曖昧トルマリン

graytourmaline

clutch

「もう帰って来たの?」
 ただいま、という2人の声を耳にした途端にそう言ったのはの姉、鳥羽茉理だった。
 居間から急いで出て行った従姉妹に、一体何事かと本を読んでいた始もその後を追う。
 対して、年少の2人は兄達の甲斐性のなさに軽く溜息を吐いて、ソファの上で大人しく待機する道を選択した。どうせ玄関まで駆けて行っても、居間にいても、結果に変わりはないと言いたいのか、特に見るものもないままチャンネルを延々と回しつつ事の次第が判明するまで立ち上がる事すらしない。
「ただいま帰りました。姉さん、始兄さん」
 一方、迎えに出るというある種の不毛な選択をした茉理は、おっとりとした表情を湛えている弟から帰宅の挨拶を受け、どうしたものかと内心頭を抱えつつ返事だけは誤魔化さずにはっきりと口に出した。
「おかえりなさい……じゃなくて、どうしてこんなに早く帰って来たの?」
「お昼を食べて来ましたから、それ程早くはありませんよ」
 話が噛み合わない上に、にっこりと笑われて、茉理は二の句が継げなくなる。
 生まれてこの方13年の付き合いになる弟なのだが、少し抜けているように思えてしまうのは、しっかり者の母か自分が原因なのだろうかと悩んだ。家事全般の段取りや腕前を見る限りは要領が悪いタイプではなく1人でも不自由なく生きていけるはずなのだが、どことなく他人を心配させるような子供っぽい気質を帯び言動を取るのが原因なのだろうか。
 怒りというよりは呆れとやるせなさ含んだ視線で続に何か言おうと視線を移してみると、その気配から何か理由があるらしいと瞬時に悟り、そして同情した。
 後ろから弟と従弟を眺めていた始は気付いていないようだが、そこには茉理も続も敢えて触れない。色恋沙汰の微妙な変化を見極める目を持っているのならば、次男以下の弟達は何かと裏工作して茉理とくっつけようとする必要など、とっくの昔になくなっている。
「そう、ならいいけど。丁度良かったかな、そろそろお茶にしようと思ってたの」
「そう思って続兄さんと一緒にお茶菓子買って来ました」
 何故その気配りが恋愛事になると限りなくゼロに近くなるのか問い詰めたいのをぐっと堪え、茉理は姉の顔で手を洗ってくるようにとやんわり笑いかけた。
 母親よりも母親らしい姉の言葉に弟ははにかんで洗面所へ行き、次いで居間に駆けて行って、テレビの前から動かなかった2人に向かって明るく挨拶をする。
 しかしの手で齎されたその明るさも長くは継続しなかった。茉理の手伝いの為に出て行ったと交代で現れた続が不貞腐れた表情をありありと見せ、ソファの上で寛いでいた年少組は諦観じみた感情を隠す事もなく視線を交わす。
「余の努力も水の泡かあ」
「でも喧嘩した訳ではなさそうだよ」
「じゃあ誰かが横槍入れたんだろうぜ、自称・続兄貴のファンとか」
「終君、黙りなさい」
 不満が爆発し不機嫌全開ですぐ下の弟を名指しする続に、声を潜めて話していたはずなのになんて地獄耳なんだと年少組は肩を竦める。
「続、あまり八つ当たりはするなよ」
「分かっています、兄さん。でも腹が立つんです」
 やっと謳歌出来ると思っていた恋人との時間に水を差された事が大層不愉快らしく、口を尖らせる弟に兄は苦笑して、今度は何があったのかと尋ねる。
 自分の恋愛事もそれくらい機敏に動いて優しく察してやれよ、とは終は言わず、唯一の弟と一緒に事の成り行きを静かに、生暖かく見守っていた。
「大学の後輩に邪魔されたんです。君は気付かなかったみたいでしたけれど、ストーキングまでされたので切り上げて帰って来ました」
「そいつはご苦労様」
 たった一人の人間の所為で散々な日になったと気怠い表情をしていても、お茶菓子を持ったまま茉理の背中から顔を出したを発見すると何事もなかったように笑いかける。切り替えの早い兄だと弟達は無言で感想を共有するが、当人は意に介さずお茶菓子を並べ終わった恋人を呼び寄せ肩を抱くも、何故か窘められる。
「兄さん達の前では止めてくださいと言っているでしょう」
「外では積極的なのに家では駄目なんて変わっていますね。普通は逆ですよ」
 至極真っ当な羞恥心の指摘を受け、そう言われればと思わずその場にいた全員が納得してしまった。思えば、は人目を気にしなくていい竜堂家内で戯れる事を制限している。
 外とはいってもそれなりに人目を憚って行動しているが、逆に言えば人目さえなければ腕を組んで歩いたり抱き締める事は拒絶せず、キスすらも強請っていた。
「分かってないわね、続さんも」
「姉さん」
 困惑している弟の為に、湯呑を持った茉理が助け船を出す。
 温かいお茶を年齢順にそれぞれの前に置きながら、首を傾げる四兄弟を少しだけ楽しそうに眺めた。これは現在進行形と未来形で、色恋沙汰に悩む従兄弟全員に救いの手を差し伸べなければいけないかな、とも思いながら。
「続さんだって誰も知らないをひけらかしたいでしょ? でも誰にも見せたくない」
「ええ、まあ」
 この場合の誰も知らない、には身内が含まれていない事を視線で確認しながら、続は曖昧に首肯した。
「そういう独占欲がの中にもあって葛藤してるのよ。ね、?」
「……」
 姉からの言葉を受けて返した短い沈黙を、その場にいた全員が肯定と取る。
 弟の腕の中で分かりやすく紅潮したを見れば、幾ら恋愛鈍の始だって分かった。
 だからいつもの癖で苛め過ぎたら駄目よ、と姉の顔で忠告する茉理に、内心を見透かされた続は苦笑して小さな体を離す。
「でもさ、だからって家で拒否する理由にはならないだろ?」
 その方が気が楽だけどさ、と付け加えられなかった言葉を汲んだのは兄弟の内の誰であったか。底の抜けた柄杓の如く汲む事に失敗した代表のは、しかし、平然とした表情で爆弾を投げて水底そのものを抜いた。
「だって、両方共欲しいんです。恋人としての続兄さんも好きですけれど、従兄弟の続兄さんも大好きですから。だから家では従兄弟として付き合っていたいんです、外で従兄弟をしてると誰かに取られちゃいますもん。続兄さん、素敵な人ですから」
 頬を赤く染めたままの浮ついた口調と惚気けた言葉であるはずなのだが、恋人と従兄に対する独占欲と、他人への嫉妬と牽制が一緒くたに織り交ぜられた発言に、一瞬、居間は得体の知れない空気で満たされた。
 続ばかりが恋に未熟なへ重量級の愛を捧げていると思われていた所に、この幼子は真正面から受け入れていた挙げ句、身内への親愛が上乗せされて返していると返答したのだ。誰だって次の言葉を探してしまうのは致し方ない事だろう。
 数秒後、適当な回答を探し出せなかった次男坊は突如席を立ち、そして、何処かへと消えてしまう。には見えなかったが、顔を逸らした側に座っていた始と茉理にはに負けず劣らずの赤い顔で照れていた姿がはっきりと見えた。
「どうしたんだろう、続兄さん」
「心配しなくても大丈夫よ、でも、追いかけたいのならそうした方がいいわね」
「うーん……うん、そうする。ありがとう、姉さん」
 の中でどのような結論が下されたのかは不明だが、感謝の念を述べながら軽い足音と共に居間を去って行く。
 別に喧嘩をしている訳でもなし、平和の中で恋人達の関係が深まるのならそれでいいかと各々自身を納得させた身内達はそれぞれのペースでお茶菓子をつつきはじめ、なんでもない話に花を咲かせる。
 その後、残された2人分の茶菓子を続の部屋へ差し入れに行くべきか否かという議論が勃発したものの、誰もが馬に蹴られたくないとの結論に達した事は、語るまでもない。