を押され、行くはずのなかった方向へ足を動かす。
2人は、通りを隔てた幼い追跡者に気付かないまま傘に肩を寄せ合うように入っている。隣の女性はあの日、水族館で続に言い寄って来た人間だと知りたくもない事を探ってしまっていた。
「続、苦手って言ったのに」
腕を組んで歩いていた。とても幸せそうに、女の人は笑っていた。多分、続と一緒にいる時の自分もあんな幸せそうな顔をしていたのだろうとは思い、腕の中の本を握った。
指先が冷たい。感覚がない。
「何処、行くんだろう」
見て見ぬ振りが出来る程、は器用な人間ではなかった。そして、そんな自分に吐き気を抱えながら、追わなければよかったと後悔した。
続と、名前も知らない女性は周囲の雑踏を避けるように細い路地へと入って行き、そのまま視界から消えてしまう。健全な場所ではないからは行かないようにと、何時だったか一緒に古書店を出た始が苦笑しながら注意をしていた方向へ。
当時のはその不健全が意味する所を、分からないまま頷いた。
けれど、今は違う。
「……そうだよね。ぼく、男だから」
確実に、浮気ではあるのだろう。けれど、は怒りという反発ではなく、悲しむという形で納得してしまった以上、続を責める気にはなれなかった。
歳の離れた子供で同性という面倒な自分よりも、釣り合いが取れる年齢の近い異性がいいのだ。ずっと抱えていたも不安は、続の行動によって肯定された。
「ああ、好きだったのになあ」
2つの影を見送って、が呟く。
耳を澄ましても、雨音は意識の遥か彼方に追いやられ届かなくなっていた。