曖昧トルマリン

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clutch

 昨日から続の様子がおかしい。正確には、一昨日から。
 が余経由で恋人の不調を聞いたのは昨日の朝、家の事情でどうしてもその日は予定を空けられず、ようやく今日竜堂家を訪問出来た。
 ただいま、と余につられて言ってみるが、室内からは反応がない。不思議に思い顔を見合わせると、そういえば何で玄関の鍵がかかっていたのだろうかと居住している方の少年が口を開く。
「おかしいな。続兄さん、いるはずなんだけど」
「出かけたんじゃないんですか?」
「まさか、だってが来るって言っておいたのに」
 スリッパを履いた足が廊下を走り、居間と、二階の部屋に急いで向かっていった。その間には玄関の靴を確認するが、続が普段履いている靴が見当たらない事に気付く。
 矢張り何処に出掛けたのだろうと当たりを付け、食堂まで上がり温かいお茶を淹れていると、一通り家の中を探し回った余が首を傾げながら戻って来た。
「……あれ、本当にいないや?」
「きっと急用が入ったんですよ。買い物かもしれませんけれど、続兄さん、アルバイトもしているんでしょう?」
 大学生なのだから家族に何も告げずに出掛けたくらいで大騒ぎする必要はないだろうとは穏やかに言って、先に宿題を片付けましょうと2人分のお茶請けと湯呑を盆に乗せ居間へ足を向ける。
 誰にも告げず恋人を放置するような兄ではないのだが深く考えても答えが出そうにない状況なので余も後を追い、仲良く2人でリビングのソファに腰掛けた。がお茶を、余が宿題を用意する。
 英語の教科書を開くはそれでも何処か恋人を心配している素振りを見せ、時折庭の様子を眺めたり、玄関の方へ耳を澄ませる。余はそれを見る度に数学のノートに書き込む手を止め兄の帰宅を願ったが、その気配は一行にない。
 それから、どれくらい経っただろう。
 終が帰って来て、宿題が終わって、茉理がスーパーの袋を持った始を引き連れて帰って来て、それでも続は帰って来ない。夕飯になっても姿を見せないとなると、流石にだけでなく始も心配しだし、昨日からの不調もあり何かトラブルに巻き込まれたのではと弟の身を案じ始めた。あてもないのに探しに出るべきか否かの結論を家長が出せず、恋人は心配を隠しきれない表情のまま洗い物をしている時に、ようやく続が帰宅した。
 始が、遅くなるなら連絡しろと言い掛けようとした声が途切れ、代わりに階段を上る音が微かに聞こえる。すぐ後に、困ったような表情を浮かべた茉理と始が食堂に入って来てに尋ねる。
、続と何かあったか?」
「いいえ」
「だよなあ」
 真面目に即答されて、始はやや乱暴に髪をかく。
「疲れていましたか、続兄さん」
「そうだな。ただ、体調不良ではないみたいなんだが」
「続さんが心中穏やかじゃなくなる理由なんてくらいだと思うんだけど。とりあえず、夕飯温め直して持って行ってくれないかしら?」
 姉にそう言われて、少しの間考え込んだは了承すると温め直した夕飯の残りをトレイに乗せ階段を上がっていった。
 続の部屋は、も竜堂家に泊まる時よく利用する部屋で、付き合い始める前からよくここで同じベッドに潜り込み色々な話を聞かせて貰っていた。
 体格の関係もあり流石に今は同じベッドという訳には行かないが、それでもの布団は常にここにある。
 小学校の低学年の時は姉や歳の違わない兄と一緒に寝ていたが、前者はさすがにいつまでも同じ部屋でそうしていられない、後者は浮遊する夢遊病者捕獲の為、が起きてしまう事態が頻発し、今では続の部屋に落ち着いている。
 ちなみに始の部屋は本で埋まっている場合が多々あり就寝不可、終の場合は部屋がどうこうよりも終以外が満場一致で反対したという微笑ましくない経緯もあった。
「続兄さん、入りますよ?」
 その、通い慣れた部屋のドアをノックして、返事がなかったら引き返すつもりだった。
 けれど返事はあった。入室の許可も。
「夕飯、食べられますか?」
 ドアを開けながらそう尋ねると、部屋の明かりもつけずベッドに座って何か考えている続は小さく首を縦に振る。
 トレイを机の上に乗せて、やっと自由になった両手で部屋の明かりを灯した。続の視線は下がったままだった。
「食べ終わるまで、ここにいても?」
 再び続は頷く。
 それからは、重苦しい沈黙だけが続いた。は食事をする続を見る事もなく、ベッドの端の方に座って窓の外をぼんやりと眺めている。
「……君」
「はい」
「泊まっていくんですか?」
「いいえ、帰ろうと思います」
 ほっと溜息が聞こえた気がした。いや、聞こえた。
 何故安堵するのかとは尋ねる事もなく、また、不安を抱いた様子もないまま勝手に結論付ける。続だって、家族や恋人に言いたくない事があったり、一人になりたい時があるのだろうと。
 食べ終わったトレイを下げ立ち上がったは、また俯いて何か思案を始めた続に出来るだけ微笑して口を開いた。
「続」
「なんですか、君?」
「来週の月曜、また来ますから」
「……待っています」
 短いが、恋人としての言葉に続も微笑して、やっとの好きな雰囲気を纏う。
 けれど、それは少し無理をした笑いに見えた。
「待っていますから」
 部屋の扉を閉める寸前、祈るような声で聞こえたその言葉はの気のせいではない。
 トレイを持って食堂に戻り、従兄弟達にはもう少しそっとしておけば大丈夫と伝えて、彼は再び洗い物を始める。が言うのなら大丈夫だろうと4人共納得した風で、その場は解散となった。
「……」
 そうして残された続の元に、水を流す音が届いた。
 が点けていった光の中で続は顔を上げて、机上のカレンダーを見る。今は金曜の夜、約束の日は明日。それで全てを終わらせる、この苛立ちも、全部終わらせる事が出来ると組んでいた指に力を込める。
 最初は、その場を繕う為に約束だけをして、当日行くつもりなどなかった。に目を付けていたという男も、ついさっき、続なりの方法で説得を終えたばかりだ。そして、女子生徒も同じようにと思い、気が変わった。
 許せなかったのだ。を盾にした事を腹の底から後悔させたい、そう考え始めたら苛立ちが止まらなくなり、の顔を見たくて見たくて、見たくなかった。だから訪問する事を知っていて、その上で家を空けた。
 けれどさっき、の顔を見て続の気分は幾分か和らいだ。
 心配する瞳は変わらない、じっと距離を置いて、何があったかも尋ねない。短い時間だったが、続の心は随分楽になった。
 最後に言ってくれた言葉が、心地良く耳に残っている。
 待っているという言葉を返した時、は何を思ったのだろうか。ベッドから立ち上がり窓の外に視線を向けると、丁度、茉理と一緒に帰路につくの姿が見えた。
 気付くはずもないのに、自嘲しながら、それでも続は手を振ってみる。すると、も手を振って、笑った。
 彼もまた、去る寸前まで恋人の事を考えていたのだ。
「ああ、好きになってよかった」
 2つの影を見送って、続が呟く。
 耳を澄ますと、いつの間にか水の流れる音は止まっていた。